徒然に

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丙 丁
勝海舟と脱走軍そのニ
勝海舟と脱走軍その一
龍馬暗殺と永井の疑惑
残留浪士、会津お預かりに至る経緯 その三
残留浪士、会津お預かりに至る経緯 その二
残留浪士、会津お預かりに至る経緯 その一
加納町史「永井玄蕃頭随伴記」
明治二十四年七月一日
榎本軍脱走の謎・2
榎本軍脱走の謎
永井と三島由紀夫の関係
幕末史研究三十三号『新選組結成の真相』より
丙丁(へいてい)

 丙丁の二文字が書簡の末に記されていることがあります。
 丙と丁はどちらも陰陽五行(水・木・火・土・金)の火に属し、書簡を火に投じ焼き捨てて欲しいという意味に使われました。もし、その意味通りすべて火に投じられていたとすれば、こういった書簡の存在は現在明らかにはなっていなかったでしょう。しかし、幸いにも現在書簡の内容を目にすることができるのは、文中で明かした自分の意見はくれぐれも内密に、という極秘書簡の意味合いに使われていたからかもしれません。
 何れにしても、内容が漏れることを恐れた書簡には興味が惹かれるものです。
 ここで岩瀬忠震、永井尚志、二人の”丙丁”を紹介します。

明日之召人一人而已矣其一議論鼎沸なるべし
扛t鼎之力を極め居候
御一粲
早々
丙丁
  即時
     震
楷堂君


推定年月日安政二年九月十四日
明日召されるのは一人のみ。議論がはげしくなるでしょう。
全力を極めるつもりです。
お笑いください。
早々火に投じてください。
取り急ぎしたためました。
岩瀬忠震
木村楷堂(芥舟)君へ
簡潔な文です。
これは、岩瀬忠震が木村芥舟に宛てて書いた書簡です。
芥舟は忠震より十二歳年下ですが、昌平校の学友でした。
当時、芥舟は講武所への出役を拝命していましたが、武術はあまり得意ではなかったため、忠震に相談したところ、目付への抜擢につながりました。
明日の召人・・・・翌日目付が選任されることになっているが、芥舟の他に津田半三郎も推薦されていたため、議論が沸騰するだろうと予測するとともに、自分が強力に推すことを述べています。
御一粲・・・歯を見せるという意味で"ご一笑"と同じ。簡潔ながら力強く茶目っ気もあるこの書簡を受け取った芥舟は、思わず顔がほころんだのではないかと想像されます。
翌日議論の結果、津田、木村の二人とも目付への昇進がきまりました。
そして芥舟は、安政四年には、永井尚志の後任、長崎海軍伝習所所長として赴任します。のち、福沢諭吉を従者として咸臨丸で渡米したことはよく知られていますが、岩瀬忠震は生前このアメリカ行きを熱望していたといわれます。そして、永井は一時確定していたのですが、安政の大獄により消え去りました。
次の永井尚志の書簡は、その米行に関するものです。
安政五年11月21日付勝海舟宛書簡

略―― 然ば亜(アメリカ)行の儀につきらる御書面の趣御尤も至極。右は仰せ越されこれなくとも尊公御宿志は崎陽(長崎)在勤中も熟知致し居る事ゆえ、亜行には是非御同行のつもり。既に亜行名氏手録へも御姓名は揚げ置き申し候。併し亜行一条については、乗組人数の処、諸局にてかれこれの説これあり、甚だむつかしく、御意味合いもこれあり候間、尊公の事などもこの節より予め申出で候ては整い候事も整わざる景気なり。依って全て拙腹中に収め置き、先日●かに水野筑のみへは尊公陪行の談を一寸致し置き候なり。拙、昨年帰府以来、職事多端、狼狽。ことに身は崎陽四百里の遠きにこれあり候とも、伝習一事は創業の重命を蒙り、それが為この一事は雑中に紛れといえども、夢床忘れず、国家の為、海運業、是非御成立相成り候よう致したく、頻りに心は崎陽にそそぎおり候。御文通こそ染々致さず候えども心中には尊公の事も決して忘却致さず、拙の一心は猶昨年以前、崎陽に在勤の節といささかかわらず候間、さようご承知下されたく、亜行の陪行御心配なされまじく候。――略――
 都下海軍局も昨年種々砕身、少々模様相附候ところ、閣老衆御転にて中廃の模様ゆえ、一際心配、種々強論建白も致し、この節又々漸く口明き申し候。大業創始の至難はかねてかくと存じおり候ところ、さてさて容易ならず、只一時の気概に乗ぜず、忍の一字にて応酬、焦心致しおり候えば、必ず成立いたすべく、この節とても海軍局の儀は拙よりかれこれ論出し申さず候えば、相掛りは更に構い申さず候。閣参も他事に御取紛れゆえはかどり申さず候。さてさて心に任せざる事、これ以て国家の為、一長嘆息に御座候。荒増の模様まずかくの如く、委曲は何分楮墨に尽しがたく、只拙の鉄膓はいささか以て前に代り申さず候。頓首
十一月廿一日夜認                玄蕃頭
麟太郎様
本文の儀、心中不平を認め候処より、忌憚に触れ候儀もこれあり候間、御一覧、丙丁子に御投与下さるべく、公の外、本文の如き申し進め難く候間、必ず御他見ご無用に御座候。以上。
―――以下略

上の書簡は、永井尚志が勝海舟へ送ったもので、内容から勝は永井の長崎滞在中からアメリカ行きを希望し、それに応えるように永井も尽力していたことがわかります。前年の安政四年四月一日付勝海舟への書簡には阿部正弘に海外留学生のことを話したところ、手ごたえがあり、遠からず行われるだろうという見込みがかかれていますが、その直後の六月阿部正弘は亡くなってしまいます。
上の書簡が書かれた安政五年八月に水野筑後守と永井、目付の津田、加藤は日米修好通称條約批准書の交換のための使節に任命されます。かれらは、アメリカへ派遣される一隊とは別に船をしたて、留学生を派遣することを建議し、九月に正式に決定しました。
 同時期永井は外國奉行にも任ぜられ、外國との交渉にもあたる多事多端な時期でありながら、海軍創設のため築地に海軍操練所を起こし、また、長崎海軍伝習にも心を砕いていました。しかし、文中に心に任せざる事、これ以て国家の為、一長嘆息に御座候(大意・・・国家のための政策を思い描いても、思うようにならないので嘆息します)とあるように、政権が井伊大老に変わってからは海軍伝習も中止の方針に進み、状況が悪化しつつある焦燥感が伝わってきます。
 書簡中、永井が勝の留学希望について話した唯一の人物である水野筑前守にも、勝は手紙を送っています。その水野の返信は永井の大変慎重で用心深い手紙とは対照的で、勝の派遣がすでに決定されていることとして今後の予定などがはばかりなく記されています。
 水野筑前守は安政の大獄を逃れ、咸臨丸によるアメリカ行を実現させました。永井の手紙に見られる不安感は大獄が身近に迫りつつあった故かもしれません。
参考資料
「岩瀬忠震書簡註解」忠震会
「幕臣勝麟太郎」土居良三
「勝海舟全集別巻2」勁草書房
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勝海舟と脱走軍そのニ

