幕末の長崎

長崎奉行
長崎代官
長崎会所
阿蘭陀通詞
唐通事
唐 貿 易
連合オランダ東印度会社
カビタン(甲比丹)
出 島
日蘭貿易
長崎の地図
英語伝習所
居留地


長崎奉行

■職責
長崎における行政、司法、軍事全般の掌握。オランダ、中国との貿易、外交が重要な職責であった。
諸外国の動静を探り、一朝あるときは将軍の名のもとに諸侯に号令する権限を与えられていた。
幕末時長崎の人口はは三万人弱。
長崎奉行の役得・・・・・・輸入品を安く購入でき、それを京阪や江戸で高く売ることができた。ほかに地役人や町人からの献金と阿蘭陀商館長からの贈り物、諸藩からの付け届けなど。

■勤番
幕末当時、長崎奉行の定員は二名で毎年九月頃交替し一年ずつ在崎。在任期が一年以上の時もあった。


■役所
初期は西奉行所と立山奉行所の二つだったが、正徳新例により、立山奉行所のみとなった。西奉行所は奉行の交代時の宿舎にあて、のち海軍伝習所、医学伝習所としても使用された。

■配下

長崎目付・・・・正徳新例により定められた。目付一人が在任。奉行の顧問、政事の監視を行う。初期の頃は半年交替とされていたが在任していない時期もたびたびあった。通常は毎年秋に交替する。屋敷は立山奉行所の隣。
与力、同心・・・幕府から差し下される
奉行の家臣
以下は長崎地役人
公事方・・・・・・罪人の逮捕と裁判の補佐にあたる。
町司・・・・・・・・兵備、警察の職分にあたる。

町年寄・・・・・・奉行の元で貿易、行政にあたる。幕末時には九家による世襲制で、見習、末席、一大町年寄などがある。
乙名頭取・・・・乙名を監督する。
年行司・・・・・惣町乙名から二名が任命。奉行、町年寄への取次役。
惣町乙名(そうちょうおとな)・・・各町の代表
組頭・・・・・・・乙名を補佐する。

長崎代官

地役人の筆頭。貢物、調租を司り蘭輸入貨物の検査、南北瀬崎の米蔵、御用物蔵、武具蔵、御船蔵、長崎の社寺を管理。市政、貿易には干渉しない。
幕末時の身分は食録百俵御目見得以上。
高木家の世襲。

長崎会所

勘定奉行直属の機関で長崎貿易を統括する。貿易により得た利益の一部は幕府に納める定めで、文化年間には、三万両が収められている。
開国後、外国商館による居留地貿易がはじまると、会所を通さない直接取引となり、関税は運上所で支払われたため、会所は役割を失うこととなった。

■職員
会所調役(安政五年以降は会所頭役)・・・町年寄から二人を選び兼任させる。長崎会所全般の事務を取り扱う。
会所目付・・・・・・惣町乙名から二名を選び兼任させる。財政と他の役人の監視をする。
吟味役、請払役、役所番、筆者、金見、銀見、蔵番、小役、札読、小使、極印打、日雇頭など

阿蘭陀通詞

上通詞・・・・・本方(もとかた)商売の通訳貿易事務をする。主に通訳と「風説書」の翻訳、蘭学の研究など。帯刀は許されていたが、地役人で町人の身分。世襲制。

通詞目付が上通詞全般を取り締まる。
大通詞、小通詞、小通詞助、小通詞並、小通詞末席、稽古通詞、稽古通詞見習

下通詞(内通詞)・・・・・脇荷貿易(オランダ人の私的な貿易)の世話をする。出世しても(上通詞の)稽古通詞どまり。例外・・・宝永四年(1707)に今村源右衛門は大通詞まで出世している。

内通詞小頭、内通詞見習

 江戸町の通詞会所と出島内の通詞部屋に、当番で一、二名の通詞が昼夜勤務する。
 年番通詞は大通詞、小通詞からそれぞれ一名が一年間、奉行と商館との連絡調整通詞の世話役勤めた。翌年のカピタンの江戸参府にも同行し、この役目は江戸番通詞といった。


