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01/06

 江戸城のお正月
 御家門筆頭福井藩主 松平春嶽が書いた「幕儀参考」には幕府のしきたりや儀式の様子などがくわしく書かれています。このなかに元日に江戸城で行われた年始礼という行事の様子も書かれていました。ちょうどお正月ということでこの珍しい話を紹介したいと思います。
 年始礼において、御三家は官位三位以上なので立烏帽子、直垂を着用ます。御三家はじめ老中が揃ったところで、これを目付が老中へ上告し、これを老中が将軍に上告する「申し上」をします。これは将軍の御目見が程なくあるということで、御三家はじめ大名は厠で用を済ませます。
 そして通常は閉められている中奥から表への戸口の錠が開かれるという意味の「御錠口」が目付から告げられ、各々定席に着きます。
 いよいよ将軍の御出座となると大目付、目付が着座します。そして老中が鷲の杉戸の前に座り、将軍家のお出ましがあります。
 御三家はじめ諸大名は太刀や馬代を献上することが通例となっていますが、御三家は持参せず、御目見までに目録を奏者番席頭の前に置いておき、尾張から順番に謁見の席につくと、奏者番はそれぞれの目録を将軍家の御目見席に置き退き、平伏がおわるとまたその目録を持ち元の席に戻ります。なお、この謁見の最中、御三家、諸大名は終始手を付いて頭をさげていなければなりません。
 通常城内での儀式などでは大納言、中納言など唐名で呼ばれるのですが、この年始礼では何位殿と官位で呼ぶことが通例となっていました。
 謁見が済むと、兎の吸い物(器の中に兎の肉二切の上に味噌をかけたもの)が将軍の前に置かれ、次に御三家はじめ各大名へ出されます。そして高家の一人により将軍家に酒を上進し、その杯を三方に載せ、片手に長柄を持ち、上段から降りると、尾張殿は決まった席で手をついて平伏しているので、高家はその前に杯を載せた三方を置きます。尾張殿が杯を手に取ると高家が酒をつぎ、それを飲みほすとまた杯を三方に載せ、ご返杯します。そして将軍よりの時服を拝領し元の席に戻ります。紀伊、水戸も同じことがくりえされ、諸大名まで同じく杯と兎の吸い物などが下賜されます。
 そして月番の老中が「年頭の御祝儀めでたく存ぜられます」というと、将軍が「めでたい」と言われます。これで一通りの儀式が済んだこととなり、下座から退去します。
 
 以上、意味不明であったり図が無いのでよくわからない表現のものは省き、だいたいの内容をかいつまんで紹介しました。
 兎の吸い物が出てきますが、春嶽の弘化三年丙午の正月の日記を見ると、やはり兎の吸い物と書かれているので、この吸い物はいつも決まっていたようです。

