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安政の大獄
年表
◆琉球開国貿易◆
★和蘭国王将軍に開国を勧告する 弘化元年(1844)七月★
上の国王からの通信に対する日本側の返信
閣老より和蘭の通信を謝絶する書 弘化二年(1845)六月朔日
■阿蘭陀東インド会社ジャワ総督よりの警告文書■
嘉永五年(1852)五月八日附
嘉永五年九月
文書領収につき阿部閣老より長崎奉行への令達 嘉永五年七月二十八日
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| 寛政 | 4 | 1792 | 9 | ロシア使節ラスクマン根室へ来航し通商を求めるが翌年幕府は拒否する | |
| 享和 | 3 | 1803 | 7 | アメリカ船長崎へ入港し貿易を求めるが拒否される | |
| 4 | 1804 | 9 | ロシア使節レザノフ室蘭へ来航し通商を求めるが翌年拒否される | ||
| 文化 | 4 | 1807 | 3 | 西蝦夷地は幕府直轄地とし、松前藩は奥州梁川へ移封 | |
| 4 | ロシア船、択捉、樺太へ上陸し暴行をふるう 米船長崎へ来航 |
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| 5 | ロシア船、江尻で幕府の船を焼く | ||||
| 8 | 1811 | 6 | 国後へ上陸したロシア船艦長ゴロウニン捕らえられる | ||
| 9 | 1812 | 8 | ロシア船高田屋嘉平を人質にし、翌年からゴロウニンの開放を交渉 | ||
| 10 | 1813 | 6 | 英船シャーロット号長崎に来航 | ||
| 13 | 1816 | 10 | 英国船琉球へ来航し通商を求める | ||
| 文政 | 1 | 1818 | 5 | イギリス人ゴルドン浦賀へ来航し貿易を求めるが拒否される | |
| 4 | 1821 | 12 | 幕府は西蝦夷地を松前藩へ返還 | ||
| 5 | 1822 | 4 | 英サラセン号、浦賀へ入港薪水の補給を要求 | ||
| 8 | 15 | 英軍艦フェートン号長崎へ入港→フェートン号事件 | |||
| 10 | 9 | 通詞にたいし英語学習が命じられる | |||
| 6 | 1823 | 7 | 阿蘭陀商館医師シーボルト長崎に赴任 | ||
| 7 | 1824 | 5 | イギリス捕鯨船員常陸大津浜上陸薪水を要求するが水戸藩に捕らえられる | ||
| 6 | イギリス捕鯨船薩摩宝島へ上陸し、発砲し島人を脅し食料を奪う。藩吏吉村九助は銃撃し一人をたおすが他は逃げる。水戸藩に捕らえられていた船員は釈放される。 | ||||
| 8 | 1825 | 2 | 幕府異国船打払令を出す | ||
| 11 | 1828 | 10 | シーボルト事件起こる | ||
| 天保 | 8 | 1837 | 6 | 28 | 米船モリソン号日本の漂流民を伴い浦賀へ入港し、漂流民の引き渡しと通商を求めるが、打ち払い令により浦賀奉行所から砲撃を受け立ち去る。その後九州山川港へ再びあらわれるが同じく砲撃を受け漂流民を乗せたまま日本を去る。 |
| 11 | 1840 | アヘン戦争起こる | |||
| 12 | 1841 | 米モリソン号からの抗議文が長崎奉行に届く | |||
| 13 | 1842 | 7 | 23 | 米モリソン号の抗議を受け、幕府評議の結果、異国船に対する無二念打払令は緩和され、薪水給与令となる。 | |
| 8 | 29 | 清、英と南京条約を結ぶ | |||
| 14 | 1843 | 清、諸条約の追加により、英は香港の領有権とアヘン戦争の賠償金を得、また、それまで広州に限られていた貿易港を五港に拡大させた。 | |||
| 閏9 | 11 | 阿部正弘老中に就任 | |||
| 弘化 | 1 | 1844 | 3 | 11 | フランス軍艦、琉球運天港へ入港し通商を求め、宣教師と通訳をとどめて去る |
| 7 | 和蘭国王の将軍に開国を勧告する書が提出される | ||||
