2001更新記録

大晦日
01/12/31 (月)
 火曜日にサーバー移転のためファイルを移動させたのですが、誤って掲示板を丸ごと削除してしまいました。バックアップを一度もとっていなかったため、ホームページ開設当初からのログをすべて失ってしまいました。これには自分のうかつさに腹が立つとともにがっかりしてしまいました。書き込んでくださったみなさま、どうもすみません。新しい掲示板を設置しましたので、気軽に書き込んでやってください。
 今日は大晦日ということで、ホームページトップにフラッシュの画像で謹賀新年のご挨拶をいれました。

 2001年を振り返って
 今年は長崎を主なテーマにしていて、永井さんのページ更新が進みませんでした。永井家や生家の松平家についてや、詳細年表などなど不完全なままですので、これは来年の課題です。
 ご来訪くださった皆様へ
 マイナーなテーマを扱っている上、やたらと史料の引用が多くけっして楽しいページとはいえませんが、訪れてくださってありがとうございました。
 
 管理人の独りごと
 来年もあいかわらずマイペースだろうけど、やっぱり来訪者参加型のページ(遊び系)もやっぱり必要かな・・・。

 皆様よいお年をお迎えください。

開国
2001年12月24日
 先週に引き続き「開国」に関する史料を更新しました。
【更新内容の補足】
 弘化元年(1844)阿蘭陀国王がアヘン戦争勃発と、蒸気機関の発達、工業の発展など世界情勢の大きな変化から、日本にたいし開国を勧める直書を送りました。それに対し翌年日本側が送った返信には、阿蘭陀とは通商はあるが、通信は結んでいないので、その意には感謝するが受け取れないので内容に対する返信はできない。また今後は一切こういった文書を送られても、違法になるので受け取れないと拒絶するものでした。
 八年後、阿蘭陀はふたたび風説書以外の日本に対するメッセージ、”米国艦隊来日”についてを提出しようとしました。この文書は国王ではなく、ジャワ総督の信書でしたが、やはり日本側は前回と同様の理由で受け取れないと通告しました。しかし、返信を求めないなら受理しても良いという長崎奉行の意見を使者が口頭で伝え、これに対し阿蘭陀側は、日本側が内容を知るだけでも良いと判断し受けいれました。結果、幕府は信書を受け取りましたが、ペリーの来航に対する手立てを模索することなく、その予告自体が深く秘匿され、翌年ペリー艦隊を迎えることとなりました。 通報した阿蘭陀側は、幕府の要請があればすぐに応じる用意がありました。
 
開国 阿蘭陀東印度会社ジャワ総督からの警告文書(上)
2001年12月16日
 阿蘭陀から米国艦隊来日について知らせる文書が日本へもたらされたのは嘉永五年です。「阿部正弘事蹟」に掲載されていたこの書簡の内容を、全文ではありませんが読み下し文にしてアップしました。
 ところで、以前紹介した阿部さんの愛でたおとよについてですが、「青年宰相阿部正弘」森本繁著 に書かれていた内容を紹介します。
 このおとよさんは向島長命寺で桜餅を売っていた二代目山本屋金五郎の長女で、天保十一年生(1840)まれ。安政四年に出た江戸名所百人美女という錦絵に描かれているそうです。錦絵にも描かれるほど美しかったおとよだけに、思いを寄せたのは阿部さんだけではなく、御三卿の田安家慶頼もその一人だったそうで、強力なライバルの存在を知ると早々に石原の別邸に引き取ったようです。安政三年のことでした。
 しかし、翌年六月に阿部さんは亡くなってしまいます。当時おとよはまだ十七歳でしたがそのまま阿部家にとどまり、維新後に生家へ帰ったそうです。残念なことにその後のおとよさんについては書かれていませんでした。
開国 阿部正弘と琉球貿易
2001年12月9日
 先週はいろいろと忙しくて更新を休んでしまいました。この調子だと年内に阿部さんのテーマを終われそうにないですね。本も図書館から2度延長して借りてるから、そろそろタイムリミットだし、焦ってます。(^^;
阿部正弘
2001年11月25日
 少しですが、阿部正弘について更新しました。
 もし、阿部正弘があんなに早く亡くならなかったとしたら、歴史はどうなっていたんでしょうか。もっと良い形で政治体制の転換が行われていたかもしれないと想うのは、私だけではないかも・・・・。
丙丁(へいてい)
2001年11月19日
 永井尚志と、岩瀬忠震二人の書簡を紹介しましたが、この二つは大変対照的です。
 忠震の書簡は爽快というおくりなそのもので、さわやかな一風を彷彿とさせます。それにたいし、永井さんの書簡は、情緒的で、細やかな心配りとともに純粋で人の良い印象を受けます。内容についてはともかくとして、是非読み比べてみてください。
阿部正弘の人脈
2001年11月11日
 阿部正弘の人脈図を作りました。
 阿部正弘の先妻、後妻の二人はそれぞれ福井藩主松平春嶽の叔母、養女にあたります。
 図からも判りますが、阿部正弘の人脈と松平春嶽の人脈はかなり重複しています。この春嶽もとても興味深い人物ですね。
 この春嶽が書いた随筆が全集の四巻に収められています。この中には當時の幕府内部のしきたりや風聞などが書かれていて、当時のお殿様の生活や幕府内部の様子がわかります。
 このなかの「雨窓閑話稿」にめずらしい江戸城での昼食の話が書かれていましたので紹介します。
 