※ 図説江戸「大名と旗本のくらし」学習研究社刊行 に絵入りで大変詳しく書かれていますので、興味のあるかたは是非お読みください。
 
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09/23

 松坂屋本店の美術館で今月十五日から二十四日まで開催中の『幕末・明治ニュース事始め』を見に行ってきました。
 展示品は東京大学社会情報研究所所蔵品を中心として、幕末の瓦版から明治の新聞錦絵が多数展示され、東海地区の明治初期の写真などもありました。また、現在のニュースとして、米のテロに関する新聞も展示されていました。
 以下に、松坂屋のホームページから展示内容を転載させていただきます。
 (1)ニュースの誕生(2)市井の事件(3)天変地異(4)江戸の終り(5)尾張の江戸(6)新聞登場(7)ビジュアル系ニュースの誕生(8)災害は忘れたころにやってくる(9)
 江戸時代の瓦版は、天災や政変、または奇抜な風聞を伝えるものがほとんどだったそうで、今で言う号外といったものだったようです。展示品のかわらばんを二、三読んでみたんですが、これらは庶民が対象だったので、変体かなで書かれています。変体かなって簡単そうなんですけど、わたしは所々しか判りませんでした。もっとすらすら読めるようになりたいですね。江戸時代の日本人の識字率は世界一だったそうですが、こんな読みづらいかなを誰もが読めたというのは少々驚きです。何事も訓練かな・・・。(^^)
 展示史料とは関係ないのですが、当時の瓦版と同じような情報発信源として『藤岡屋日記』があります。これは神田御成町で古書籍商を営んだ須藤由蔵が記した、当時の風聞や幕府内部の関係史料集で、日記としながらも”私文書”ではなく、人に伝えるために書かれた、当時の情報伝達文書という性質のものです。幕末には幕府内部の情報を他に漏らさないようにとのお達しが出されているので、幕府に関する文書の情報源は明確にされていないということですが、現存する他の史料と照らし合わせても、ほぼ同じ文面で正確に書き写されていることが確認されたそうです。
 この藤岡屋日記には翻刻に関わった方によるエッセイが載った一枚摺りの冊子が、各冊に付いています。この冊子にとりあげられていた風聞を紹介します。
 ある商家で猫が飼われ主人に可愛がられていたが、出入りの魚屋もいつも店を訪れるたび、魚を与えて可愛がっていた。ある時この魚屋は病にかかって床に伏し、商いができなくなってしまった。その日暮らしの生活で先行きがを心配していたところ、猫が一両をくわえてやってきた。その一両で魚屋は療養することができ、病を治すことができた。ふたたび商家を訪れると、猫がみあたらないので、どうしたのか聞くと、あるとき一両がなくなり、すぐあとに猫が十五両を包んだ紙をくわえて逃げたので、前の一両もこいつの仕業だということで、捕まえて殺してしまったという。魚屋が猫にもらった一両のおかげで病を治せたことを話すと、商家の主人はその猫を供養するため供養塚をお寺に建てたという話です。
 『幕末・明治ニュース事始め』で展示されていた瓦版は、継子いじめの話や、七歳で子供を産んだ話や心中のはなしなどがあり、現代の週刊誌やワイドショーなどで取り上げられるネタと大差ないかもしれないです。何時の世も私たちが興味をもつ話には普遍的なテーマがあるんでしょうかね。
 興味深かったことは、禁門の変について書かれたものがあり、これは過去の似た事件に例えて書かれるという形式となっていて、直接的に事件を伝えるといったものではなかったが、戊辰戦争からは例えではなく、事柄をそのまま伝える形式で書かれ、現在の新聞に近づいたというような説明がされていたことです。
 明治期の新聞錦絵は当時起こった事件を錦絵であらわしていて、色刷りなので綺麗ですが、近代的な洋装の警官と江戸時代そのままの庶民の取り合わせがなんとも不思議で、明治独特の雰囲気があります。
 錦絵は江戸時代の名残が濃いのですが、明治初年に起こった濃尾大地震を伝える写真を見ると百三十年前が身近に感じられます。写真は報道手段としても、革命的だったんだなあと思いました。
 

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06/03

 旗本永井家の屋敷がどこにあったのかというと、本には浜町とあります。浜町には加納藩永井家屋敷もあり、だいたいの位置は幕末の切り絵図を見てわかっていたんですが、旗本永井家の屋敷が記されていません。また、本家の屋敷が二ヶ所あったのでどちらかを借りていたのかとも思いつつ、結局屋敷の正確な位置がわかっていませんでした。
 近年出版された江戸の地図で、細かく区分された絵図が年代順に掲載されたものがあり、これにより永井家は、白金近くにあった屋敷から天保三年以前、内藤新十郎が住んでいた浜町の屋敷に移り住んだことがわかりました。正確には、加納藩永井家の屋敷とは細い道を隔てた向かいの一角になります。現住所では、日本橋蛎殻町二丁目十五番地付近です。
 同様に岩瀬家、岡部家の屋敷を探したところ、こちらは幕末の切り絵図にもある通りでした。
 岩瀬家は現在築地四丁目ニ現在郵便局付近です。
 切り絵図の岡部家を見て疑問に思ったんですが、岡部家の次女(岩瀬忠震の次女で養女)は屋敷が向かい合っていた山高家に嫁いだと「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」にあるんですが、その山高家がのっていないのです。筆者が何かを間違えているのでしょうか。
 面白いことに二軒隣に村田蔵六とあります。もしかすると、蛮書調べ所に勤めていた頃住んでいた屋敷だったのでしょうか。岡部邸あとは現在皇居千鳥ヶ淵にある戦没者霊苑内となります。
 
 また「幕末の京都がわかる絵図武鑑」という希少本に京都町奉行所の詳細な見取り図が掲載されていました。それによると、文久三年、浪士組の相談役を勤めた山田豹三郎は確かに存在し、東町奉行所内の長屋にその名がありました。役職一覧も掲載されていて、これによると、文久二年当時目付方新家方兼役を勤め、慶應二年には勘定方となっています。
 