榎本軍が江戸を脱走し、仙台から蝦夷へ向い共和国を樹立させつつあった頃の、江戸の勝海舟を日記から追ってみます。


明治元年十一月九日
東京より脱艦、箱館に於て乱妨につき御譴責、御書付出る。但し一翁、少拙両人、急速出府致すべき旨御沙汰、即夜上登。



十二日
午後登城
坊城殿、箱館表の儀、精々尽力致すべく、猶仰せつけらるべく儀もこれある趣、御達し。

十三日
大久保氏へ尋問、我が実情を内話し、且、見込みの趣申し立つべく哉と答う。然るに御同人甚だ厚意。
今夕殿下(三条実美)へ参るべき旨の談あり。夕刻、公館へ拝趨、殿公、甚だ御誠実の御識量に感服し、心裡を歎願す。

この朝勝は大久保と談話し、実情を述べると、大久保は厚意的な返事をしています。そして、その折り、三条実美の元を訪れるよう勝に依頼しているのですが、これは徳川家当主亀之助が幼少のため慶喜に脱走軍征討の嘆願書を出させるよう勝に申し込んだものでした。これは慶喜自ら征討に赴けば、榎本らも抵抗できないだろうという策によるもので、十五日無事提出されます。


十四日
松平へ頼み宅状差し出す。


嘆願書は後見人の名により提出されています。その書を認める旨を勝が依頼したと思われます。

●大久保氏へ行く。
歎願下案内相談。明朝差し出し然るべき旨なり。
○夕刻、加筆、御後見の名にて明朝差し出すべく文通これあり。夜に大久保一翁子方へ申し遣わす。

十五日
本日歎願書差出、夕刻、大久保氏再び添削、至急認め直し、御引き返し進達すべき旨、内告あり。


慶喜の征討嘆願は後見人松平の名で書かれていますが、この文は実は勝と大久保により作られたのでした。その内容を以下に載せます。


この度、脱艦の者追討、仰せ出され、一同恐愕、日夜痛心仕り、何卒速かに実効相立ち申すべくと存じ奉り候えども、元来、亀之助義、幼弱の事にもこれあり、事に不行き届きの私共、実に当惑のほか御座無く、深く恐れ入り奉り候のみに御座候。ついては願い奉り候も恐れ入り候えども、慎み、仰せつけられ居り候慶喜事、格別寛大の御沙汰蒙り居り、竊かにこの度の挙動承知仕り、深く恐縮仕り、暫く御寛宥の御沙汰仰せ出され候わば、自分出張仕り、追討の実効相立て、宸襟を安んじ奉り、天恩万一に報じ奉りたくとの心事、余儀なく承知仕り候につき、非常、寛大の御沙汰成し下されたく、誠に区々、微衷恐れ顧みず、この段偏えに嘆願奉り候。
         松平確堂


廿日
三条殿へ拝謁。当節願いの旨意、并に御尋ねこれあり。腹蔵無く言上。

廿ニ日
三条殿御逢い、御懇の御意御内告。民部大輔殿、箱館追討命ぜらるべき願意御沙汰に及ばれざる旨なり。


慶喜による追討は却下され、その代わり水戸の徳川昭武に決まりますが、後、蝦夷での戦闘に加わることとはなりませんでした。


廿四日
本日岩倉様へ参館、御懇切の御話を承る。


大久保利通宛て二十八日付けの勝海舟の書簡

二十三日見込みの小事七八ヶ章、岩倉様へ申上げ候所、御決定にも相成らず候儀と存じ奉り候。私事も種々相考え候に、昨今退職相願いも恐れ入り候儀、百事御決定までは御日合いも御座候事か。

書簡では二十三日の岩倉との面談で言上した勝の意見は取り入れられなかったとあります。
勝海舟が退職の意志をあらわしているのは、政府側に勝の意見が取り入れられないことに対する訝りからだったのでしょうか。
また、この頃は政府側から勝に対する猜疑もさまざまにあったようで、榎本らの脱走に関しても、勝を疑うものがあったといいます。


十二月十日
岩倉殿へ参館。箱館并に宮様御上京の事、且、当節困弊の情実等、言上。


十一日
一翁殿来訪。水戸御家老、箱館の事、内談あるに因てなり。


十二日
水戸の興津蔵人へ、箱館表の事内談、且、岩倉殿厚き思召しを承る。


十三日
一翁子へ顛末を云う。不在、面会能わず。
●岩倉輔相の御内人名和緩来訪。英仏蘭の三ヶ国、格外中立を解く御談、承引周旋の旨、書翰御内示、且、英仏二国の軍艦、箱館に在る者に介し、脱艦の徒、書翰差出御受取り相成らずといえども、暫時御借り受け御内示これあり。


十八日
参朝、三条殿より、脱走者等、英仏に頼み差出し候歎願書、御差し戻し、且、岩倉殿より両国公使へ、右につき遣わされ候御書翰写し、心得のため御渡し。猶、遠州三替地御渡しの事、懇々仰せ下さる。


この頃蝦夷を共和国として諸外国と対応していた榎本軍は、政府から正式に旧幕臣に蝦夷を賜りたいと歎願書を作り、英仏に託します。しかし政府がこれを受けいれるはずがありませんでした。

この後、政府側と勝との脱走軍に関する折衝の記述は見当たりません。
そしてそれまで頻繁に送られていた大久保利通宛ての書簡も十一月二十八日付け以後、翌年九月までは現存していません。

一月十七日
山岡氏、函館にて、榎本狂気に類せりと云う説あり。


勝海舟のもとに脱走軍に関する情報がどれだけ入っていたのかは不明ですが、多くはこの記述のように曖昧な風説だったのかもしれません。

そして、四ヶ月後の脱走軍降伏の報せに関する記述も、日記からは伺うことができませんでした。

六月三十日、榎本らは江戸に護送されています。しかし、その前後も何もふれられてはいません。
情報は入っていたに違いないと思うのですが・・・。勝は彼らに対しどんな思いを抱いていたのでしょう。

少し手がかりとなりそうな記述がその少し後に書かれていました。

七月二十三日
薩(摩)参政、黒田了介来訪。懇々の話并びに函館表の顛末これ承る。


薩摩の黒田了介(清隆)が榎本らの命を救ったということは今ではよく知られています。
その黒田と、勝が以前から知り合いであったことは日記からは全く伺えません。それまで登場したことのない名前だからです。
しかしこの七月二十三日以降、勝海舟の日記には黒田の名が度々登場しています。
これらは何を意味するのでしょう。
日記の記述からだけでは榎本ら脱走兵の助命の裏に、薩摩(大久保や西郷)にたいする勝海舟の周旋があったと断言することはできませんが、彼らの生還を心から望んでいて、それが完全な形でとはいえないまでも、実現した喜びと感謝の気持ちがその後の黒田との交友に現れているように思います。