 老中から諸大夫布衣以上には昼の食事が出された。老中若年寄、側衆へは丁寧な料理だったが、その他の役へは、台所の旧弊で玉子焼きなどは薄くて、一人前の料理代ほどもかからないようなものだった。これは調理人が利益を得ているためであった。目付は毎日一人ずつ席に出て料理を食べることになっていたので、目付だけは料理代価だけの調理がなされていたが、これは目付が議論をすれば台所賄頭の不調法ということになるので、免職の恐れがあればこそだった。目付の料理が宜しいということになればそのほかの料理も同様と判断されていた。
 寛政のころ、老中の一人が突然諸役人の料理席を訪れ今日はこの料理を頂戴に罷り出たと言うと、台所人は老中の料理を出しますという。老中は笑いながら、この席の料理をと命令し、台所人はしぶしぶ出すとその場で食べてしまい、またそのうち食べに来ると言って帰っていった。それ以来台所人はいつまた御出があるかもしれないからと、代価通りの調理を行うようになったという。


 幕末時、すでに玉子焼きは食べられていたんですね。いつから一般に食べられるようになったんでしょうか。
 「春嶽全集」では食べ物の話がこの他にもたびたび出てきます。京では、それぞれの料理が鉢にもってあり、各々が取って食べたが、江戸では一人ひとり皿に取り分けられているという話もありました。
幕府の要人 阿部正弘
2001年10月28日
 今週は阿部家についてをアップしました。正弘の父、正精もすばらしい人物でした。阿部正弘事蹟には、正弘の偉人物となった由は、この父の薫陶によるとあります。
阿部正弘
2001年10月21日
 近く阿部正弘関係のページを作ろうと考えてます。
 『阿部正弘事蹟』は明治四十三年渡辺修二郎氏によって出版された本で、多くの史料をもとに書かれています。偉大な人物の伝記にふさわしく、これはすごいと思うエピソードが満載で、やはり阿部正弘は名君であり名宰相になるべくしてなった人だと思います。現代の政治家ならいろいろ書き立てられて、人間臭い部分も伝え聞かれますけど、阿部正弘が今政治家となっていたらはたしてどんな人物として聞えたでしょうね。でも、やっぱりさほど変わらないのかな。
 ここで阿部正弘事蹟よりエピソードを紹介します。
 
  • 十歳の頃、親族に小鳥を飼うことをすすめられましたが、鳥を飼えば家臣を煩わすことになるからと断ります。その返事に対し、池で金魚を飼っていることを問われて曰く、池の金魚は餌を忘れても水がなくなることはないから死なないと答えました。
  • 藩主となってからはじめて福山を訪れる道中、旅館に着いてから自分の疲れより従者を労って休息をとらせた。城に着いてから従者には休暇を与える。藩士に体の不自由なものがあり、その少年を憐れみ、武芸しがたいだろうから学問に励み上達するようにと言った。
  • 奏者番になって後、痘瘡を煩い四十日ほど療養したことがあり、ある日床を移すとき家臣があやまって頭にさわってしまった。阿部正弘は「ああ痛い」とつい発してしまった。侍医らはあとでお咎めがあると思っていたが、正弘は侍医長を呼び「痛いと言ったのは誤りで痛かったのではない。頭に触ったものはきっと憂いているだろうから安心するように伝えて欲しい」と伝えた。また独り言で平生は自分を戒めているが今日は意外な事で、思わず発してしまった・・・と言った。
  • 正弘は将来宰相となることを志し、当時の慣例として縁故によらなければ達せられないと思われ、誰かを介して果たそうとする。しかし、家臣関平治右衛門がこれを聞き、諫めたため諦めた。その後阿部正弘は寺社奉行見習い、寺社奉行と昇進し、その時、かつてはやむを得ず平治右衛門の言を容れたが、これは大変遺憾なことだった。今、誰かに請託することなく役を命ぜられるに至ったのは関のおかげである。もしその言葉を受け容れていなければ今頃どんな深みに陥っていたかもしれない。と自ら関を呼び品物を送り謝意を述べた。
番外編 寺社奉行時代、青山忠良が上席にあるとき、正弘を困らせることがあった。後に青山は大坂城代になり、正弘は老中に就いた。そして遅れること五年後青山は老中に就任する。かつての報復を受けると思っていた青山が阿部から受けたのは厚意と懇切な指導で、これにたいし青山は慙愧に堪えず、同僚牧野にたいし、正弘に感謝の意を表すことを請う。しかし、この青山は、弘化4年に旧縁で水戸藩主斎昭に反目する藩士朝比奈が、斎昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企て、それに結託する。幸い阿部には人望もありまた家臣や同志により助けられ青山の奸計から逃れ、青山も形勢が悪くなると、病気として辞職を申し出るが、そのまま療養するようにと伝えられる。しかし、その後も陰謀を企てようとするので阿部もようやく察し、青山を退けることを決心し、病として辞職とした。

 
近況
2001年10月14日
 今週は一部データを加筆修正しただけで、大きな更新はしていません。

 今年は長崎の伝習を重点的に更新してきましたが、最近役職変遷を調べたり、藤岡屋日記でペリー来航以前の頃の出来事に触れているうちに、この時期についてもっと知りたいと思い始めました。それでやっと阿部正弘について調べ始めたところです。史料本では「阿部正弘事蹟」があります。「阿部正弘のすべて」新人物往来社 は歴史に詳しくなくても読みすすめやすく、史跡などの情報もありこちらもお勧めです。土居良三さんが昨年出された「開国への布石」は内容がとても充実している上に、土居氏の視点で書かれた部分もとても面白く読め、超お勧めです。以下の文は土居氏の「開国への布石」を主として参考にしています。
 本を探してみてわかったんですが、阿部正弘という人物について書かれた本は予想以上に少ないですね。土居良三氏は「開国への布石」の中で、明治四十三年に「阿部正弘事績」が出版されて以後、一生について書かれたものはなかったと書かれています。開国に関わった故、不当に低く評価されてきたからなのでしょうか。
 明治後、開国当時外國と(結果的に)不平等条約を結んだ当時の幕府役人は無能と評価されていますが、当時を弁解する旨を永井尚志は史談会速記録で語っています。
 