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05/20

 地域史研究「はこだて」27号
 この函館の地方誌に『永井玄蕃の獄中詩』というエッセイが載っていました。
 内容は、東京へ護送された後辰の口の監獄に収監中書かれた漢詩とその解釈が中心です。  
 著者は永野弥三雄氏で、この方の先祖が加納藩永井家の所有していた帆船の船頭であった縁から、永井尚志の孫にあたる永井亨氏から直接伺うことができたという逸話も書かれていました。それによると、永井さんは酒好きで、英書を読んでいた。大政奉還の上奏文の起草は永井によること、蝦夷では、牧民官として北海道の民政にあたってほしいと榎本から頼まれたこと、そして、同じ外国奉行であった堀織部正とも親しかったということなどです。
 永井さんが酒好きだったということを、初めて知りました。酒という言葉から、塚本松之助柳斎が書いた永井尚志伝の一文を思い出します。
 
−−−−−−向山黄村・杉浦梅潭・高松凌雲等と詩酒を徴逐し風流自ら娯しむ。復だ世事を観ず、談或は幕末の事に及べばすなわち下る□然として涙下る。−−−−−−−
 
 英書を読んでいたということも、初めて知りました。(注1)加茂儀一著「榎本武揚」の中で榎本ら主だった脱走軍の幹部らが、看守に知られないよう密談をするとき外国語で話しをしたが、永井はだめなので、漢文をつかったという話しがあるですが、釈放されてから勉強したのでしょうか。
 堀織部正とも親しかったということも、初めて知りました。この堀さんはプロシアとの外交交渉のトラブルから老中に叱責され、その直後自ら自刃しています。ただ、その自刃の理由は明らかとはなっていませんが、当時の外交は参考とすべき前例もなく、交渉にあたる者に失態は許されないという厳しい状況ゆえ起こった悲劇かもしれません。
 永野氏のエッセイには、加茂儀一著「資料榎本武揚」に収められている榎本の書簡文も紹介されていたんですが、十一年一月十八日の妻宛の手紙に記された内容は、永井が貧窮しているので様子を見計らって金子や衣服を遣わすようにというものでした。当時は官職を辞めて岐雲園での生活をはじめたばかりの頃です。城殿輝雄著「伝記 永井玄蕃」頭尚志」によると、岩之丞に借金を申し込んだ書類が数点残っているそうで、晩年は経済的にかなり大変だったようです。永井がそれを受けたかどうかはわかりませんが、榎本は直接援助をしていたようです。それに対して、勝海舟は不動産に関する依頼を永井にして、その報酬を渡していたことが日記から伺えます。この二人にとって永井尚志という人物はどんな存在だったんでしょう。
 それから、エッセイの最後には本行寺にまだ未発表の漢詩が所蔵されていると書かれていました。いつか何かの本に掲載されることを期待しています。
 
補足
注1 「永井玄蕃頭随伴記」に獄中で洋書を取り寄せ読んでいたという話がありました。そのことが知れ新聞に「夜学する」と書かれたことを後で知った永井さんは、「明かりもないのに夜学すか」と笑ったとあります。(笑)

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05/19

 先週に引き続き旅行報告です。
 杉浦梅潭の墓所も訪れることができました。長延寺の墓地中央にある大きなお墓で、すぐ見つけることができました。今回再び国文学研究資料館を訪れて、梅潭が残した膨大な文書の中から二三点を目にすることができたのですが、読めないのが本当に残念でした。明治後、永井さんとは漢詩を通じて交流があったので、いろいろな事実が発見できるはずです。今後も機会があれば何度も訪れて史料を見たいと思っています。杉浦梅潭個人については、新潮選書「最後の箱館奉行」に詳しいのですが、漢詩人の反面無骨漢といった二面性を持ち合わせていた方のように感じます。勝海舟は漢詩をこの梅潭から教わったと書いています。また、旧幕府によると、幕府瓦解当時、箱館奉行だったのですが、もし榎本らのことを知っていればそのまま留まって共に戦っていただろうと言ったそうです。
 余談ですが、当時目付だった杉浦梅潭が浪士組取扱に任命された時、同時にもう一人同じ目付が任命されています。それは池田修理といい、当時強烈な攘夷思想の持ち主だったのが、開国は出来ないと説得するための使者としてヨーロッパを訪れたとたんに開国派に転じ、帰国後老中に開国は不可避であることについて膨大な報告書と建白書を提出しています。この人の写真を見たことがあるのですが、当時まだ二十八才ながら大変優秀な官僚だったそうで、見た目も、現在の若い俳優さんと比べずっとかっこいいと思ってしまうほど、りりしい印象の方でした。(笑)でもこの人の最期は大変哀れです。いつか杉浦梅潭とともにこの池田修理を取り上げたいと思います。
 円通寺も訪れました。ここには彰義隊と箱館戦争に関係した人物や馬のお墓、碑などがあり、その中には永井さんとその養子岩之丞の追弔碑もあります。岩之丞は箱館戦争に関する記録にはめったに登場しないのですが、たしかに尚志らと共に江戸湾を脱出し、当時は箱館ではなく役員外江差詰の任務についていたといいます。残念ながらこの碑がいつ建てられたのかはさだかではないようです。
 先週書き忘れましたが、本行寺の永井家墓所左手突き当たりに、岩之丞とその奥様のお墓があります。永井さんのお墓の前側にある背の低い古いお墓には文久三年に19才で亡くなった子息謹之助が葬られています。