| 2 | 1845 | 2 | 19 | 米マンハッタン号、この月に相次いで助けた漂流民を房総半島に上陸させ、江戸湾入港と漂流民の引渡しを浦賀奉行所に交渉させた。 天保14年外国に対し幕府は漂流民の引き取りは長崎に限るとの書付を出していたため、浦賀奉行土岐頼旨は幕府へ浦賀での引取りを上申する。 後、幕府の評議の結果否決されるが、阿部は特例として浦賀での受け入れを決定する。 |
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| 22 | 阿部正弘老中首座に就任 | ||||
| 3 | 14 | マンハッタン号浦賀に入港。薪水食料水の補給を受ける。 この時交渉にあたったのは、与力中島清司と通詞森山栄之助。 |
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| 5 | 英国船琉球那覇へ入港する。食料を求めフランス艦の事情を問う | ||||
| 6 | 5 | マンハッタン号浦賀を出航 | |||
| 晦 | 幕府は昨年の和蘭国王の信書に対し通信を謝絶する書を送る | ||||
| 7 | 英国船長崎伊王島へ至り、測量と薪水食料を要求する。琉球を再び訪れ残留宣教師と面会する | ||||
| 3 | 1846 | 4 | 英国船、ふたび那覇へ入港し医師ペテレン夫妻ら数名を上陸させる | ||
| フランス艦三隻琉球運天港へ来航。開国通商を求める。 | |||||
| 5 | 米捕鯨船員択捉へ漂着 | ||||
| 閏5 | 27 | 米軍艦「コロンバス号」「ヴィンセント号」が横須賀日野比沖にへ停泊。通商を求めるが拒否され七日後退去 | |||
| 4 | 1847 | 10 | 琉球はフランスとの通商条約に調印 | ||
| 嘉永 | 1 | 1848 | 7 | 琉球使節が清国へ依頼し、清によりフランスへ交渉した結果、仏船が琉球に来航し、滞在していた宣教師らをすべて帰国させた | |
| 2 | 1849 | 米プレブル号、長崎で抑留されている米人水夫の解放を強硬に求め実現させる | |||
| 閏4 | 英国船浦賀に入港奉行に面会をこうが拒否され、下田に入るが韮山代官江川太郎佐衛門が乗船し交渉にあたり穏便に退去させる | ||||
| 4 | 1851 | ジョン万次郎沖縄に上陸し八月に薩摩藩へ護送される | |||
| 5 | 1852 | 5 | 8 | 阿蘭陀ジャワ総督は米国艦隊来日を知らせる幕府宛の信書を書く | |
| 8 | 17 | 阿蘭陀商館長艦隊来日を予告する信書を幕府に提出 | |||
| 6 | 1853 | 6 | 3 | 米国ペリー艦隊浦賀沖に停泊 浦賀与力中島三郎助は通詞堀達之助を伴い小船で黒船に近づき乗船し、退去勧告をする。 |
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| 12 | ペリー艦隊浦賀を出航 | ||||
| 7 | 幕府肥前佐賀藩へ大砲の鋳造を命じる | ||||
| 1 | 老中阿部正弘、米国国書を公開し広く意見を募る | ||||
| 18 | ロシア艦隊長崎湾に入港 | ||||
| 8 | 19 | ロシア艦隊長プチャーチン、長崎奉行大澤豊後守と西役所にて引見、国書を進呈 | |||
| 9 | 15 | 幕府大型船の建造を許可する | |||
| 10 | 4 | 幕府西洋式砲術を奨励 | |||
| 12 | 5 | ロシア艦隊長崎湾に再入港 | |||
| 7 | 1854 | 1 | 16 | 米国ペリー艦隊再び来航 | |
| 3 | 3 | 日米和親条約締結 | |||
| 4 | 9 | 幕府下田、箱館2港の開港を布告 | |||
| 10 | 阿部正弘老中辞表を幕府に提出 | ||||
| 5 | 12 | ペリー下田にて商議 | |||
| 22 | 日米和親条約追加条約署名 | ||||
| 6 | 4 | ペリー下田を出航 | |||
| 閏7 | 15 | スターリング率いる英国艦が長崎に入港 | |||
| 8 | 23 | 長崎西奉行所にて日英和親条約締結 | |||
| 9 | 2 | 日蘭和親条約締結 | |||
| 11 | 4 | 伊豆相模の大地震により津波が発生し、ロシア船ディアナ号大破 | |||
| 安政 | 1 | 12 | 2 | ディアナ号沈没。 | |