幕府外國條約談判の顛末
今日より云ふときは舊時の條約は種々の非難も免れざるも、當時外國の事情を知りし人少く幕吏等は殆とんど知らざる位なり。故に條約の原案も我れに於て作ることを得ず皆彼れより作り出したるものなり。故に深く其利害を討究すると云へることもかたく只に彼の差出したる原案の條項を削るのみ。其他に修正の手段なかりし。勿論條項を加ふる事は爲さざりき。夫れより他に講究すべき考へはあらざりし。予等も十分之れに關預したることにて今日は人の批判も免れざるも先づ當時の情勢より云ふときは好く出來したる積なり。



 阿部正弘は肝臓癌だったといわれます。彼は晩酌を欠かすことがなく、大久保一翁がそれを知って少しひかえるよう進言したことがありますが、やめることはできませんでした。
 松平春嶽は阿部の病状が良くないことを知ると、福井藩蘭医半井仲庵を差し向けています。彼の見立てではかなり病状が進んでいて、このままでは命が危ないと近臣に申し出ましたが、蘭法は用いないと断られます。仲庵が春嶽に報告したところ、自らふたたび阿部の近臣に蘭方の薬を用いるよう説いたものの、正弘自らが断わったそうです。彼は西洋医学を認めていましたが、嘉永二年に蘭医をご禁制としたため、幕府の法令を自ら破ることができなかったといいます。
 阿部正弘が老中首座になったのは二十六歳で、亡くなったのは三十八歳です。彼によって優秀な幕臣が抜擢され重職に用いられましたが、その正弘がまだ年若くして老中首座として活躍できたのは、将軍家慶に信頼され後押しされたからでした。
 
役職変遷 その二
2001年10月8日
 今週は堀、水野、井上の初代外国奉行三人と老中阿部正弘の項目を追加しました。
 全部で七人になりましたが、この中で一番若いのが、意外にも阿部正弘です。
 永井尚志は、嘉永五年閏二月四日、甲府徽典館学頭の労により銀十五枚を下賜されていますが、そのとき申し渡したのが阿部正弘でした。もしかすると、この時阿部の目に留まったのでしょうか。翌年七月徒頭になり、その三ヶ月後には御目付となっています。
 阿部さんのエピソードで一番好きなのは、ペリー来航以降の超多忙な時期に、長命寺の桜餅を売っていたおとよという美しい娘を愛でた話です。「阿部正弘のすべて」新人物往来社 によると、桜餅を買うためとかこつけて、度々駕籠を長命寺へ運ばせ、最初はただ遠目に逢えるだけでよかったのかもしれませんが、他にライバルがいると知ると、急いで側室として藩邸へ引き取ったといいます。その後まもなく阿部正弘が病に倒れてからは、正妻の謐子はとよを藩邸から呼び寄せ、はげましあいながら看病し、共に最後を看取ったのだそうです。
役職変遷
2001年9月30日
 藤岡屋日記に、永井尚志が御目付に就任した嘉永六年十月八日の同日、岩瀬忠震も徒頭に昇進していて”御徒頭永井岩之丞跡”と記されていました。
 二人は年齢も近く境遇もよく似、出世も破格的な速さでのぼっています。岩瀬忠震は五カ国条約全権として活躍し、歴史に大きくその名を残すこととなり、現在永井さんよりずっと知名度も高いと思うのですが、初期には永井尚志の方が先に出世した時期があったんですね。昌平黌時代からの友人で大変親しい間柄ですが、やっぱりお互いライバル意識はあったんでしょうかね。
 役職の変遷過程をくらべて見るのもなかなか面白いと思い、永井さんに関りのある人物の役職変遷を表にしてみました。現在、永井、岩瀬、岡部の三人ですがまた順次増やしていきたいと思います。
 話は変わって、藤岡屋日記は本の冊子を読むだけでもなかなか面白いので、紹介します。
 江戸城のお勤めの武士の一日は、朝は明け六に起きてから家で食事をとるか、登城前に他家を訪ねてそこでご馳走になり、十時頃登城して、午後二時過ぎにはもう家に帰っていたそうです。お弁当を持っていくこともなく、昼食をお城でとらないので、再び家に帰ってから四時頃食事をしました。
 もっとも、これは一部の武士の生活だけで、一般の職人などエネルギーを必要とする仕事に携わっていた人達は、少量の食事を何度もとっていたそうです。
 
雑 感 
2001年9月23日
 今週は久々に雑感を更新しました。現在松坂屋本店の美術館で開かれている『幕末・明治ニュース事始め』の見聞記です。じっくり見て回ったので、出口にたどり着くまで一時間かかりました。展示史料の中には個人所蔵で今回初めて公開されたのではないかと思われるものもありましたし、存在は知っていながら今回はじめて目にすることができた史料も多くあり、短い展示期間中に見に行くことができて良かったです。
 
表 紙   蘭通詞
2001年9月9日
 今週は表紙を変えてみました。永井家家紋の梨の切り口と、一文字三星。それから、メールアイコンの背景は蔦ですが、これは永井さんの生まれである、大給松平家の家紋です。この松平家も徳川に遠慮して家紋を葵から蔦に変えたのだそうです。
 それから、「幕末の長崎」の阿蘭陀通詞の項目に追加を加えました。
 