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05/12

 連休を利用して東京に行って来ました。 滅多にない機会とばかりに、墓参や史料の確認などをしてきましたので報告させていただきます。

 やっと永井さんのお墓参りができました。
 墓所のある本行寺へは日暮里駅を出てすぐでした。山門をくぐり本堂左手から墓地に入って、突き当たりの一角が永井家の墓所でした。永井さんの戒名は二人の奥様の戒名に囲まれるように記されていて、「永井玄蕃頭随伴記」からも伺える愛妻家らしいお墓だと感じました。まだ供えられたばかりらしい花がとても美しく華やかで、寂しい墓所を想像していた私としては嬉しい気分となりました。
 今回訪れた墓所は永井さんの他、岩瀬忠震(雑司ヶ谷霊園)、岡部駿河守長常(境妙寺)、杉浦正一郎(長延寺)と円通寺、白髭神社の岩瀬忠震墓碑です。
 永井、岩瀬、岡部の三人はオランダ領事官ドンケル・クルチウスとの交渉を三人に全権委任するという委任状が公文書館にあり、今回の東京行きでは本物を手に取って見ることができたんです。その意味で、この三人の墓参は本当に感慨深かったです。委任状は上質な厚出の和紙で縦が40pほどもあり想像以上に大きく、それと同時に書かれている字も大きかったです。厚紙のため折り曲げるのがなかなか大変だったようで、綺麗に折られていません。
 岩瀬さんの墓所は雑司ヶ谷霊園の管理事務所で案内図をいただいたのですぐ見つけることができました。その案内図の紹介では、幕末の外交家と書かれていました。小栗忠順が政治家となっていたので、簡単に紹介するとこうなるんですね。
 岩瀬家のお墓は三つあり、正面が正五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓、その隣が養父忠正の墓、そのとなりには六女の夫である本山斬が墓碑銘をしるした墓であると「光芒はるかなり」に書かれています。
 岡部駿河守の墓所境妙寺は本では新宿区と書かれていたので探したんですがなかなか見つかりません。仕方なく電話番号案内を利用して調べたところ、お寺が移転して現在中野区の上高田にあることがわかりました。この近くには加納藩と櫛羅藩の永井家菩提寺である功運寺もあります。
 岡部駿河守と岩瀬忠震の接点で興味深い事実はニ女幸子が岡部駿河守の養女となりのち、山高信徳の妻となっていることです。岡部、永井、岩瀬は伝習所に関わっていることから当時の三人の関係が察せられるのですが、岩瀬、岡部の具体的な関係はなかなか見えてきません。
 岡部家の墓所には大変多くの方が葬られていて、お寺の移転時に墓石もそのまま移されたのだそうです。岡部長常は真中のお墓に戒名が刻まれていました。業績をたたえた長常個人のお墓があるものとばかり思っていた私は少々意外な気もしたんですが、維新前に亡くなっていることと、オランダ以外の国との外交に携わっていないので、長崎での業績があまり人に知られることもなかったのは無理のないことかもしれません。
 白髭神社の墓碑は漢文であることと刻まれた文字が読みづらく、とてもその場で読めなかったということが残念でした。しかし、この墓碑に書かれている漢文は永井さんによるもので、おそらく自身で何度もここを訪れただろうと考えると、時間を超えて共通の体験をしたことになるんですね。その碑に書かれている内容は友情以上の深い思いを感じます。城殿輝夫氏が自費出版された「伝記 永井玄蕃頭尚志」に読み下し文が掲載されていますので、機会があれば是非ご一読ください。
 