また、脱走軍の慰霊碑である碧血碑の建設にあたり、勝海舟が多額の寄付をしていることを再びここに記します。

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 勝海舟と脱走軍その一

 江戸を脱走した旧幕府軍の高官の多くは、長崎海軍伝習所出身者でした。
 蝦夷共和国の箱館奉行には永井が選ばれています。この永井も長崎海軍伝習所の創設時から運営に尽力し、当時の伝習生を見守ってきた存在でした。当時いかに勝と永井が信頼しあい海軍の創設にあたっていたかは現存している永井の書簡からよくわかります。また、この書簡を読むと当時の永井の純粋な使命感には感動を覚えるほどです。
 また勝海舟はおそらく一生この永井を恩人とも恩師とも、恩ある上司として大切な存在であり続けたことも想像できます。
 当時勝が恩師である佐久間象山から送られた書簡からもそれがわかる一文があります。
 
 安政三年七月十日付け書簡より抜粋
 永井殿御事、好人物にて且英敏、万御力を得られ候よし、幸の御事と存じ奉り候。何事もよき同志これなく候ては済み難く候。御協同専一と存じ奉り候。

 勝海舟が永井の一生に渡り関わっていたのにもかかわらず、何故かこの永井について改まって評していないのが不思議に思いますが、あまりに身近で大切な人物であったため、公言することははばかられたのかもしれません。
 しかし、残された書簡に永井を公人として述べたものがあります。

 明治二十四年二月一日付けの宮本小一宛、勝の書簡より抜粋
 御同人(永井)は旧政府中二、三の人物、知られず候えども、一翁と兄弟の内、定め難しと愚考候。

 大久保一翁と伯仲するほどの幕臣であったとは、今の知名度からすれば少し担ぎすぎかと思う方があるかもしれありませんが、永井が幕末全般にわたり第一線の政治に関わってていたことは事実で、勝海舟の誇張でもないと思います。
 その永井が榎本らとともに江戸から脱走を謀ったのは、明治元年の八月十九日。
 勝海舟は八月二十日の日記に以下のように書いています。 
 開陽(榎本が艦長をつとめる軍艦)より一封到来。昨夜御船悉く退去。その行く所を知らず。(中略)嗚呼士官輩、我が命を用いず。

 そして、二十四日には永井に対する疑惑を書き記しています。
 我が軍艦の士等、小節小細工の輩に鼓動せられ、忽ち軽挙に及びしか、知るべからず。永井水主の乗組みたる、尤も以て怪しむべきなり。

 かつての交友関係からは想像がつかない厳しい言葉です。その上、勝海舟は榎本の書簡を通じ、彼らがいずれ脱走することが予想できたはずだと思われるのに何故その原因を永井にありとしたのでしょうか。
 二十日付けでは、"我が命を用いず。"

 二十四日の書簡では、榎本らを指して"我が軍艦の士等"

どちらも我という字が出てきます。榎本ら海軍伝習所に携わっていた士官は勝にとって、今も同じ仲間であり、上官として指揮するに値する立場にあると考えていたのではないかと思います。
 そんなかつての仲間が勝への音信を絶ち、突如脱走を謀ったことは、薄々想像していたことながらも、その衝撃は大きかったのではないでしょうか。また当時の勝は新政府に反抗する分子は抑えなくてはならない立場にあり、それを抑えきれなかったという失敗の源因が、榎本らと同じく勝にとっても恩人である永井の扇動によったのだとすれば、かれらが自分の命令を無視した事に対し納得もでき、それ以外にはないと思いたかったからかもしれないと想像するのですが・・・。
 
 その後、勝が脱走軍に対しどんな対応をとったのかはあまり知られていません。勝海舟はかつての同志や恩人を見捨てたのでしょうか・・・。

その二に続く

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龍馬暗殺と永井の疑惑

 現在では、坂本龍馬を暗殺した実行犯は見廻組の佐々木らであるという説が有力視され定説となりつつありますが、いまだに全貌は明らかになっていません。
 当時、龍馬と永井は平和理に大政を返上すべく奔走した同志でもありました。その永井が龍馬暗殺を佐々木らに指示したという説があります・・・・

「坂本竜馬を斬った男」今井幸彦 著
の中で、竜馬暗殺を見廻組の佐々木、今井らに指示したのが誰であったのかが推理されているのですが、その一人として永井の名が挙げられています。
 その根拠となった史料は、今井只三郎の実弟省三の書簡で、大正十年頃のものであると推測されています。
 その文中より抜粋します。

 ある日永井玄蕃より(大目付)より密会を求められ、土佐浪人阪本竜馬を討ち取るべき内命を拝せり。
(原因はもし慶喜公が政権返上の献白書を御採用なき時は、阪本は同志を集め隙を見て不用意に乗じ討奉るべき決議をなせしことあり)
 早々同志三、四名と手筈を協議し、兄の策を用い、兄は阪本の旅宿に至り、面会を求め座敷にて問答中阪本目早く覚り、同座のものに合図すると同時に、兄は抜き打ちに阪本を斬り、返す刀にて他の者を斬り、(何故止めを刺しざりしか知らず)旅宿を出て途中土佐兵に出会いせしも平気を装い謡を歌いて通過せり。(中略)
又老生省三は姉上の所持せし永井氏より金五十両慰労のため送りし書附を見たることあり。

 本書でも今井氏は永井説を否定の根拠として、当時永井は竜馬の死の直前も平和理に政権を委譲させるべく、たびたび会談していることを挙げられていますが、それについて少し説明します。
 竜馬の十一月十一日付の書簡の内容から、その日永井と会談したことがわかるのですが、そしてその追伸には、
___ 永井のことはひた同心にて候。___
 と記しています。
 永井と竜馬がはじめて(初対面であったかなかったのかは別として、永井については文久三年頃より、勝海舟などから情報を耳にしていたことは十分想像されます)会談したのはわずか一ヶ月前の、十月十日のことでした。このとき竜馬が、幕府の兵力で薩長を制すことができるかを尋ねると、永井は無理だと答えます。すると竜馬は、大政奉還をするしか途がないのではないかと永井に迫ったという話があります。←(注1)そしてこの答えから、竜馬の意思は固まったともいわれています。
 また、永井は龍馬について、 「後藤(象二郎)より一層高大にて説く所も面白し」と評しています。
 このように龍馬と親交を結んでいた永井が、竜馬が大政奉還を慶喜が受け入れなかった場合、武力倒幕を起こそうと考えていたという理由だけで、暗殺を命ずるものでしょうか。
 また、当時永井は大目付ではなく、若年寄でした。(その役職がはたして見廻組にたいし密かに命令を下すことがありえるのかどうかを推測することは控えます)
 十月から新選組が正式に永井の護衛についています。そして、新選組局長である近藤勇と永井は個人的にも親交がありました。その近藤に一切知らせず、見廻組に密かに指示を出すことは考えにくいことではないかと私は感じるのですが。
 また、永井は慶喜に直接大政奉還について言上し、説得にあたっていたわけで、受け入れられないような事態になるとは想像もしていなかったと思われます。
 以上の理由で永井指示説は、省三の記憶違いによるのではないかと考えます。
 