幕末の長崎 その四
2001年9月2日
 本日は先週に引き続き訂正と補足を加え、長崎の地図の改良をしました。
 
 「幕末の長崎」岩波新書 という本があるんですが、この本は長崎代官が記した御用留を元に書かれていて、ほとんどが町人農民、無宿の労働者など庶民がかかわった出来事が中心となっています。
 長崎奉行は江戸から毎年旗本が任命され赴任してくるのですが、長崎代官は地役人の筆頭で、正式には士分ではありません。職責も本には「市政、貿易には干渉しない」と書かれてますが、所領の農民町民などからの陳情の受付や、所領で起こった事件に関する吟味を行っています。長崎奉行は一年交替のため、ほぼ長崎の行政に関する事情に疎いのに反して、長崎代官は世襲で土地の事情に精通しており、奉行の施策決定とともに実際に行われる現場との折衝役も重要なつとめでした。
 たとえば、製鉄所、養生所など、新しい施設が作られるときはまず土地を買収しなくてはなりませんが、その土地で代々農耕を行ってきた者がお金を貰ったからといって、すぐにかわりの土地を見つけて移れるとは限りません。そんなとき、代官は現地の農民の陳情を聞き、奉行所との間をとりもって不満が出ないよう収めています。
 また、有事には奉行に進言したり、奉行所から相談を受けてもいます。しかし、その時村方の意見を重視して答えていたとき、あまりに村方の意を汲みすぎ、代官としての考えがないとして却下されたこともあります。
 長崎代官は土地の人間で身分も町人ですから、地元民の心情もよくわかるし、世襲制である以上土地の者の心証を悪くしたくないわけですが、長崎奉行所というお上からの指示は絶対命令で、無理だと解っていても出来ないとはいえません。奉行と村人の間でつらい立場にあった上、町人からは奉行所の方が格上だと軽く見られることもありました。長崎代官は職務だけではなく心理的にも大変な職だったようです。
 
幕末の長崎 その三
2001年8月26日
 今週も引き続き「幕末の長崎」の内容を追加し補足も加えました。地図については、出島近辺の建物の位置関係は実際の地図と比べてかなり合わせていますが、表示スペースの都合で距離は不正確になっていますのでご了承下さい。
 
幕末の長崎 その二
2001年8月19日
 「幕末の長崎」の内容を追加しました。
 長崎海軍伝習所の伝習生の中には、幕臣でも他藩の藩士でもない讃岐の塩飽島の水夫が参加しています。これは永井尚志が建白し実現したことで、何故塩飽島の水夫が選ばれたのかといえば、豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり、この島から水夫を募ったという歴史を知っていたためだといいます。この塩飽島は秀吉との約束で、出兵以降年貢が免除されていたことを徳川家康が知り、江戸時代に入ってからもずっと免除されていたのだそうです。
 この島出身の古川庄八、山下岩吉の二人は文久二年榎本らとともにオランダに留学しています。
 
 再来年の大河ドラマは宮本武蔵だそうですね。ついさっきまで反射神経がテーマのバラエティ番組を見ていたんですが、その中で一分間に何匹蚊を捕まえられるかという実験があり、それを見たとき、萬屋錦之助が演じた映画「宮本武蔵」の一場面を思い出しました。それは箸で飛んでいるハエを捕まえるシーンでした。(笑)それも連続して何匹もだったと思います。
 番組中で反射神経には動体視力や瞬間視力も重要だと説明されていて、スポーツ選手が捕まえた蚊の数は普通の人が精々十数匹だったのに対して、二十匹以上でした。ハエを箸で捕まえることは武蔵だったら出来て当然なんでしょうね(実際にはどうだったかは知らないけど(笑)。ちなみにこの映画をはじめて見た当時、ただただ、剣豪っていうのはこんな神懸かりなことができるんだ〜かっこい〜と思ってました。(笑)原作にこのシーンってあるんでしょうか。大河でもでてくるのかな・・・。
幕末の長崎    年 表
2001年8月5日
 今週はふたたび長崎伝習所関連にもどりまして、幕末の長崎に関する事項をアップしました。それに伴い、年表に長崎奉行の任期を追加しました。
 長崎奉行になることは役得が多く、一度在崎するだけで相当の財産を築くことができたそうですが、安政四年に長崎奉行に任命された大久保忠寛(一翁)は拒否しています。大久保の場合、役得の多い長崎奉行をあえて嫌ったという見方がされていますが、その後、役職拒否なのかなんなのか、文久三年から慶應元年にかけて六人が奉行に任命されても長崎に行くことなく、すぐに外の役職についてるんです。当時、政局があわただしかったことや、長崎が独占的な貿易場所でなくなってしまったことも一因でしょうか。
 「幕府と浪士組」は一応形ができてきてはいますが、まだ完成ではありません。もっと資料を増やしたいと思っています。浪士組についてはいまだはっきりしていない事が多いんです。幕府のプロジェクトなのに、幕府側の史料には全然出てこないんです。特に松平春嶽関係の史料にはもっと出てきていいと思うんですけど、続再夢記事にも出てこない。でもこの福井藩の史料は後に編集されたものなので、原文には書かれていても、編集時にあえて省かれたということは十分考えられますね。
杉浦梅潭 その三 
2001年7月29日
 今週は「浪士一件について」と杉浦梅潭の年表に補足を加えましました。
 残念なことに、梅潭の官僚としての姿はあまり紹介することができなかったのですが、するどい見識を持ち、堅実で、慎重に仕事をする方だったようです。
 鳥羽伏見での幕府敗北が伝え聞かれた当時の幕府役人の中には官軍に捕らえられることを恐れ、職場を放棄して逃げ去ることもあったほどですが、当時箱館奉行として赴任中であった杉浦は、箱館を去ろうとはしませんでした。二月二十三日杉浦は決意書を認めていますが、一部抜粋します。
 (幕府の)下知があるまでは、以上の覚悟でのぞむ所存である。しかしながら、たとえ朝命といえども(幕府が)引き渡すなとの下知であれば、全力を尽くして防戦するつもりである。しかし、四方敵国で援兵もなく、当島の維持は不可能であり、ただ一死を以て御厚恩に報いるまでである。
 第一の大憂患は北地のことである。たとい雑居の条約を取り交わしているといっても、もし支配向が現地を引き揚げてしまったならば、ロシア人は現地人の撫育を大義名分としてたちまち南進してくるだろう。どんな風説があろうとも、命令があるまでは落ちついて在勤するよう指示した次第である。以下略
 この杉浦の建白書は支配の荒木により江戸の若年寄川勝備後守に届けられ、正式に引き揚げる命令が下されました。その御用状は三月二十日杉浦の元へ届けられ、二十二日箱館市中へ出された御触書は以下の内容でした。
 _________朝命があり次第、穏やかに引き渡し、自分は当地を引き払うつもりである。市在人民にはいささかの迷惑もかからないように取り計らう所存である。安心していよいよ家業に出精せよ 「最後の箱館奉行の日記」新潮選書より