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04/08

 国立公文書館データベース
 このデータペースで検索たところ、本では書かれていないだろう、事実か憶測か甚だ謎の、次のような文書の存在を知りました。

 件名:松平慶永幕臣永井尚志ヲシテ慶喜ニ諭シ先ツ入覲シテ擬按ノ事ヲ行ハシム
 作成部局:太政官
 作成年月日:慶応 3年 12月 18日
 関連事項:政権返上

 太政官が作成しているということは、新政府側の記録です。
 大政奉還は後藤象二郎や坂本龍馬が主役となり、永井に言上し、永井は老中板倉勝静とともに慶喜を説得して実現したということが一般的に知られていて、その中で慶永の名は出てきません。しかし上の件名によると、松平慶永が永井に指示し慶喜を説得したということになります。
 この文書を全文読まない限り詳しい内容はわかりませんし、もっともこれが真実なのかどうかも断定できませんが、当時の薩摩や長州側はこのようにととらえていたことになるのではないかと思います。
 土佐の山内容堂は松平慶永(春嶽)とは親しい間柄だったことはよく知られています。その上将軍慶喜の良き話し相手でもあったと、永井が史談会速記録で語っていることからも、倒幕派の長州薩摩とはまったく違う位置にいた人物です。後藤や坂本龍馬が土佐藩士であることから、実はその背後の容堂が大政奉還に一役買っていたのではないかと疑ったことがあるんですが、大政奉還に関して探した本の中では容堂から指示したという話は見つかりませんでした。
 長州や薩摩は当時の後藤や龍馬の動きを完全に把握していたのでしょうか。もし知っていた上で書かれたのなら、彼らの背後には慶永とともに大政返上を実行しようとした容堂の存在を認識し、間接的ながら永井を動かしたのは慶永であったと断定したのかもしれないと想像するのですが・・・。それともただの事実誤認なのか・・・
 はたしてどのような根拠で書かれたのでしょうか。
 
 いつかこの史料を手に入れたいと思います。全文を入手しましたらまたここにアップします。(^^)
 

訂正 この史料は当時の松平春嶽らの覺書きなどを参考に後になり編集されたもので、この部分は慶應十二月十八日の出来事が書かれていました。よって松平慶永が永井に指示し慶喜を説得したということはまったく事実ではなかったので、訂正します。

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03/18

 半井仲庵 元瑞
 京都の医学史によると半井家は医家の名門半井家の支流で、当時越後高田の松平忠昌に召されて以来御典医の家系で、仲庵はその九代目です。江戸の医学所講師を務めました。
 また、新潮文庫「雪の花」吉村昭著によると大坂の中川脩亭に蘭学を学んでいます。福井藩の町医であった笠原良策が、多くの死者を出す天然痘を防ぐため、牛種痘を広めるべく阿蘭陀から種痘の苗を輸入できるよう藩へ嘆願するものの聞き入れられないので、半井仲庵に嘆願が受けいれられるよう願い出ます。仲庵はその意義を認め匙医の立場から慶永へ進言し、許可が下りています。その後も仲庵は笠原良策の種痘普及に度々助力し、慶永の江戸参府に伴い江戸滞在中には自ら種痘を行ったそうです。
 文久二年に当時十六歳であった息子の元瑞とともに長崎の医学伝習に参加し、後息子元瑞は江戸の松本良順の元で学び、元冶元年ふたたび長崎で医学を学んでいます。仲庵は慶應三年末にはすでに福井に帰っています。明治三年十月大坂で軍事病院設立のおり医院頭取一等教授として招かれ大坂に萬居を移しますが、翌四年十二月二十八日亡くなりました。墓所は福井市足羽山にあります。
 息子元瑞は戊辰戦争のおり従軍医師として越後柏崎病院で医師として勤務しています。明治後は名を澄(さやか)と改め、藩の医学校に勤務。明治四年大坂病院で助教として勤務。翌五年には大学東校教官などを勤める。六年には京都府療養病院に勤務し初代院長となる。
 明治二十一年京都東山の下川原町に東山医院を設立。その後京都医師会初代会長、施薬院協会委員などをつとめ京都の医学に尽力しました。
 明治三十年十二月五日死去。墓所は南禅寺天授庵にあまりす。
 その子息は朴氏(すなお)はドイツに留学し当時珍しいレントゲンが置かれた。と京都の医学史に書かれていました。