 今村源右衛門
 オランダ商館の医師として元禄三年1690来崎したドイツ人ケンペルは、商館長の参府に二度同行し、日本の動植物や政治、生活を研究し、帰国後「日本誌」を発表し、ヨーロッパに広く日本が知られることとなった。 
 このケンペルの研究のため史料の萬集に協力したのが内通詞今村源右衛門で、ケンペルの助手を勤め多大な貢献をするとともに自らのオランダ語の能力を高め、医学を学んだ。ケンペルの帰国後出島で試験を受け、上通詞の稽古通詞に合格する。その後は内通詞出身者として異例の大通詞まで出世している。
 本木昌造
 一二才のとき阿蘭陀上通詞本木家へ養子として入る。ロシア艦隊プチャーチンとの交渉や、ペリーの再来日にあたり、通詞として交渉にあたる。下田でのプチャーチンとの交渉全権委員、筒井政憲、川路聖謨に通詞として同行。この交渉時、地震による津波でロシア船ディアナ号が難破してしまう。ロシア側の申し出により急遽戸田村に造船所を作り、日本の船大工が多数参加しスクーネル船の建造がはじまる。昌造は通詞として建造に参加し、ロシア人がオランダ語に通訳した言葉を棟梁に伝えた。この後、幕府の海軍伝習所でも通詞として難解な学術用語の通訳もつとめている。
 万延元年飽の浦の製鉄所の御用を仰せつけられ、維新で新政府へ引き渡されたとき頭取を仰せつけられ、明治三年まで造船に携わった。辞任後は宿願の活字印刷業を本格的にはじめる。昌造は、当時世界で初めて活字を発明したと信じられていた蘭人ラウレンス・ヤンコ・コステルの伝記を読み、日本で活字を作ることを決意したという。そのため二十代の頃から活版印刷を志し、何度も機会をうかがうが果たせず、明治二年にアメリカ人ウイリアム・ガンフルから活字製造技術の伝授を受け、やっと独自の活字作りに成功した。明治三年長崎造船所頭取を辞任後、本格的に事業展開をはじめるが事業的に行き詰まり、経営を師弟関係にあった平野富二に委ねた。(平野は石川播磨重工の創業者)
 本木昌造は活版印刷事業の成功を見届け、明治八年九月三日亡くなった。

唐通事

 中国貿易の通訳、売買の仲介、奉行所の顧問、阿蘭陀"通詞"にたいし、"通事"という漢字が使われたことは、職域の違いによる。

 唐通事目付が唐通事全般を取り締まる。
 唐大通事、唐小通事、唐小通事並、唐小通事末席、唐稽古通事、唐年行司、唐内通事小頭、唐内通事付筆者
 唐通事になるためには中国の諸子百家などの書物を学び、唐音で発音することが必用とされたため、多くの優秀な文化人を輩出している。


唐 貿 易

丸荷役・・・唐船が入港すると検使と目利による乗員改めがあり、唐の船員は新地蔵に上陸。船から阿漕船に荷を積み、船改めをし船頭が目録と照合。検使が荷を封印し倉に入れられる。この蔵入れまでの作業を丸荷役が行う。

目 利(めきき)・・・・輸入品の品質や値段を吟味し、違法な輸入物資を差し押さえ、追究する専門役人。
書物目利、薬種目利、伽羅目利、唐物目利、糸目利など。

値組(持渡品値組)・・・・目利と会所役人によって決められた輸入物資の値段を標準として、蘭、唐商人との交渉により実際の値段が定められることを値組という。

抜荷(ぬけに)・・・・・値組された商品に精荷役が数量、品名、買い取り人の名前を書き入れた札をつける。この札を手板と言い、これがつけられた商品を正荷、無い物を抜荷という。

密貿易(抜け荷)・・・・抜荷(幕府の正規の手続きを踏まず輸入された貿易品)の売買。
 薩摩は琉球との貿易を許されていたが、幕府の役人を買収して、琉球国産といつわり、唐貿易品を長崎で売りさばいていた。他に大規模な組織による密貿易が行われていた。


連合オランダ東印度会社(長崎現地名こんぱんにや)

 オランダは国王を総裁とした連合オランダ東印度会社を設立し、バタビアの総督府を拠点に東洋貿易と植民地支配を行った。東印度会社は軍事、外交、司法、行政の特権が与えられていた。
 1799オランダ東印度会社は解散。

出島オランダ商館・・・・・ 連合オランダ東印度会社バタビア総督府の支店にあたる。
 1799年にオランダ東印度会社が解散してから、出島オランダ商館は政府の直轄経営となり、1859年からはオランダ政府の国策会社オランダ商社の支店となる。