 閏四月二十六日奉行所は新政府へ引き渡されました。
 その後引継に時間がかかり、六月二日にようやく箱館を出航し、江戸へ帰りました。
 明治二年八月には開拓判官として政府に出仕していますが、もし、任務が蝦夷の開拓でなかったとしたら、はたして受けていただろうかと思うのですが・・・。
 雑誌「旧幕府」よると、もし蝦夷にそのまま留まっていたとすれば、榎本らとともに戦っていただろうと語ったといいます。
 気骨有る官僚であり、漢詩人でした。 
杉浦梅潭続き 
2001年7月15日
 今週は杉浦梅潭の紹介文を追加しまして、それにともなって浪士組の年表にも補足を加えました。一日でこの項目を完了させるつもりが予想以上に時間がかかってしまい、完成できませんでした。また来週です。(苦笑)
 それから、先日「碧血」の出典についてアップしたんですが、その原文が載った本を探そうと図書館へ行ったもののみつからなくて、なにげに平凡社の『字通』を開いたら、違う出典が載っていたんです。出典は複数あったりするんですね。こちらはよく知られた古典ですのですぐに探せました。補足しましたので御覧になって下さい。碧血碑
杉浦梅潭   干支
2001年7月8日
 今週は杉浦梅潭の経年紀畧を参考にした年表をほぼ完成させました。あとはもう少し詳しい紹介文を追加したいと思っているので、完成は来週に持ち越しです。
 もう一つのおまけアップは干支です。最近エクセルをあらためて習ったんですが(今までは自己流でした(^^;)、HTML形式で保存できることを知って(今更遅すぎですよね・・・)、早速作ってみたのがこの干支です。ホームページビルダーで表を作ると、画面の動きが鈍いし、内容量が重くなると作業途中に強制終了になることがよくあります。自動保存された後だったらいいんですけど、不幸にもデータが消えてしまったことが度々あるんですよね。(泣)これからはエクセルでさくさくと作ってから転用しようと思います。で、干支ですが、よく書簡や古文書などでは年号ではなく干支が書かれているんです。だから干支早見表があると結構助かるんですよね。良かったら参考にしてください。(^^)
浪士一件
2001年7月1日
 今週は杉浦梅潭の史料「浪士一件」をアップしました。以前すでに紹介した史料ですが、翻刻掲載の許可が下りましたので(いままでは許可が下りていなかったので、本当は解読文を載せられなかったのです(^^;)、バージョンアップして一つのコーナーにしました。写真掲載の許可はまだおりていません。また、翻刻は「最後の箱館奉行の日記」新潮選書に読み下しが掲載されていましたので、これを参考にしてほぼ完成することができました。しかし、解読って、本当に難しいですね。読み下しと照らし合わせてみると間違って解読していた文字が見つかったんですが、この字なんだとわかっても、納得できないところもあるんです。ホントにホント〜?これ間違ってるんじゃないの〜と。いえ、自分が間違ってるんでしょうけどね。(苦笑)杉浦梅潭の文字は解読しづらいと、みずうみ書房から出されている「杉浦梅潭目付日記」の後書きに書かれているくらいなので、素人には実に難しい挑戦だったのかもしれません。なお「浪士一件」はまだ全文の翻刻または読み下し文が公開されていません。どこかの出版社が発表してくれないものかと思ってるんですが、無理でしょうかね。(^^;
 ところで本日は永井さんの命日です。この日危篤を知らされた勝海舟が官位を授けられるよう手配し、七月一日付けで従五位に叙せられています。
 永井さんは晩年、岐雲苑に祠を作り朝夕、岩瀬忠震の霊を弔ったといいますが、弔ったのは岩瀬さんだけだったとは思えません。詩友とともに酒杯をかわし幕末のことに話が及べば涙を流したという永井さんは、きっと個人的に慰霊をしていたのではないかと想像するんですが、具体的な逸話が聞かれないので残念です。
 前回国文学研究資料館を訪れた時、永井さんが亡くなった日前後の杉浦梅潭の日記を調べようと思い、当時の小さな手帳風の日記を借りました。紫の色鉛筆で小さな字がびっしりと書かれており、それらはまったくと言っていいほど読めないのですが、それでも何か手がかりがつかめないかと必至に永井の字を探しました。しかしまったく見当もつきませんでした。葬儀に出ればそれらしき字があるはずですが、まったく無し。がっかりしてその日記を返却した記憶がありますが、資料館をあとにしてから私は明治二十三年の日記を借りたことに気づきました。永井さんは明治二十四年に亡くなっています。次回は必ず・・・・(^^;
  
更新はお休み
2001年6月24日
 今週は更新できませんでした。すみません。お詫びと言ってはなんですが、少しだけ調べ物をしましたのでそのご報告を。
 先日碧血の由来を書きましたが、この碧血は広辞苑に載ってないんですけど、漢字事典の字源には載ってたんです。出典の史料名がわからなくてずっと疑問だったんですよ。もっと早く開けば良かったです〜。(苦笑)
  