 半井家は医師の名門で、この名は福井の半井家以外にも本家である京の半井家、堺の半井家があ.るそうです。
 この福井の半井家である、仲庵の京滞在中のことや息子澄氏以外の家族についての詳細は依然全く不明です。
 澄氏はさやかと読み、その子息朴氏はすなおと読むそうですが、京都の医学史の掲載されていた写真を見ると澄氏はその名のごとく、素敵な紳士といった印象のかたでした。
 仲庵氏は前述の新潮文庫「雪の花」吉村昭著に登場しますが、この小説は笠原良策が種痘の重要性を知り、福井に広めるためにすべてを投げ打って戦った姿が描かれています。この本ははじめ「めっちゃ医者伝」という題で出版されていたのですが、その後笠原家から関係史料が公に出され、それにより吉村昭氏が加筆修正され、あらたに出版されたとき「雪の花」と改題されたのだそうです。雪の花・・・・勘のいいかたなら判るのではないかと思いますが、判らない方は(わかった方も)是非一度お読みください。当時の医療実体や時代状況などもわかるのでお勧めです。(^^)


 先日、半井家に関して京都関係の史料本で調べた時、同時に永井さんが大目付時代滞在したという壬生の大村という医師宅が正確にはどこにあったのかを調べようとしたのですが、京都の史料本に壬生に大村という医師が住んでいたということは確認出来ませんでした。ただ大村という医師は幕末から明治にかけ二家あり、一つは衣棚でもう一つは油小路と書かれていました。このどちらかが一時壬生に住んでいたのか、この本に載っていない医師であったのか、もしくは壬生に大村という医師はいなかったのか・・・。ただ、永井さんが残した漢詩に、壬生萬居という文字が出てきます。その漢詩は時代順に書かれているので、その前後から大目付となった頃のことだと解るので、やはり壬生に住んでいたことは確かだと思われます。しかし、大村という医師宅はいまだ謎です。いつこの謎が解けるのでしょうか・・・。
 そのついでながら、京都の史料本をあさっていると壬生の遊女屋の地図が載っていました。作成年がわからないのですが、仏光通り、西門前通り沿いに合計十四軒ありました。遊郭があったとは聞いていましたがこんなに多かったとは驚きました。(笑)
 またまたそのついでに、大店の名前が連なっているページがありまして、その中にもしや加納という人の店があるかと探しましたが、はたして・・(笑)呉服太物商で祇園石段南入町、伊勢与 こと加納利三郎、ともう一つ、瀬戸物商万寿寺室町西入町、つぼや こと加納三郎兵衛という人物がヒット(笑)しました。はたしてこのどちらかが、もしかするともしかするのでしょうか。(^^)

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03/11

 先日永井さんのキーワードでホームページの検索をしたところ、某坂本龍馬のホームページに出会い、その中で嵯峨実愛の手記が掲載されていて面白いと思い、早速図書館で原本を見てきました。
 その手記のなかで龍馬と、新選組から脱退した高台寺党の暗殺を下命したのが永井だったのではないかという噂がたち、永井が大変困っているという事が記されていました。
 正確には慶應三年十一月二十日に
 
   一土人衛士を切候は、永玄下知之風聞これ有、永玄困のこと、一同上卅人計所爲のこと
  
 とあり、土人衛士とひとまとめになっているのですが、龍馬、高台寺党の二つの暗殺事件直後ということで、おそらく土人は龍馬と中岡慎太郎のことで衛士は高台寺党を示すと思います。
 また、卅人とは、「さつじん」と読め、おそらく薩摩を指すと思われます。ということでそういった噂をたてたのは薩摩の陰謀だったといっているようです。
 いろいろと当時の政治情勢など推察しながら読むと大変面白いと思いますが、まだ史料を知ったばかりなので、またいつかこのテーマについて考えてみたいと思います。