 
 それでは、一体誰が指示したのか。
 残されている今井の証言では、「ふとしたきっかけで竜馬の居所がわかり」とあり、暗殺は偶発的な事と受け取れ、指令者については含みをもたせてもいません。
 前記の本では、寺田屋への竜馬捕縛では幕府側は竜馬の発砲により死者をだした上に取り逃がしてしまい、大きな失態を犯しており、どうしても竜馬を討ち取りたいという思いが日頃から強かったなか、竜馬の居所をつかんだため、寺田屋のときのような捕縛ではなく、確実に仕留める方法に出たのだという推測が書かれていました。
 この説を前提に今井の証言から考えるとすれば、”ふとしたきっかけ”をあたえた人物とその背後が、一番怪しいのではないか・・・
 はたして真相が明らかにされる日は来るのでしょうか。

注1・・・・雑誌「旧幕府」の福岡孝悌が語った大政奉還の談話によると、龍馬ではなく福岡自身のであったとあります。

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残留浪士、会津お預かりに至る経緯 その三

 政治御総裁職の松平春嶽が目付杉浦正一郎らとともに、艦長の勝海舟が指揮する順動丸で上洛したのは、文久三年一月二十三日でした。
 その前年暮れ、坂本竜馬は勝海舟の門下となっています。その竜馬は「雄魂姓名録」に、以下のように書き残しています。

浪人頭   清河八郎
右之人浪人頭ヲ被仰付依之浪人来り候時は弐人不知に金拾両、幕より被下候様承。
少しの間にて浪人四五拾人参りしと聞、右数浪人幕府上京時参り候様、勝麟太郎先生より夜にて聞し事。
此は春嶽公大失策也。亥の正月廿二日しるす。幕も大きに勢無之き事と知るべし。一笑々々。

 浪人頭を仰せ付けられた清河八郎は、浪人が来たときは二人扶持に金十両が幕府から支給されるよう承った。少しの間で四、五十人集まった。この浪人は幕府が上京する時共に上洛すると麟太郎先生から夜聞いた事である。
 これは松平春嶽の大失策である。幕府も勢い無き事としるべし。一笑一笑

 幕府が上洛するにあたり、浪人の力を借りるとは、幕府も落ちたものだということでしょうか。
 竜馬がこの文を書いたのは、春嶽が松平上総介(浪士取扱)のことについて、杉浦正一郎、勝海舟の三人で順動丸艦内にて話し合いをした当日です。
 杉浦正一郎は竜馬がこの文章を書いた当日、順動丸の艦内で彼にはじめて会ったと書き残していますので、その会談ののち勝海舟からこの話を聞いた可能性もありますが、実は、勝海舟の当時の日記には以下のように書かれていることから、順動丸で江戸の勝邸へ着いた十六日以降、杉浦と会談した頃であったかもしれません。

十八日 登営。杉浦正一郎へ、偽浪人の事を議す。
二十日 千葉生来たり、偽浪の事を話す

 勝海舟は江戸に着いてから、浪士組についての情報を耳にし、偽浪人と書いているように、この幕府の政策を反対していたようです。勝は春嶽を京へ送ったあと、江戸に帰還し、登城して春嶽からの伝言を老中の水野らに直に伝えた時、怒りを露わにして議論に及んでいるのですが、この浪人のことについてもふれたと日記にはあります。
 勝は後、坂本竜馬を塾頭として、神戸海軍練習所を興しますが、望月亀弥太が池田事件の犠牲者であったことから、幕府から閉鎖を命じられてしまい、慶應四年までの三年ほど、表舞台から遠ざかるのですが、竜馬は、勝から薩摩へ紹介され、のちの海援隊設立へと変転していくのでした。
 浪士組と勝海舟の縁は池田屋事件だけにとどまりません。蘭学者であり、恩師である佐久間象山に嫁いだ妹の子三浦啓之助は、暗殺された象山の敵討ちのため新選組に入隊しています。入隊に際し、土方歳三は新選組副長として、局長代理で書簡を勝へ送っています。その書簡は他の書簡とともに桐の箱に入れられ、長く大切に保存されてきたといいます。
 その土方歳三は、慶應四年四月に近藤勇助命のため勝邸を訪れています。
 明治後、訪れた元新選組隊士に対して、金子を渡しています。その一人である結城無二三は勝との対面時の事を書き残していますが、その内容からは、旧幕府側の人間が反乱を起こさないよう、苦心していたと思われる当時の勝海舟の一面がうかがえます。

 話は戻ります。
 二十二日の夜、杉浦、勝と会談した松平春嶽は、浪士組の上洛を延期するよう、老中の水野に手紙で指示しています。
 その夜一体どのような会話がされたのか考えると、竜馬が書いた内容から、勝は浪士組を京へ送ることは春嶽の失政になるから中止するよう求めたように想像します。
 これに対し、杉浦は浪士組取扱であり、当初から幕府から役人としてかかわっています。おそらく、浪士組の意義やこれまでのいきさつを説明し、決して失策となるようなことはないというように説得したのではないでしょうか。
 また、春嶽がなぜ上洛間際になりこのような会談をしたのかを考えると、勝海舟から直談判され、急遽杉浦を交え会議をしたのではと想像します。そして、詳細についてはじめてこの席上で知らされたのではないかと思います。
 しかし、老中水野の日記を見たところ、春嶽から送られた手紙について触れられた部分は見つけられませんでした。
 春嶽は延期の指示を出したのですが、浪士組の出発が延期されたという史料もみあたりません。
 ただ、松平上総介は上洛直前浪士取扱を辞任しています。この辞任に関しては、当初予定より大幅に増えすぎた浪人の責任を取って、というのが一般的に知られる理由ですが、もしかすると、この春嶽の指示に関連していたのかもしれないと考えるのですがいかがでしようか。これを裏付ける史料の今後の発見を期待します。

 浪士組の上洛は、想像以上に大きな、幕府の一大プロジェクトだったようです。


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残留浪士、会津お預かりに至る経緯 その二

 浪士組の上洛途上、近藤ら試衛館一派は勤王浪士ではないという嫌疑を受け、石坂周造の隊と近藤の隊が入れ替わり、石坂が試衛館一派の様子をうかがったところ、異論が紛々としてあったと後年石坂は語っています。また、近藤自身、固よりそういう精神のものではないと語ったといいます。
 何故試衛館一派が上洛することとなったのでしょうか。
 
 幕末史研究に掲載されている「新選組結成の真相」では、試衛館一派は老中の板倉勝精の密命を受け、清河らを監視する目的があったのではないかと推測されています。
 多摩は天領地であり、もともと徳川の民であるという意識は強い土地柄であると言います。また、八王子千人同心として将軍上洛時に警護のため上洛している井上松五郎とも深い縁があり、幕府の密命を受けて上洛したのでなかったとしても、近藤らは勤王というより、もともと徳川に対する忠誠心が強かったのだと思われます。
 