 商館長(カピタン)、次席(ヘートル)、台所役、蔵役、上外科、下外科、上等者、大工、鍛冶など。総員十名〜十五名ほど。


カビタン(甲比丹)オランダ商館長

 ポルトガルとの交易時の司令官の意味。オランダに変わってからオランダ商館長に対しそのまま使われた。
 通常は年一度のオランダ船入港と共に交替し、嘉永三年までは五年に一度正月に江戸へ参府し将軍に謁見していた。
 江戸参府は将軍への献上品を持参し謁見する目的で、道中は商館長ほか、数名の阿蘭陀人と五十名ほどの役人一行で、陸路江戸を目指した。宿場では本陣、または阿蘭陀宿屋(長崎屋、京都の海老屋など)と呼ばれる定宿に泊まった。 

出 島

寛永十三年(1636)ポルトガル人を拘束する目的で作られる。寛永十六年(1639)ポルトガル人が追放され、寛永十八年(1641)に平戸にあった蘭館が出島に移転し、オランダの独占貿易が長崎に限って行われることとなった。
オランダ人女性の滞在は商館長の妻であっても許されなかった。またオランダ人は安政二年十月に日蘭和親条約締結により許されるまでは自由に出島を出入りすることはできなかった。


出島は45500坪の埋め立て地で、陸からは橋を渡って出入りする。出島の周囲には13本の杭があり、その中に入ることも禁じられていた。
西側に水門があり、通常はオランダ船の積み荷を運ぶときにのみ開かれた。
橋の前に制札場があり、定めと出入りを禁止する旨の禁制札の二つの高札がてたられていた。橋を渡ると、表門があり番士と深番が交替で勤めた。
出島への出入りが許されていた者・・・・・・
長崎奉行所役人、長崎町年寄、蘭通詞、出島乙名、組頭、日行使などの地役人。コンプラ(日用品を調達する)、料理人、日雇頭、絵師、草切、着物洗いなどの下働き。
五ヶ所宿老(割符商人)、出島町人(出島の普請に出資した町人。オランダ商館から宿と建物の宿賃を受け取った)、女性は阿蘭陀行と称した遊女のみ。
その他の者は町の乙名に願い出証明書を発行して貰い、乙名はその人数と用件を出島乙名に申し出、札を交付し、その札によって出入りが許された。
安政五年日蘭通商条約が締結されてからは日本人も自由に出入りする事ができるようになった。またこの条約以降、商館は領事館も兼ねたが、翌六年阿蘭陀商館は廃止された。
 慶応二年に、出島は居留地に編入される。

出島乙名・・・・・出島の貿易に関する事務と治安、警備を管理した。

 

日蘭貿易

はじまり
 慶長五年(1600)オランダの東洋貿易船リーフデ号が豊後に漂着し船長のウイリアム・アダムスは徳川家康に大坂に招かれる。これをきっかけとして日蘭貿易がおこった。

オランダ船入港
 オランダ船は毎年(陽暦)六月中旬バタビアを出航し、(旧暦)七月頃に長崎に入港。約二ヶ月停泊していた。

 外国船が長崎湾に近づいたのを野母の遠見番所が発見すると、信号(のろし)によりにより小瀬戸の遠見番所、梅香崎、永昌寺へと信号がリレーされ、立山奉行所に知らされた。
 もし不審な異国船が入港すればすぐに攻撃し打ち払うため、大村領の戸町村の戸町番所と長崎港入り口の西泊番所(沖の両番所)では福岡藩と佐賀藩が交替で勤番をつとめていた。
 この他長崎では異国船入港など緊急時に備え西南諸藩の蔵屋敷があり、外国船や奉行の通達など諸情報を入手するため聞役が常駐していた。
 オランダ船が長崎湾へ入港するとまず伊王島付近に投錨した。島では船に掲げられたオランダ国旗を確認し、入港を許可する信号として丘の上にオランダ国旗がたてられた。そこへ奉行所役人の倹使と阿蘭陀通詞、阿蘭陀商館員が乗船し、昨年オランダ船の出港時幕府が渡した旗と、入港したオランダ船の旗が同じかどうかを確かめる「旗合わせ」が行われた。このときもし旗が違えば、正規のオランダ貿易船であったとしても船はそのまま長崎港を出て行かなくてはならなかった。旗が合えば、帆を下ろした舟を曳舟で長崎港へ曳航した。そのときオランダ船は祝砲を打った。
 船が出島沖に碇をおろすと、風説書、乗組員名簿、積荷目録が提出され、検査を行い、出島西側の水門から小舟で搬入され唐貿易と同じように、貿易品の値組が行われた。出島の門前に商品目録が掲示され、商人が入札し高額者から名が読まれ落札されていった。