 またこの手記の十一月二十六日には不思議な一文がありました。

 一甲子太郎斬手続きのこと

 これだけではあまりに簡略過ぎて意味が不明なのですが、高台寺党暗殺のことをさすと思われます。
 いったい手続きをとはどういう意味をしめすのでしょう。この事件の実行犯は新選組であることは事実ですから、実行するよう仕向けた人物が存在したということなのでしょうか。それとも、新選組内部で単独に決定した暗殺を実行するに至った経緯についてのことを指すのか、また、そのことを誰かから情報として入ったというのでしょうか。
 二十六日は永井が近藤勇にたいし、龍馬暗殺について尋問した日であるので、そのとき高台寺党の暗殺についても質問し、その内容を伝えたのかもしれないとも考えられますが、何故かこの手記では二十八日付で永井が近藤に対し尋問をしたと記しているので腑に落ちません。
 嵯峨(当時の名は正親町三条)実愛は幕府側、譜代大名、薩摩長州と幅広いネットワークを持っていた人物で、この手記にも様様な人物名が登場しています。当時は倒幕の密勅、王政復古にも深くかかわり、政治の裏側を把握していたといえます。それだけにこの手記は政治秘話の一端が垣間見えるものなのかもしれませんね。

*嵯峨実愛手記「史籍雑纂ニ」東京大学出版会より
 

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03/04

 先日新城市の設楽原歴史資料館へ行って来ました。
 この資料館は戦国時代の設楽原の戦いに関する資料と古鉄砲から幕末頃まで国内で使用された鉄砲類のコレクションと、そして岩瀬忠震に関する資料が展示してあります。
 新城市と岩瀬忠震の縁は、生家が現在の新城市にあたる三河の設楽郡の領主設楽家であったことに由来します。
 新城市には忠震の顕彰碑があり、忠震会という会が作られ顕彰活動をされているそうです。資料館で購入した岩瀬忠震書簡注解と小説「光芒遙かなり」という本はともにこの忠震会によって刊行されているのですが、内容が素晴らしく濃密で感激しました。いままで断片的にしか岩瀬忠震という人物について知らなかったんですが、この二冊と、資料館発行の冊子「岩瀬忠震」から忠震という人の像がはっきりとするのではないかと思っています。
 書簡注解は木村芥舟と岩瀬忠震の往復書簡です。解読文と読み下し文、そして難解な言葉や人物についての注釈、そして時代背景や他資料の引用もふくめた詳細な説明文があります。これらは忠震会の会員のみなさんが研究を続けられて完成されたもので、専門家の方が書かれているわけではないというのにも驚きます。
 「光芒遙かなり」は岸上耿久さんという法曹界出身の方が書かれています。大変読みやすくて史実を忠実に再現されているので、これは是非おすすめしたい本です。膨大な史資料をもとに書かれているので、引用されているエピソードも多彩で興味深いものばかりです。
 この本を読んではじめて知ったことがたくさんあったんですが、その一つに岩瀬忠震が亡くなった岐雲園は後に永井が晩年亡くなるまで守り、その後幸田露伴一家が一時住んでいたと「光芒遙かなり」に書かれていました。(補足 1 補足 2)露伴の弟子が書いた文章に当時の住居に関するものもあるのですが一切永井、岩瀬といった前住人についてはふれておらず、全く知らなかったのかもしれないというのがなんとも不思議に感じました。
 それから、資料館の展示物に岩瀬家の家系図があり、忠震の二女幸子について、岡部駿守長常の養女と書かれていました。この家系図は書簡注解にも掲載されていて、たしかにそう書かれていて、のちに山高信徳の妻になったともありました。岡部は長崎伝習所に関して功労のあった目付、のちの長崎奉行です。往復書簡の相手である木村芥舟も長崎伝習所総督としてで永井の後を任せられています。安政四年に岩瀬自身長崎へ行っているのでその時岡部と交流がはじまり懇意になったのか、それとも目付として江戸にいる頃からなのかが知りたいと思ったんですが、どうもこの点について書かれた文章が見あたりません。残念です。
 資料館でもう一つ嬉しかったことは、図書室があり岩瀬忠震に関連する本がたくさん所蔵され解放されていたことでした。貴重本もあり、近くに住んでいらっしゃる方が羨ましいです。忠震会にも入れるものならはいってみたいです。しかし自宅から遠すぎます。なんとも残念です。
 設楽原歴史資料館へは豊橋駅から飯田線に乗り三河東郷駅で下車、徒歩十分ほどの場所にあります。駅前には案内が書かれています。
 入館料は大人二百円でした。(^^)