  碧血 ヘキケツ 青みを帯びたる濃きち。 鄭元祐 詩 「孤忠既足明丹心三年猶須化碧血」
 この他、字源には「死節」も載ってました。
  死節 シセツ いのちをすててみさをを立てる。胡安國、春秋傳「春秋重死節之臣」=死義
  これによると死節と死義は同義語なんですね。ついでながら死義の意味はというと・・・
  死義 シギ  ギニシス  正義の爲にしぬ。史、汲黯傳 「守節死義」中説「君子不受虚譽不祈妄福不避死義」
  
  やっぱりなんといっても漢字のほとんどは中国の書物が原典。ちなみに掲示板の百代の過客は松尾芭蕉からとってますけど、芭蕉は李白から頂いてるんです。百代は永遠で過客は旅人です。(^^)
年表
2001年6月17日
 今週はオランダ商館長ドンケル・クルチウスの覚え書き「幕末出島未公開文書」(フォス美弥子編訳 新人物往来社刊)をもとに、詳細年表と海軍伝習所の年表を更新しました。でもまだ半分ですので来週も引き続きのアップとなります。
 このドンケル・クルチウスは1852年、オランダ国王の信書を携えて日本に商館長として来任しました。この信書の内容は米国ペリー艦隊の来航を予告したものでした。
 本書は覚え書きと報告書が翻訳され、ドンケル・クルチウスが日本に滞在した初期の三年間が詳細にわかります。
 海軍伝習に関しては、正式に開校する一年前すでに伝習が行われていることが長崎幕末史料大成でも明らかなのですが、そのいきさつや詳細がこの覚え書きによってわかりました。
 伝習所開校は艦長ファビウスが提案して実現したのですが、実はそれより二年前の1853年に最初に提案したのはドンケル・クルチウスでした。しかし、当時はだれも聞く耳を持たなかったと記しています。
 ペリーに関しては、これはあまり知られていない事実ではないかと思うのですが、オランダは米国と盟約を結び、平和的協力を約束していました。この事実は日本側には知らされていなかったのですが、前商館長レフィスソーンが書いた「日本雑纂」によって日本側に知られてしまう恐れが生じ、オランダに対して疑惑を向けられることが懸念されたのですが、クルチウスはこの件が明るみになったとき、日本側にどう説明するかを次のように記しています。
 
 オランダは日本に危機が迫っていると警告し予めその予防策について提言しようとした。
 また一方ではオランダは合衆国に、たとえ日本政府が強硬な態度に出ようとも、武力を行使せずに穏当で平和的な道を選ぶようにひたすら勧告してきた。
 