| 21 | 日露和親条約締結 | ||||
| 2 | 1855 | 幕府講武所を設立 | |||
| 2 | 7 | 日露通商友好条約締結 | |||
| 5 | 品川沖砲台竣工 | ||||
| 8 | 25 | 阿蘭陀から蒸気艦スムービング号(観光丸)を贈呈される。 | |||
| 10 | 24 | 長崎海軍伝習所開所式 | |||
| 3 | 1856 | 4 | 下田にて露西亜船を模した「君澤形」が完成 | ||
| 7 | 21 | ハリス下田に入港 | |||
| 8 | 5 | ハリス下田玉泉寺に宿泊 | |||
| 25 | 下田においてハリスと日米通商条約交渉 | ||||
| 9 | 27 | ハリス江戸参府を要求 | |||
| 4 | 1857 | 2 | 1 | 蘭商館長、ドンケル・クルチウス「アロー号事件」を幕府に報じる | |
| 4 | 4 | 築地の講武所内に軍艦教授所設立 | |||
| 5 | 26 | 犯罪人処分に関する日米条約締結 | |||
| 6 | 17 | 阿部正弘没 | |||
| 7 | 築地軍艦教授所の練習はじまる | ||||
| 8 | 1 | ハリス江戸上府を要求 | |||
| 29 | 長崎にて日蘭追加条約署名 | ||||
| 9 | 7 | 長崎にて日露追加条約署名 | |||
| 10 | 7 | ハリス江戸参府のため下田を発つ | |||
| 14 | ハリス江戸、蕃書調所を宿とする | ||||
| 21 | ハリス将軍家定に大統領親書を呈す | ||||
| 26 | ハリス老中堀田正睦と会見し通商開始を要求 | ||||
| 11 | 3 | 幕府長崎箱館二港で蘭露二国の貿易を布告 | |||
| 12 | 11 | 井上、岩瀬蕃書調所にてハリスと商議 | |||
| 5 | 1858 | 1 | 8 | 老中堀田勅許を得るため上洛を命ぜられる | |
| 12 | 日米商議終了 | ||||
| 2 | 9 | 老中堀田正睦日米修好通商条約の勅許を得るため京都御所に参内する | |||
| 3 | 1 | 老中堀田、条約署名期日までの帰府不可能をハリスに伝える | |||
| 5 | ハリス、下田から江戸に至り条約の署名を要求 | ||||
| 20 | 朝廷は勅許を拒否 | ||||
| 4 | 1 | 阿蘭陀領事ドンケル・クルチウス、将軍家定に謁見 | |||
| 23 | 井伊直弼大老に就任 | ||||
| 24 | 老中堀田、ハリスと条約署名延期について会談 | ||||
| 5 | 2 | 日米条約署名を六月十九日(7/27)と決定 | |||
| 6 | 17 | ハリス、英、仏の動向を報告し条約署名を勧告 | |||
| 19 | 井上、岩瀬ら米艦ポーハタン号にて日米修好通商条約調印 | ||||
| 21 | 露西亜プチャーチン、幕府応接係永井岩之丞らと通商条約交渉をはじめる | ||||
| 26 | 老中間部詮勝、条約調印の弁明のための上京を命じられる | ||||
| 7 | 4 | 英使節エルギン、軍艦三隻を率いて品川に入港 | |||
| 8 | 永井、岩瀬、水野、堀、井上新たに設置された外国奉行に任命される | ||||
| 10 | 日蘭修好通商条約調印 | ||||
| 11 | 日露修好通商条約調印 | ||||
| 18 | 日英修好通商条約調印 | ||||
| 19 | 日米条約交換のための遣米使節が乗船する船をハリスに打診 | ||||
| 8 | 8 | 戊午の密勅 | |||
| 13 | 仏使節グロー艦隊三隻、品川入港 | ||||
| 9 | 3 | 日仏修好通商条約調印 | |||
| 6 | 1859 | 5 | 26 | 英駐日総領事オールコック、品川着 | |
| 6 | 2 | 神奈川、長崎、箱館開港 | |||
| 7 | 20 | 露艦隊品川入着 | |||
| 27 | 横浜にて露艦乗務員2人死亡、1人重傷を負う | ||||
| 8 | 露領事兼外交代表ゴシケビィッチ、乗艦員の死傷事件について、神奈川奉行罷免と犯人の死刑を要求 | ||||
| 7 | 1860 | 1 | 13 | 咸臨丸渡米のため品川出航 | |
| 3 | 3 | 桜田門外にて大老井伊直弼浪士に襲撃され死亡 | |||