補足1
鰐淵謙定 著 「幕臣列伝」の中では幸田露伴の兄が住んでいたと書かれています。幸田家が住んでいたことは事実に違いないのですが、何故兄と露伴二説あるのか現在のところわかりません。「光芒遙かなり」は最近書かれたばかりの本なので、鰐淵氏が書かれてのち、実は露伴が住んでいたと判明したのでしょうか・・・・。

補足2
東海日日新聞連載「越後長岡と東三河」大島信雄著 で岐雲苑の住人について詳しく書かれていました。それによると、幸田成常が永井のあとにこの屋敷に住み、そのあと弟露が住んだということです。詳しくはぜひリンク先からダウンロードしてお読みください。

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02/18

 掲示板の方でも書いた、半井という福井藩の医師について判明したことを報告します。
 半井仲庵は笠原良策という蘭医とともに福井藩で種痘を普及させた人で、春嶽の侍医としては最も信頼された医師の一人であったようです。
 大坂の緒方洪庵のもとで蘭学を学んだ橋本左内はこの仲庵よりかなり年下ですが、同じ蘭医学を通して交流があり、仲庵はこの年少の医師の将来性を高く評価しました。そして左内が刑死するまでその交友は続き、獄中から母へ宛てた手紙に度々その名が登場しています。(この手紙は母へ宛てているためかなを多用したもので、かな使いの優しい雰囲気と左内の母への繊細な心遣いや旧友への思いや自身の内面の葛藤が察せられ、また刑死という結末がわかっているだけに、哀しくも感動的です)
 半井仲庵は長崎で医学の伝習がはじまった当時、まだ十代の息子元瑞とともに松本良順の門下生として伝習に参加しています。松本良順が江戸に帰ったとき、共に江戸、もしくは福井へ帰ったようですが、慶應にはいってから息子元瑞は橋本左内の弟綱常とともに、再び長崎で蘭学を学んでいます。
 慶應二年、将軍家茂が大坂城で重篤となった時、福井藩主松平慶永(春嶽)は半井仲庵を京都から将軍の奥医師である松本良順の元へ送り、家茂の病状を探らせようとしました。その時松本良順は自伝でも書いているように、家茂に側にいるよう命じられ、下がることも眠ることさえもできずずっと看病にあたっていたので、仲庵は良順には逢えず、もう一人の奥医師である石川から病状を聞き出し、慶永のもとに逐一報告しています。
 維新後、半井仲庵は福井へ帰っています。明治四年に大坂で軍事病院建設が持ち上がり医師として赴任しますが直後の明治五年一月に亡くなりました。
 息子元瑞は戊辰戦争当時、橋本綱常とともに官軍の医師として東北へ派遣されています。
 明治にはいり名を澄とあらため、京都で東山病院を開設。名医としてその名が知られていました。

 現在はこれくらいしかわかっていません。
 仲庵に娘がいたのかという点は、全く不明です。
 ただ、慶應二年頃は京都に滞在していたことは確実になりました。
 この仲庵には写真が存在していて、小さく掲載されたその写真を見ましたが、あまりにも不鮮明ではっきりとはわからなかったのですが、知的で高僧のような雰囲気の方でした。


 
 ついでながら・・・
 長崎の伝習について書かれた本の中でポンペが教えた内容に病院の建設について講義内容があったのですが、この内容が、建物の建設場所や構造、配置などについて説明で、一例としては風通しをよくするために冬でも戸を少し開けるておく、また日当たりにも配慮する。特に水利のよい場所にしなくてはならないとされていました。清らかな小川の側や池のそばが良く、よどんだ沼の近くなどは避けるべきだといっています。医療のために水が大切で、いつも良い水が補給できる場所をという意味があるそうです。現在生きている私たちとしては当然だと思う内容ばかりなのですが、当時としては斬新だったのではと想像されます。
 実際に良順は幕末時、医学所を隅田川のほとりに置いています。明治後蘭疇舎という医塾でもある病院を建てていますが、その敷地内には大きな池が二つあったといいます。(しかし池の水を医療に用いるためその場所を選んだのかどうかは不明です)
 何が言いたいかといいますと(笑)、新選組の沖田総司が隠れ住んだという千駄ヶ谷の植甚の納屋は、沖田が住むにあたり改造され、東と南側に縁がはられ、障子に鳥影がさしたといい、日当たりも良好で、すぐ裏手には小魚が捕れる小川が流れていました。
 この場所に移るにあたっては良順の指導があったのではないかと思うのですが、はたしてどうだったんでしょうか。

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