 この他にも日本の外交関係や役人との折衝や、南国諸藩についても面白い事実が明らかにされています。興味を持たれた方は是非お読み下さい。
 
もろもろ
2001年6月10日
 今週はアップ済みのページの細かい手直しや、補足と、年表の内容を書き加えたりしました。特に年表はそろそろ形を整えないとと思っているので、今月は年表月間となりそうです。それから用語集に碧血碑の『碧血』の由来となった漢文をそのまま載せました。永井さんはこの『碧血』をもとに漢詩を書いてるんですけど、大鳥圭介と榎本武揚もそれぞれ書いてるんです。一体だれが最初にこの碧血という言葉を使ったのか興味ありますよね。おそらく東京に護送された後、獄中で誰かが最初に紹介したのか、あるいは、この言葉、当時の漢詩や漢文の教養を深めた人の間ではよく知られた言葉だったのかもしれないですね。ちなみに死節歌というなかに収められているそうです。だから、円通寺のお墓は死節之墓なんだ〜と単純に納得してしまいましたが、本当に関連はあるんでしょうかね。  
雑 感
2001年6月3日
 本日は何でもないようなちょっとした絵図のお話です。
 本当にたいそうな内容でもないんですけど、資料の存在を知らなかったらまったく書けなかったという、時間経過と偶然の産物です。といっても、最近そういうネタが多いですね。(^^;
 永井さんは武術ができなかったなんて〜、というご意見を頂きました。(ちょっと違いますかね(^^;)「永井玄蕃頭随伴記」によると、永井さんは乗馬が当然ながらできたんですが、なかなか上手かったようです。それと、長崎ではオランダ人教師から洋式銃の撃ち方を習ったそうです。剣術に関しては学んだことがあるかどうかまったくわかりません。もやしっこ・・・・かあ。(笑)ちなみに甲府の徽典館に学頭として赴任したことがあります。信州ですね(^^)
墓 碑
2001年5月27日
 今週は写真の現像がやっと出来ましたので、墓所の写真をアップしました。
 墓所を訪れる時って、なかなかたどりつけなかったり、そうかと思えば広大な墓地なのにすぐにわかったりして、人に会うわけでもないんですけど、探していた人に逢えたような思いがわきます。 その人が生きていた何よりの証で、一番その人に近づけたような気分になれる、そんな場所でもあるんですよね。
 裏話ですけど、お墓の写真を撮るときはじめちょっと躊躇したんですけど、だんだん慣れてくるとなんでもなくなってしまいました。(苦笑)こういった史跡巡りをたくさんされている方の話だと、摩訶不思議な写真が撮れてしまうことは、よくあることなんだそうです。でも撮れてしまったら困りますよね。しかし写真には収めたいし・・・。私の場合、写った時はラッキーだと思うことにしてます。(^^)(^^;
雑 感 雑誌「はこだて」より
2001年5月20日
 昨日に続いての更新です。
 天気がすごく良かったので加納城跡に行って来ました。永井さんは分家なのでこのお城とは直接は関係ないのですが、「永井玄蕃頭随伴記」に明治二十一年八月、旧城主永井尚服の嗣子尚敏氏とともに、加納三の丸櫓旧稲荷神社跡に建設した加納城の碑と加納倶楽部の落成式に招かれ、加納を訪れたそうです。加納城の碑は現在どこにあるのかは不明だと城殿氏は本に記しています。三の丸跡は小学校が建っていて、現在、この近くの加納城跡の空き地は市によって発掘調査が進められていました。出土品は南部コミュニティーセンターで展示されているそうです。加納城本丸跡は建物は何もなく広い芝生の公園になっています。周りの石垣と樹木が当時のままの姿をとどめていてるだけでした。でも石垣だけでもなかなか風情があるものですね。(^^)
雑 感 (旅行報告そのニ)
2001年5月19日
 今回初めて訪れた国立公文書館は皇居の御堀沿にあったので、ついでながら初めて皇居の中を歩いてきました。同心の番所はいまだにそのまま現存していたんですね。知らなかった・・・。役人の番所といえども、簡素ながら優雅さがあって、格調高いと思いました。
 曲がりくねった道を歩いていたとき、そういえば目付けはどんなことがあっても城内は直角に歩かないといけないんだということを思い出して、独りで噴出してしまったんですが、その大きな原因は、岡部駿河守の逸話に、突然の雨にもかかわらず、雨を避けようとせずに悠々と作法どおりに歩いた姿を建物の中から同僚が見ていて、つい笑ってしまったという話しがあるんです。それくらい目付けは折り目正しい人物でしかなれなかったということなんですね。
 江戸城内(皇居)は当然ながら建物なんて何も無く、案内板のおかげで松の廊下があった場所がわかったくらいでした。しかし、想像なんてつかないですね。今度行くときは必ず江戸城の見取り図を持参しようと思った次第です。(笑)
 雑 感
2001年5月12日
 先日東京に行き墓参と史料の確認をしてきました。
 国文学研究資料館にも行き、史料アップについて直接御願いしたのですが、ホームページ上に載せるということ自体初めてのことで、会議を開く必要があるそうです。この会議を開くことが年に何度もないことだそうで、この件のためだけに召集することは無理なので何かの会議のついでに議題の一つとして検討されることになるとのこと。どうも予想以上に時間がかかりそうです。もし早く見たい方があれば、個人的に画像を送らせていただきますので管理人までメールをください。
 今回は国立公文書館へも行ってきました。現存する史料を手にとって見るという貴重な体験ができて本当に行って良かったと思いました。永井さん直筆の書状は大変流麗な文字でした。そして公文書館で、前回の雑感で紹介した大政奉還に関する史料も確認したところ、私の見当違いだったことがわかりました。太政類典は当時の松平春嶽の手記などをもとに大政奉還後の内政が書かれたもので、問題の部分は十二月十八日に関する記事だったため、大政奉還そのものについて書かれたわけではありませんでした。ただこの本をじっくり読む時間がなく詳しい内容は現在のところわかっていません。複写の申請をしてきましたのでそれが後日とどいてからまた詳細について訂正追加を書くつもりです。すみませんでした。
 今回の旅行についてはまだまだ書きたいと思っていることなどありますので、また日をあらためて更新しようと思っています。(^^) 
残留浪士名簿高橋、鵜殿の書その二
2001年4月29日
 先週に引き続き浪士一件からです。
 国文学研究資料館からの返信では、何分はじめてのケースのため許可が下りるかどうかの返答には時間がかかるとの事でした。それに加えこれから資料館所定の用紙で正式に申む段階なので、ホームページ上にアップできるのはかなり遅れると思います。
 先週おおまかな内容として、町奉行である永井が残留希望者が差し支えない旨を申したと書いたんですが、この永井とした部分の文字が、相叶とも読めるとわかりました。
 「相」と「永」は似ていて、その上問題部分はすごく微妙な崩し方なんです。この文字を拡大したものを見ると、わずかながら「永」の上の点が書かれていると思われるんですが、これが書き損ないなのか、明らかな永の点なのかというと、私には判断出来ません。しかし、その下の『井』の字がかなり崩さないとこうならないと思われるので、それより、『叶』の崩し字だと見たほうが自然な感じもします。よって「相叶」である可能性が高いのかもしれません。意味も通ります。
 永井が誤読であるすれば、一体誰が十二日に残留浪士が希望する、肥後守のもとにお召し願い京に残りたい旨を申し出たのかを考えてみると、残留浪士ら自らであったかどうかは「この者差し支えこれ無旨を申した」とあることから、違うとわかるので、高橋と鵜殿であったと想像されます。

 実は、浪士組初期から永井が関わっていたのではないかとわたしは思ってます。近藤勇が志大略相認書の中でお預かりとなる以前にすでに密々夜廻をしていたと書いていますが、それを裏付けるように杉浦正一郎の日記では、
三月八日 鵜殿鳩翁御上洛中、浪士三四拾人引連退京、町奉行江申談、市中廻り方御達し
九日 鳩翁京地見廻り之儀、御沙汰止ミ
 とあることから、夜廻が独断ではなく、町奉行所との連携で行われていたのではないかと思われるんです。それではいつから町奉行所と関わりを持ったのかという点では、沖田林太郎が書き残した留書には、浪士が京に着いた二月二十三日
御池西へ入東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候
という通達があったとあるので、もしかすれば早い時期に八木邸に止宿していた十六人が、この同心を通じて町奉行所と何らかのやり取りがあり、密々に夜廻を行うこととなったのかもしれないと想像しています。でもこれはあくまで推測にすぎないんですよね。
 上に書いた不明の文字が永井であったとしたら、私の推測が現実的なものになると思ったんですが、相叶であれば残念ながら決定打登場とはいきませんでした。(笑)
残留浪士名簿高橋、鵜殿の書
2001年4月22日
 先週は更新していません。実は、浪士組関係の史料である、浪士組取扱を勤めた目付杉浦正一郎が書き残した「浪士一件」という史料の中に、文久三年三月十三日付で高橋、鵜殿鳩翁連名で書かれた残留希望者の名簿と幕府宛の書があり、名簿のほうは既にページにアップしているのですが、書の部分が解読できていなかったのでここ最近解読に挑戦していました。でも不完全な上に、間違っているかもしれないので甚だ申し訳ないです。
 全体は不明ながら判明した部分から考えると、十二日に町奉行である永井が浪士が京に残り次第肥後守の家来として差配するという内談のため(残留浪士を差配しても)差し支無い旨を申し、家来となるよう決定されたように思われます。(自分の都合のいいように書いてるんじゃないかと自分でも思うんですけど(^^;、そう解読できるんですよ〜・・・(^^)
 十二日に差配が決まったという事は、近藤勇が志大略相認書に書いていることと合致します。ただ、この名簿では十六人の名前しか載っていないんですが、十八人とあるんです。載っていない二人は誰なんでしょうか・・・。それとも私の誤読でしょうか・・・(^^;
 まだすべてが解読できていませんし、間違いもきっとあると思いますので(わたしが上に書いた大まかな内容も甚だ怪しいかもしれないです(^^;)、この史料の所蔵先である国文学研究資料館の許可が得られ次第史料を拡大してアップし、訪問してくださった皆さんも解読に挑戦できるようにしたいと思っています。
 ところでこの「浪士一件」はまだほんの一部しか活字化されていないと思われます。でもすでにどこかで発表されている可能性もありますので、本や同人本などに掲載されていることを御存知の方がいらっしゃれば、どうかご一報ください。
 