 そもそもこの浪士組は、清河八郎の意思を受けて松平主税助が春嶽に建議をしたものが受け入れられ、幕府の政策の一つとして実行されたものでした。
 その松平主税助の建議を受け、目付杉浦正一郎が書いた建白書があります。

杉浦正一郎の建白書

今度評議に御下ヶ被成候松平主税助建白仕候、諸浪人御宥免之儀、熟考仕候処、主税助儀一時之機會ニ乗し、雲路ヲ求メ候譏りは難免候得共、書面之趣に而は、何れにも奉對御為拂心底申上候儀に而、方今之御時勢、浪人共此まゝに被差置候而は、追々に滋蔓相成、尚此上如何様之暴行可相働も難計、其都度々々御威光にも拘り候段、深痛心仕候、固り浪士ノミニ候得は、速に御成敗も可有之候得共、諸大藩之関係も不少、加之尊王攘夷之説ヲ唱へ候故、御所置之程甚御手重に付、是迄御因循被遊候儀に而、此度勅使参向ニ付而は、御程合難計候得共、何れにも勅諚御受に相也候儀に候ハ丶尚更之儀に付、主税助申立候通断然御許容相成、寛大之御仁恵を以浪人共罪科御宥免に而御傭上ヶに相成、主税助江主宰被仰付候ハ丶、浪士共御徳澤に奉感服平穏可相成歟、若其上に而壱人たり共不良之所業有之候ハ丶、厳敷御罰し有之候段、兼而当人共江可被仰渡、右様御英断相成候ハ丶、人意之度外ニ出、世上之耳目を一新仕、御政事御変革尋常ニは無之段、京師は勿論諸藩江も自ラ相響き、却而折合方ニも可相成哉ト奉存候、従古、良将は無頼を以善良に換候は、即駕馭之術に工なる故ニして、彼塙團右衛門・可児才蔵之徒、素 善良之士には無之候得共、良将ニ役使せらるれは、各粉骨を盡し分外之軍功も相立申候、是は駕馭之術ニ工成ニ而御座候、然れば、無頼を以善良にかへ、一箇之千城に被為当候様仕度、是当今之急務と奉存候、仍而は主税助建白之次第、御許容相成候方向然儀ト奉存候、尚御取締筋之儀は追々可申上候、巳上
戌十一月                   杉浦正一郎

松平他姓に主税助建白之儀ニ付申上候書付 杉浦正一郎 


 この建白書は文久二年十一月四日に出されています。
 松平主税助が松平春嶽に建議したのがいつだったのかははっきりとわかっていませんが、杉浦の建白書の日付から十月にはすでに建議されていたと解ります。
 建白書では、浪士を処罰することなく雇うことで幕府の威信回復にもつながるというような内容となっています。また、文中の『無頼を以善良にかへ』が浪士に対し苦慮していた幕府側の都合のいい思惑が象徴されているように思われます。

 十二月九日に主税助は浪士取扱を命じられ、十二日には杉浦正一郎も浪士取扱を仰せ付けられています。
 
 当初幕府は五十名ほどの募集のつもりだったのですが、最終的に二百人以上集まってしまい、このことが原因で主税助は取扱を辞任したと言います。
 募集にあたった石坂らはもともとこの機に乗じて尊皇攘夷を決起するという意思があったため、出来るだけ多く集めようとしたという証言があることから、幕府側と清河ら当事者は当初から反駁していたのでした。
 幕府は清河らのこのような動きを全く把握していなかったのでしょうか。
 
 政治総裁職にあった松平春嶽に主税助が建議したことからこの浪士組は発したわけで、春嶽はこの浪士組をよく承知していたはずです。
 春嶽が書いた当時の日記があります。それには以下の内容が書かれていました。

____ 夜ル正一郎、麟太郎、兩人ニ逢ひて、松平上總介の事を儀せり

____松平上總介、上京暫く延引可致旨、廿三日曉順動丸出帆前手船にて和泉殿へ手紙遣ス。尚又右之儀上京之上、一橋へ御談し申上候ハゝ、以刻附可申遣筈。

 上洛前日の一月二十二日、品川沖に停泊していた順動丸艦内で勝海舟、杉浦正一郎にあい、松平主税助の議について話しあい、その翌日出航前に、老中の水野忠精へ宛て、上総介(主税助)上京を暫く延ばすよう手紙を送り、また上京の上は一橋慶喜にも話し、また申し遣わすはずであるというものです。
 
 上記の内容は何を意味しているのでしょうか・・・・・・・

三へ続く
 

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残留浪士、会津お預かりに至る経緯 その一

 會津藩の京都守護職就任のいきさつから残留浪士お預かりに至る経緯は、幕府と浪士組の詳細年表にアップしていますが、そもそも会津藩が就任を拒んだ大きな理由の一つに、人員の不足がありました。藩内では京で農兵など雇うこことも考えられたようです。そのことでは、折衝にあたった松平春嶽は、いざとなれば他藩や福井からも人を差し出すと言っています。
 会津藩が禁裏の警衛を命ぜられたのが翌年二月で、その月の二十三日に起こった足利三代の木像事件の犯人捕縛では、際だった行動力と手際の良さで、幕府を侮っていた浪士を震撼とさせました。
 この事件の当時、町奉行与力の平塚瓠齋が浪士を検挙すれば四五百人の浪士が一斉に蜂起するという話を持ち出し、町奉行の永井はこの話を聞いて、捕縛を拒んだ一幕もありましたが、会津藩主松平容保は臆せず断行したのでした。
 
 この事件に関し、會津藩京都御用所から江戸、会津へ向けた書簡があります。


 以手紙申達候同心爲登方之儀委曲御用之書に被 仰遣候處當方與力同心の儀遊閑而巳に打過居當召捕方之節も恐怖致居何之役にも不相立有名無實之者共に候間其表より手馴候者被差登候はば、彼が威勢是に歸し何程御用弁可致候間捕手業は勿論少々板はづし之者に而も才力有之者共被差登候様致度儀に思召候此段御差含宜御取計有之候様各迄可及御通達旨
被仰付如此候以上
二月二十九日    京都御用所


 町方の同心与力は名ばかりで、恐れて何の役にも立たなく、それに比べ雇われた手慣れた者は威勢がよくどれほど役に立ったかしれないので、捕縛にあたるものには少々板はずしのものでも才力があれば雇いたいという申し出です。
 これにたいし、江戸会津からは以下ののような返信がありました。

