幕府の要人


☆☆阿部正弘☆☆
人 脈
役職変遷
開 国

阿部正弘
阿部家
阿部家の祖は孝元天皇第一子大彦命。
正重から徳川家に仕え、三河に住む。正勝は家康に仕え戦功を揚げ、重臣となる。
正勝の代に五千石の領地を給せられ、その子正次には一万石となる。正弘の頃は二十一万石となった。
領地は家康の江戸移転に伴い、武蔵へ移り、寛永七年正邦のとき、備後福山城へ移り幕末まで治める。

正精 第八代福山藩主
安永三年十二月二十四日江戸生まれ 主計頭 対馬守 備中守
文化四年八月二十五日老中となる。
文政六年十月十一日辞任
文政九年六月二十日死去 享年五十二歳
妻 土浦藩主 土屋能登守女 後妻 高松藩主嗣子 松平宮内大輔娘 詮子

六男六女
三男 正寧 第9代藩主 
(庶子 母は井出氏) 対馬守 伊豫守
文化六年十月二十四日生まれ 
天保七年十二月二十五日隠居
明治三年七月朔日死去 享年六十二歳
長子 正教 伊豫守
天保十年十二月七日 江戸生まれ のち正弘の養嗣子となる
文久元年五月二十七日死去 旧年二十三歳 妻 新発田藩主溝口主膳娘
三男 正方 主計頭 主計頭
嘉永元年八月二十一日江戸に生まれる 庶子 母内山氏
慶応三年十一月二十三日 福山にて死去 妻 水戸藩主斉昭

娘 宇都宮藩主戸田日向守へ嫁ぐ
  島原藩主松平主殿頭へ嫁ぐ
  關宿藩主久世隠岐守へ嫁ぐ
以上の他、正弘以外はみな夭折

正精の逸話
寺社奉行就任時代
江戸近村の農民が鶴を謝って殺してしまった。当時の法では死罪となるところ、正精はその農民を召し呼び、屏風に書かれた絵を見せ、汝が殺した鳥はこれかと東都問うと、農民はそうだと答えた。正精は、これは鶴ではなく鴻といって、鶴の類であるが鴻を殺しても死刑には当たらない、流罪に処すべきである。という判決を下した。
 奈良で鹿を殺すのは重罪に当たる。ある豆腐商が鹿に豆腐を食べられ、殺してしまった。正精は「鹿は重んずべきと法にあっても、商品を食べればこれを駆逐することは当然である。かつ、鹿の死は病のためであり、その罪を問うことはない」という判断を下した。これ以降、奈良では鹿を殺したため重罪に処せられたものが少なくなったという。

閣老就任時代
近臣に国政の方針を問われ、「わが国はもちろん、世界中凡そ太陽の照らす所の地は仁を以ってこれを治めようと思う。これは自分が常に心を労しているところである」と答えた。
正精は閣老を七年勤め、公正廉潔として聞えたが、同僚の沼津藩主水野忠成が権威を奮い、意見が合わないため職を辞した。

藩政
領内に義倉を作り、領民は天保の飢饉から免れることができた。
文武を奨励し、軍政を整備する。

人柄
自ら蘭学を学び、家臣に天文測量を研究させた。
文芸を楽しみ、書画に優れ、当時の文化人、松浦清、林衝、佐藤拾蔵らと交際する。詩才にも富。

正 弘 譜代福山藩第十代藩主 
伊勢守 従四位下侍従 字 叔道 號 裕軒
文政二年十月十六日 江戸に生まれる 正精六男 庶子 母 高野具美子
天保七年十二月十六日 兄正寧の養嗣子となる
同上      二十五日 福山藩主となる
安政四年六月十七日死去 享年三十九歳
妻 謹子 越前藩主越前守冶良娘 嘉永五年八月十三日死去 享年三十一歳
後妻 謐子 松平越前守慶永養女(糸魚川藩主松平日向守娘) 明治六年十月五日死去 
四男七女のうち第六女、壽子だけが成人する
明治十七年九月三十日死去 享年三十五歳 
淺野式部三男(安芸藩主淺野安芸守の弟)が正方の養子となるが、壽子との間に子はなく、後妻鍋島篤子を迎え、明治二十四年一月九日に嫡子正直が生まれる。


寺社奉行時代
鋭意、事に従い情理を察し曲直を判ずることと速やかにして、もっとも聴訴の事に長ず。妄に威喝を加うることなく、声色を和けて諄々理解すれば、曲者自ら告白して罪な服するを常とす。

天保十二年八月十八日
将軍家慶は吹上の上覧所において三奉行(寺社、勘定、町奉行)の訴訟審判を聴講した。この上覧は三奉行の能力が試されるので、訴訟は簡単なものが選ばれた。実際、このとき失態をおかし、左遷されたものもある。
当日阿部正弘が選んだ事件は、
十七年間未解決だった神職がかかわる事件で、両者納得の上、判決に服した。臨席したものは阿部の明断であると称した。
 同年、下総中山村法華経寺の審判があった。
これは、同寺の僧侶による疑獄事件で、最初祈祷による力があるとして広く人々に知られ、のち大奥の女中と通じ、多くの貴重品を持ち出させた。事は露見しても、前将軍家斉の愛妾もかかわるため、手を下すことが容易ではなかったが、阿部は大奥の関係者は一切不問にし、首謀の僧侶と農婦二人を裁くことで決着させた。このとき、大奥の実力者姉小路(橋本伊予子)との交渉があったと考えられている。
 以上の二つの事件により、阿部は将軍家慶から大きな信頼を受け、これが異例の速さでの老中抜擢と大老就任へとつながった。
 

参考資料