オランダ風説書
 幕府は唐とオランダに風説書の提出を義務づけ、それにより海外の情報を得ていた。オランダからは、アヘン戦争が起こった天保十三年以後、アヘン戦争や清英条約に関する情報「別段風説書」も提出され、これがのちに広範囲な世界の情報源となっていった。
 風説書は出島の商館長の部屋で、商館長と新しい商館長、通詞目付、大小通詞立ち会いのもと翻訳が行われ、全員の署名で奉行所へ提出された。
 風説書は開国とともに廃止された。

長崎の地図
★ 出島
1 高島
2 伊王島
3 戸町番所
4 高鉾島
5 西泊番所
6 飽の浦長崎製鉄所
7 小瀬戸
8 長崎奉行所西役所
海軍伝習所
9 新地
10 目付屋敷
英語伝習所
11 長崎奉行所立山役所
12 長崎代官所
13 長崎会所

英語伝習所

 英語学習のはじまり
 フェートン号事件
 文化5年1808八月十五日、英軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ長崎湾に入港。オランダ領事を人質に物資の補給を要求する事件が起こる。この年の年番は佐賀藩だったが、すでに多くの兵が引き揚げた後だったため、兵が少なく戦闘することが不可能だとして、奉行松平図書頭は要求を受け入れた。フェートン号の目的はオランダ船の捕獲にあったため、港内にいないことがわかると、物資の補給がすみ次第、謝意を伝え長崎湾を去った。この事件の責任を取り翌日奉行は切腹し、後日佐賀藩主鍋島肥前守には逼塞の処分が下った。この事件をきっかけとしてその年十月九日英語学習の命令が幕府から通詞へ下された。
 

 嘉永元年米国の捕鯨船で日本まで来たラナルド・マクドナルドはボートで利尻へ上陸し、捕えられ、長崎へ送られた。西山の大悲院に収容中、阿蘭陀通詞の堀達之助、堀一郎、森山栄之助ら一四名に半年間英語を教える。森と堀達之助はペリー来航時通訳を勤めた。とくに堀は中島三郎助とともに初めて小船で黒船に近づき、退去の談判をしている。
 
 安政二年幕府は通詞以外の外国語学習を許可する。
 安政五年七月、奉行所組頭永持享次郎の申し出により、岩原目付屋敷内に英語伝習所が開設された。
 頭取 大通詞楢林栄左衛門、西吉十郎
 教授 蘭人海軍将校ウィッヘルス・フォーゲル、英人フレッチェル
 生徒 主に通詞や地役人の子弟。

 英語伝習所の推移
 文久二年片淵の乃武館へ移転。英語稽古所、英語所と改称。
 同三年立山奉行所内へ移転。
 元冶元年江戸町へ移転。洋学所と改称。教授・・・安政六年に来崎した米国宣教師フルベッキ(蘭人)
 同年大村町へ移転。語学所と改称。三ヶ国語を教える。
 慶応元年新町へ移転。済美館と改称。
 明治元年広運館と改称。のち長崎英語学校、現在の長崎中学校とつづく。
 学校出身者・・・・・西園寺公望、大隈重信、中江兆民、井上哲次郎など
 
 

居留地

 安政元年日米和親条約が締結されてから、大浦に外国人居留地が造成されることになった。
 安政6年箱館、長崎、横浜開港。南瀬崎、梅香崎、常磐町、大浦町の海岸で、居留地造成のため埋め立てがはじまる。元治元年に完成。
 
 元冶元年十二月フランス人宣教師が来崎し、大浦天主堂の建設がはじまる。施工は天草出身小山秀之進の小山商会で、伝統的な日本の施工技術によって作られた。この他にも小山秀之進は居留地の多くの西洋館を手がけている。
 居留地は明治三十二年に治外法権が撤廃されると同じに廃止された。

居留地貿易
開国により、居留地の外国商館が直接商品を売買することが出来ることになった。
売込商は荷主から口銭を得、外国商館へ売り込む。
外国商館は運上所へ関税を払い、荷請商へ商品を販売する。
居留地貿易により日本側が関税を決めることができなくなってしまった。

冒険商人
 幕末の混乱時、国内の戦乱を予測し、勤王の志士、反幕の西南雄藩にたいし、米国南北戦争の終結によりあまった武器を売る商人があらわれた。
 グラバー商会 安政6年設立
 


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主な参考資料