密事
江戸 會津 御用所

同心爲登方之儀に付本書之通京都より通達申越候に付申上進之候其表之儀宜御取計有之候様存候事
三月六日


 宜しく取り計らうようにという許しを受けたということになります。
 二十九日に書かれた手紙の返信が三月六日付けであることから、三月十日に残留希望の浪士が会津へ嘆願書を出した時にはまだこの返信は届いていないと思われます。
 志大略相認書によると芹沢、近藤ら十七名が申し出たということですが、上の書簡の内容からこれら十七名が才力があり、信頼できると納得していたからこそ、會津藩はお預かりの内定を出したのではないかと思うのですが、その根拠は一体なんだったのでしょうか。また、志大略相認書によると、密々に夜廻りを行っていたとあります。杉浦正一郎の日記では、九日に見廻が沙汰止みになったと書いているので、これと関係があるのでしょうか。
 また、同日記によると浪士組の東帰が町奉行所の市中見廻方に知らされているので、奉行所とともに警衛を行っていたのかもしれないと想像するのですが・・・。
 しかし、そうだとすれば、何故見廻りを行ったのがこの十七名だけだったのかという疑問も残ります。
 面白いことに、この十七名中、阿比留をのぞけば、八木源之丞が新選組始末記の中で証言している、八木家に投宿していた十六名にぴったりと当てはまります。
 実は、この十六名にぴったり当てはまる名簿があります。それは目付の杉浦正一郎が残した「浪士一件」の中で、十三日に出立した東帰組の浪士取扱であった鵜殿鳩翁と高橋が老中の板倉勝静へ宛てた残留希望浪士の名簿なのです。
 当時、阿比留は重病であったといわれるので、残りたくて希望したのではなく残らざるをえない状況にあった阿比留を気遣ったのでしょうか。しかし、そうだったとしても何故、八木家に投宿した十六名のみだったのでしょうね。
 
 話は戻りまして、夜廻りを経験した芹沢、近藤らが、その間の動向を評価されたからこそ、会津に対し信頼できる人物として推薦されたのではないでしょうか。しかし、それは誰だったのかとなると、それを裏付ける史料は残っていません。
 慶喜は明治後、浪士の会津お預かりに関し、自分の意見ではないが、そうすればいいだろうということでそうなったと証言しています。
 三月十日、幕府から会津へ残留浪士の差配が命じられています。これが史料の上で、はじめて会津と浪士組が接点を持った日となります。

<二へ続く>
 
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加納町史「永井玄蕃頭随伴記」

 この地方史の中に掲載されていた「永井玄蕃頭随伴記」という、加納藩士奥谷伴三の手記を読んだのがきっかけで、私は永井尚志について調べることになったのですが、久しぶりに読み返したところ、いままで気づいていなかった事実がいろいろと解りました。
 最初に説明をしますと、この加納藩の永井家と、永井尚志は親戚関係にあり、幕臣である永井家は家来が足らず、本家加納藩永井家を頼っていたのですが、その一人が奥谷伴三(当時文吉)でした。伴三は永井を大変尊敬し、明治後も永井の側で従者を務めるほど私淑していたのでした。

 この手記によると、慶應四年の榎本軍脱走に関して、
『榎本は会津を救援するため、永井の同意を得ようと密使をつかわして、頻りにすすめ懇願した。』
 と書かれていました。
 伴三はこの話を、後日、加納で伝え聞いたのですが、やはり榎本は密使を送っていたんですね。
 密使を送った人物はおそらく永井だけではなかったと思いますが、永井ら旧幕閣の同意を得ることで、榎本軍はただの脱走軍ではないという精神的な基盤が出来たと言えるのかもしれないと感じました。
 
 時期をさかのぼり、その年の一月、永井は伴三と二人だけで大坂を脱し、紀州から船で江戸へ向かい、途中伴三は下船し、加納へ行きます。その後永井はそのまま船で江戸へ向かいました。
 伴三が加納についた頃、ちょうど綾小路率いる赤報隊が加納藩にたいし、朝敵である永井尚志の家族を引き渡すよう申し入れる事件が起こっていました。
 当時、永井の妻、養子岩之丞は加納に滞在していたのです。
 このとき勅使綾小路の護衛を務めていたのが、美濃の侠客水野弥太郎で、この水野が「京都で(永井)玄蕃頭に助けられたご恩返しにご家族を御世話申しあげたい」と申し入れています。
 水野弥太郎といえば、新選組始末記では、新選組の御用達をしていたとあります。そして、後に藤堂がこの水野を御陵衛士へ引き入れる画策をしたとあるのですが、この赤報隊一行に元高台寺党の阿部らが含まれていることを考えると、御陵衛士との関係がその後も続いていたのですね。
 そもそも永井が水野を新選組に引き合わせたのかもしれません。そして奇しくも慶應四年、朝敵となってしまった永井へ律儀にもかつての恩を返すこととなったのでした。しかし、この後水野は捕縛され、牢死してしまいます。
  
 話は戻りますが、奥方と岩之丞は江戸へ向かうことになったのですが、女手形が無いと奥方は旅が出来ないということで、奥方は水野にひとまず預けられることになり、養子の岩之丞は、伴三、田中律造、音吉とともに、永井尚志の血縁である三河の奥殿藩へ向かいました。
 そして奥殿で手形を手に入れると、これを届けるため田中律造が一人加納へ引き返し、伴三らは江戸へ向かったのでした。
 その後、伴三、岩之丞らが江戸へついた数日後、奥方も無事帰ってくることができたのでした。

 ここで登場した田中律造は、新選組隊士録によると、永井の家来で慶應三年六月以降に入隊。鳥羽伏見の戦いをへて江戸へ帰還し、会津の母成峠の戦いで負傷し仙台で降伏した。と書かれています。怪我の程度が不明なので、断定はできませんが、榎本軍の軍艦に永井が乗っていることを知ったら、そのまま榎本軍に加わり箱舘まで行ったかもしれないですね。
 この田中は鳥羽伏見以降、永井の奥方と岩之丞を護衛する一人として同道し、加納へきていたのかもしれないと推測します。しかし、すでに新選組隊士となっていたとすれば不自然ではないでしょうか・・・。特別に許可を貰っていたのか、命令があったのか、それとも一時脱走していたのか・・・。ともかく、一時的に隊を離れていたことは間違いないようですね。

 以上、興味を引かれた部分を書き出してみました。
 この伴三の手記は原文の三分の一に要約され、現代文で書かれているので、原文の微妙な表現がどこまで忠実に訳されているかは疑問です。そして、明治期に書かれたためか、新選組が当然登場してもおかしくないところでも登場せず、差し支えのないことしか書かれていないので、この点も実に残念です。
 せめてこの原文すべてを読んでみたいものです。しかし、解読ができないのでは話にならないですね。(苦笑)
 
 