雑 感
2001年4月8日
 本日は簡単ですが面白い史料の紹介です。
 全文がさだかでもないのにアップしてしまうことろは、何卒お許しを・・・(^^;
 幕末の史料ってまだまだ一般的に知られていない文書があるものなんですね。でも事実かどうか謎なんですが・・・。
長崎幕末史料集成
2001年4月1日
 先週に引き続き史料をアップしました。
 今年は医学伝習を中心にして長崎海軍伝習所関係について調べることが多いです。
 そんな中で感じるのが、阿蘭陀から受けた恩恵を現在ではあまりに知られ無さすぎるんじゃないかということなんです。
 先日県図書館でオランダの辞書を探そうと思ったんですけど、一冊も開架には置かれていませんでした。
 最後のオランダ商館長を勤めたドンケル・クルチウスによって日本に海軍伝習が提案されたことが後になって実現したということを最近知りました。アメリカ船来航予告を日本に報たのもドンケル・クルチウスでした。
 日本の鎖国以降オランダは日本との独占的な交易をはかる見返りとして、幕府の高圧的な要求にも従ってきたといいます。幕末に西欧やアメリカ、ロシアとの交易がはじまってからも交易に関し有位な位置につけるために、いろいろと日本に恩恵を与えておこうという意図もあって海軍の伝習を提案したようですが、現実に、もし長崎での本格的な医学伝習がなければ明治後の西洋医療の普及は十年は遅れただろうとも言われるほど多大な恩恵を受けたんですね。きっと明治の造船や海軍についても同様ではないかと思います。
 それから、史料をアップしているとき今更ながら知ったんですが、井伊大老は在任期間が二年足らずだったんですね。安政五年の四月に任命されてその四月後の八月には家茂が将軍となって、その後継嗣問題や戊午の密勅に関した人物を一掃。その後間もない安政七年の三月に暗殺されてしまいます。幕府は暗殺を公にしていないんです。この幕末史料集成では三月の晦日にお役御免となったと御触書が出ているだけです。井伊大老はまるで幕府の厄介ごとをすべて引き受けるために大老に就任して、そして亡くなっていったような印象を受けました。医学伝習が続けられたのは井伊大老の寛大な処置によると知ってから、ますますこの大老の真実が解明されるといいななと思う今日この頃です。井伊直弼は茶と華と能狂言を愛でた人なんですよね。わたしは直筆の手紙を資料館で見たことがあるんですが、とても几帳面で律儀な字という印象でした。(^^)
長崎幕末史料集成
2001年3月25日
 長崎伝習所関係の史料を探したところ、長崎幕末史料集成(長崎文献社)という本があり、これには長崎代官が手附へ下した触書が収められていて、伝習に関する史料も多く含まれていました。伝習所に関しては本で読んで少々知っているんですが、実際史料をもとに日を追いながら伝習に関する役人の動向などを読んでいくと、事実の感覚、リアリティが全然違います。やっぱり生の史料を実際に読んでみることは大切だと思いました。ページはまだ未完成で、今後一、二週間はかかると思います。
 ちなみに、この史料では江戸からの命令伝達文書も含まれており、元治元年七月付では「陰謀」と題し、石(古の間違い)高俊太郎は武器を所持しておるというので捕縛し糺したところ、風向きを待ち御所を焼き払うという陰謀がわかり、これに関する徒党を召し捕ったがこの残党がまだおり、身分や名前を偽り藩邸や町屋に潜居していることも測りがたいので、万一怪しい者があれば各藩または役人にて召し捕るよう。また在京の万石以上以下に対し、家来が在京している場合その人数と名前と年を、屋敷内外の在京者の人数を申し出るように。また、取締りを厳重にし、手に余れば切り捨て討ち取り悪党を洩らすことのないようにというお達しが江戸から下されています。
 おそらく同様のお達しが全国の幕府の機関へ伝達されていると思われます。この文書では池田屋事件について具体的なことには触れられていませんが、古高俊太郎の事件のが幕府にとっていかに重大事件だったかが解るのではないかと思います。切り捨ててもよいという事例は同史料ではこの他にも「浮浪の徒取締り」で手向かいする場合切り捨るとあるのですが、浪人の取締り以外にこのようなことは書かれていません。
 浪士が手向かう場合切り捨てても良いというお達しはたしかに存在し、それは江戸城の閣老から正式に下されていたんですね。しかも幕末時における特殊で異例の措置だったんです。