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明治二十四年七月一日

 永井は明治二十四年七月一日に亡くなりました。

 箱舘から生還し、明治5年に釈放されたあとは黒田清隆の命で北海道開拓史御用掛を勤めました。
 七年に退職。翌八年の七月、勝海舟の元を訪れ、大書記官に推薦してもらい、十二日に無事就任します。
 ちょうどこの頃、渋沢栄一とともに徳川慶喜のもとを訪れたとき、渋沢のみに会って、永井は奥へ通されなかったという話しがあります。
 勝海舟全集の付録では、このことにショックを受けたためか、翌年職を辞したと推測されていますが、慶喜はなぜ会おうとしなかったんでしょうか。
 やはり、大書記官という政府の高官職についた永井を潔しと思わなかったのでしょうか。
 時期を同じくして、九年に入ってから、勝海舟の日記には不動産の売買に関する斡旋人として永井の名が頻繁に登場するよようになります。
 そして、五月に永井は裁判所判事である養子岩之丞の昇進を勝に依頼し、七月には無事昇進。その三ヶ月後、官職を辞しました。
 その後も勝の日記には不動産の売買に関する内容について永井の名が死の直前まで登場しつづけます。
 かつての上司であり同志でもあった永井にたいし、勝はどう対していたのでしょうか。
 日記からは、永井をさりげなく庇護しながら自立を助ける、勝海舟の一面が伺えます。
 困っている旧幕臣にはきまえ良く大金を渡すこともある勝ですが、永井に関する活字のなかにそのような記述はみあたりませんでした。

 なぜ永井が晩年高官の職についたのかというと、経済的な理由が大きかったと思われます。
 永井は官職を辞したのち、岐雲園という広大な屋敷に移り住んでいます。
 この屋敷はかつてもっとも親しい交友関係にあった亡き岩瀬忠震の屋敷であり、永井は死に至るまで、庭に築かれた祠堂に朝夕香華を供えつづけていたといいます。
 この屋敷だけはどうしても手放すことができなく、なんとしても維持しつづけねばならないという思いが、晩年の生きる力ともなっていたのかもしれません。
 大書記官に就任した頃から、勝によって不動産売買の斡旋という収入の道が開けたことと、養子の岩之丞の昇進がきまったことで安心して官職を退いたのだろうと考えます。


 余談になりますが、勝海舟は明治九年二月に大鳥と沢の申し出があり、箱舘の石碑が金子不足ということで百五十両を寄付しています。
 永井が碧血碑建設にどう関わっていたかは分りません。
 ただ、雑誌「旧幕府」に、その名の由来と思われる漢詩が掲載されていました。



 戦死者を吊て感有り

 往時の是非細論じ難し
 寸心只報ず、海山の恩
 亀田畳上弾丸はしり
 天女岬の前を輪艦燔く
 戦血多年化そ碧と爲と
 狂寃(きょうえん)今日解けて痕と無し
 歯明異と雖(いえど)も誓い長く在り
 悲喜交談じて逝魂を吊ふ


 晩年を語る一文があります
 向山黄村、杉浦梅潭、高松凌雲等と詩酒を徴逐し、風流自ら娯しむ、復た世事を観ず、談或は幕末の事に及べばすなわち□然として涙下る。
(永井尚志伝 塚本松之助)


 勝海舟は永井の死に際し祭文を送りました。


 永井介堂翁を祭る文

 嗟、夫、永井介堂翁逝けり。吾曹昔日を回顧し、その功と徳とを追懐し、実に涕泣痛惜に堪えず。
 幕府の海軍を興し、技芸の長を西洋に取るの始に方りてや、翁、監察を以て長崎に在り、海軍伝習の事を督し、聘する所の荷蘭人に就て、躬自ら青年有志の士と共にその教を承け、率先勉励以て皆為すあるに至らしむ。これに加うるに専断の嫌を顧みず、煉鉄、造船の機械を荷蘭に購入し、竟に飽の浦製鉄所を創立し、又、コットル船を製するが如き、我邦風化の先を開き、我邦海軍の嚆矢たるもの、翁を捨て復た誰をか推さん。
 翁、虚心公正、私する所なく、ただ国家の利、これ顧みる。是を以て海軍操練所を江戸に開くの始め、具申して諸藩士の入学を許し、その技術に随って登庸の途を開き、幕士藩士の藩離を撤して、ただ才、是用ゆ。
 翁、また幕府の季年多事の際に在って、外交の衝に当り、宜しきを視て約を結び、又、徳川氏相続の議の如き、為に罪を得るに至る。
 又、征長の役の如き、善く彼此の情を審にし、国家の形勢を慮(おもんばか)り、調和所を得て決裂に至らしめず、その大政返上の如きも、亦参画に力あり。
 凡そこの種の如き盤根錯節に処して、その功の成ると成らざると、その言の用いらるると用いられざるとに関せず、一に至公至正に基き、坦然明白、毫(すこし)も機を用い巧を弄することなし。これ翁の独能する所なり。
 而(しか)して又、忠厚の性、真摯の情、君家の式微背を慨し、有志の輩と仙台箱舘の間に崎嶇間関し、獄に投ぜらるるに至りて悔いず。
嗟(ああ)夫、介堂翁逝けり。旧幕の遺老、吾曹の瞻仰(せんこう)する所の者、復見るべからず。哀しい哉。
 朝廷、亦、翁の自ら新にするを許し、曽て洗刷登庸せられ、簀を易るの際に臨み、特旨を以て従五位に叙せらる。
 嗚呼、天は善に写し、論は棺を蓋うて定まる。翁、亦以て瞑すべし。


勝海舟全集 勁草書房より




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榎本軍脱走の謎・2

 前回、勝海舟が日記で永井が榎本らを扇動したのではないかと疑っていることを書きましたが、永井が何故疑われることとなったのか、その背景を見てみました。

 まず榎本と永井の関係について

 永井は長崎の海軍伝習所の幕府の責任者として在任しています。当時第一期生として在籍していた勝海舟とは、この後一生を通じて交流を深めていくことになります。この伝習所に榎本武揚は第二期生として参加し、二ヶ月という短期間ながら永井と関わっています。また永井との縁は勝ほどではないもののずっと続いていたようです。

 長崎海軍伝習所出身で、箱舘まで榎本らとともに戦い続けた人物

 幕府第一期  中島三郎助

 幕府第二期  松岡盤吉、荒井郁之助

 掛川藩より 甲賀源吾

 
 余談ながら、榎本らは当初小栗忠順を隊に迎えるべく、権田村まで行ったが断られたという話があります。
 小栗は幕府財政の立て直しをはかりながら、綿密な財政政策のもとで海陸の軍備増強をはかった功績は大きく認められています。
 機略に富み、広い視野と大胆な政策によって人望もあり、また主戦派であったため、新政府側に疑われ四月に原保太郎の隊に捕らえられ斬首されました。
 
 永井は、小栗ほど才知や機略に富んだ政策を打ち出したり、絶大な功績を残したわけではないのですが、高官として有能で社交性に富み、幕末時には相当な権勢を誇っていたといいます。また、慶喜や春嶽をはじめとした幕府内部、そして新選組からも絶大な信頼を受けていました。
 小栗が戦略をもって人を指揮するとするなら、永井はその人柄で多くの兵を結束させることが出来たと考えられるのではないかと思います。

 榎本軍はだれかに扇動されることが無くても、彼らの判断で江戸を脱走したでしょうが、永井の存在は彼らにとって心強いものであったと想像されます。
 
 もし永井が扇動したのだとすれば、翌年弁天台場で降伏し和議を受け入れる決断をしたのも永井であったということは、あまりに皮肉な運命ということになりますね。


 またまた余談になりますが、雑誌旧幕府の永井尚志伝には永井の前半生を知るのは勝海舟で、後半は西郷隆盛と後藤象二郎、福岡孝悌であると書かれています。
 後藤との交流はよく知られていますが、西郷と懇意だったという逸話は残っていません。
 いつ頃から親交があったのかは解らないのですが、もし維新前からであったとすれば、永井の存在が西郷の榎本軍対策に多少なりとも影響を与えたのではないでしょうか。
 黒田によって榎本らの命は救われたという事は明らかな史実ですが、その黒田に西郷から何らかの指示が与えられていたとしても不思議ではないと思います。このことで何か史料が残っていないか、今後探してみたいと思います。



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榎本軍脱走の謎

勝海舟慶應四年の日記より

八月二十四日
梅田国来訪。聞く、仙台藩・太田盛、米藩・宮島誠一郎輩、先日京師より帰り来り、窃かに説く。二条家、広橋家その他にも当時の公を廃せむと云う者ありと。是らを以て考うれば、我が軍艦の士等、小節小細工の輩に鼓動せられ、忽ち軽挙に及びしか、知るべからず。永井主水の乗組みたる、尤も以て怪しむべきなり。

二十五日
大久保参与(利通)へ一書を呈す。

書簡より抜粋


昨今脱走の者共相発し、既に軍艦の者等には再三書通、榎本和泉儀も承状、格別過激の様子も御座無く候返答差し越し候ことゆえ、多分軽挙致し申すまじくとも存じ罷り在り候処、この程の挙に立ち至り、何とも微力、不行き届きの段、恐れ入り候儀と存じ奉り候。
 内々探索等も仕り居り候えども、その確証も未だ得ず候間、開口難く候えども、案外の所より鼓舞致され候やにも相考え候儀に御座候。もしや愚考仕り候如くの様子にては、一時人心も浮き立ち申すべくか。関東の者らは何程の事も致すまじく候えども、所々にて狭小の陋習説相興り候えば、矢張り鎮静仕り居り候者も、一皷致され候気味合い御座候て、無益の小動のみ多く発し申すべくやと深く心痛、恐縮仕り候。
_______


 日記で勝海舟は榎本らを鼓舞したのは永井ではないかと疑っています。
 翌日出した大久保利通への手紙の内容から、榎本らの脱走は勝海舟にとって寝耳に水で、突然の出来事だったと想像されます。
 
 はたして、本当に永井が榎本らを扇動したのでしょうか。
 浜町の屋敷で謹慎中の永井が榎本らと連絡を取っていたもしくは密かに面会していたのかは不明です。


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永井と三島由紀夫の関係

 作家故三島由紀夫の祖母夏子は永井とは血のつながりはないものの孫にあたり、昭和三十五年に盛大に開かれた永井の七十年忌には、三島も出席したそうです。
 夏目書房より出版された、板坂剛氏の三島由紀夫本によると、前記とは対照的に、複雑な事情をもつ祖父の家系の先祖代々の墓へは、生前一度も訪れたことがなかったそうです。
 精神的に多大な影響を受けたとされる祖母方の先祖について、彼は相当研究していたようですが、本書では残念ながら永井につてはさほど書かれていませんでした。
 面白い話として、彼は切腹倶楽部なるものに所属していたそうで、祖母の母方に天狗党に関わり切腹して亡くなった先祖がいることを自慢していたとありました。
 切腹・・・・・
 永井は箱舘から生還し、その後も明治政府に出仕しています。
 そんな永井に対してどんな思いを持っていたのでしょうか。
 自分であったら、生きて帰ることなく、立派に切腹して果てた、と考えていたのかもしれませんね。

 三島由紀夫がただ一度永井について小学生の時に書いた作文が、平成十一年にオークションによって売られたという記事を新聞で読みました。内容は、永井の簡単な略歴であったと記憶しています。

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 三十一人会 幕末史研究三十三号『新選組結成の真相』より

 山口直邦という小野路村の地頭の名が土方歳三の手紙にも登場します。
 この山口氏の本家が山口直毅というのちに神奈川奉行を勤めた人で、生麦事件当時、目付であり浪士組の目付でもあった杉浦正一郎と接触があったそうです。
 直邦の屋敷は牛込築土明神下にあり、試衛館とは二キロほどの距離にあったことから、小島鹿之助を通じて近藤勇とも面識があったと考えられるそうです。
 そして、浪士組目付の杉浦→山口直毅→山口直邦→近藤勇という経路で浪士募集を知ったのではないかと幕末史研究三十三号で小島氏は推測されています。

 そして、上洛時に試衛館の人選が大変慎重に決められていることと、清河の暗殺という結果から推測すると、もしかすると、上洛当初から試衛館一派は老中板倉勝静の指揮下にあって清河らを監視する役目を負っていたのではないかとも・・・・・。

 ちなみに、小島鹿之助氏もこの杉浦も同じ人大沼枕山の門下で漢詩を学んでいるということです。
 明治後、杉浦はこの山口直毅とともに晩翠社を創設し文学で多くの功績を残しています。
 そして小島鹿之助氏が明治二十年に枕山の詩友遠山雲如の遺稿集を出版したとき、本を配布したリストに山口、杉浦の名があるということです。

 この『組結成の真相』の内容を受けて、登場人物を永井に関連づけて調べてみました。

 山口直毅は、甲府で徽典館の学頭を勤めているのですが、永井もかつて同じ学頭を勤めています。
 そして、永井自筆の日記風漢詩集の明治期に山口直毅(泉處)、杉浦正一郎(梅潭)の名が度々登場します。
 永井も漢詩を趣味としていて、旧幕府にも掲載されていますが、掲載されているもの中に碧血碑の由来となった故事を思わせる内容のものが含まれています。
 ただ、永井がだれに習ったのかは判明していません。
 また、杉浦とはいつから知り合ったのか、漢詩を通じての友人だったのか、仕事を通じて知り合ったのかなどはわかっていません。

 余談になりますが、浪士組を率いた鵜殿鳩翁は安政期に永井らと共に、松平春嶽の推す一橋派として行動したため安政の大獄で左遷されています。ということで、鳩翁も永井とは旧知です。

  そして、この本には地頭の一人である岡部長常の名もあげられ、小島鹿之助氏と何らかの関わりがあったと書かれてたのですが、この人は永井と重要な関わりをもっていたことが解りました。詳細は幕臣の紹介ページに載せてあります。

 このように上洛に関係する人物と永井の関係が浮上するにつけ、当時町奉行であった永井が浪士組の上洛にあわせて身分を問わず使えそうな人物を独自に捜していたのではないかと疑ってしまいました。
 そうでなかったとしても、永井が試衛館一派が一体何者であるのかを調べようとすれば、それは容易なことであったのではないか。そして入手した情報から、近藤勇らを信頼できると判断したのではないかと思いました。



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