| 万延 |
| 琉球開国貿易 「阿部正弘事蹟」によると開国はペリー来航ではなく、琉球貿易がはじまりだとされています。この琉球貿易を幕府が正式に承認していたということはあまり知られていません。 慶長四年(1609)、薩摩の島津家久は琉球を征服し、以後幕末まで支配しましたが、同時に琉球はシナにも服属しており、シナ(清国)と交易がありました。薩摩はこの琉球とシナの貿易に便乗し密貿易を行おうとしましたが、琉球側は幕府に知られることを恐れたため、薩摩藩士が琉球人に扮して交易を行ったといいます。また、琉球は日本とシナ両国の属国でしたが、シナには日本のことは報せず、日本側には報せていました。 その琉球では享和三年以降外国船がたびたび来航し通商を求めましたが拒否していました。しかし、文政七年には英国人とのあいだで発砲事件が起こります。そして弘化元年にフランスの軍艦が入港し、清国との条約文をしめし、通商貿易を求めました。それにたいし琉球は、清国の属藩であるから勝手には決められない。また、土地もやせ民も衣食に窮乏するほどでとても貿易などするような余裕はないなどの理由で断わります。 しかし、フランス側はあきらめず、九日間交渉を続けた上で宣教師と通訳を留めて去りました。 琉球はこのことを薩摩に急報し、これを受けて薩摩は幕府に指示を請い、警備兵を琉球に派遣しました。 残された宣教師は琉球の官吏と交渉を重ねますが、あるとき次のことを打ち明けました。 「じつは、フランス人がこの琉球を訪れたのは、かねてから琉球が日本とシナに介在し、両国の交通に便利な土地であるとみて、功名心から国王に奏して、まず一艦が派遣されました。わたしたち二人が留められたのはこの国の事情を探るためなのです。また総司令官は来航するでしょうが、それは平和の談判のためであって、戦争を起こそうというものではありませんから心配しないでください。ただ、イギリスはこの国を併容しようと企てているので、きっと近々来るでしょうから、いまフランスの要求を容れて、その保護下に置かれれば、イギリスが攻めてきたときそれを防ぐ手段になるでしょう」 これを聞いた琉球の役人は驚いて清国と薩摩に報じ、フランス人を退去させるよう請います。 弘化ニ年には英国船が2度那覇へ来航し薪水を求め、三年にまた那覇へ来航し医師ベテレン夫妻ら数名が強引に上陸し護国寺に宿泊。同時期にフランス艦三隻が運天港へ入港し、総司令官は琉球の官吏数名を招き、通商を求め威喝して迫りましたが、官吏は返答はせずただ困っていました。それにたいし司令官は、遠からず日本でも条約を結ぶことになるだろうから、琉球は速やかに通商を開くべきだと言いました。このことを聞いた官吏は恐怖して薩摩に報じ、また薩摩は幕府に急報します。 この年幕府は寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付、林大学守を召し、外船防禦の方法を議しました。当時外国の事情はようやく知られつつあり、鎖国攘夷が難しいことだと知るものも少なくありません。しかし、いざ会議となると、旧来の鎖国に固守した意見ばかりでした。 薩摩藩の嗣子島津齋彬は阿部正弘とは当時すでに親交があり、閏五月二十五日藩士調所笑左衛門を阿部の官邸へ送り、密かに次のことを進言しました。「琉球を外交の折衝地にすれば、内地に外国人が侵入することを緩めることができるから開国をすべきである」。正弘はこの意見を容れ、筒井政憲、川路聖謨ら幕府有司の一部と議して琉球貿易を不問にすることに決定。その直後に正弘は将軍家慶に稟し黙許を得ました。 しかし、この琉球の開国については人心の動揺を慮り、幕府から公にされることはありませんでした。また、薩摩藩内でも藩論が一致していなかったこともあり、藩内でも秘匿されたのでした。 幕府の許可はおりたものの、実際にはフランスからたびたび強迫されたため、ついに弘化四年十月に琉球は条約に調印しました。 こうして琉球の貿易は開かれましたが、琉球人はこれを喜ばず、薩摩藩内にも異論があり、徳川斉昭らの抗議もあったため薩摩から琉球王に勧説し、清国に欧人を退去させるよう頼むこととなりました。清廷はこれを容れ、在フランス領事に交渉すると、領事は受け入れ琉球に滞在していたフランス人を退去させました。これにより残ったのはイギリス人ら数名となりました。 五年の正月に英国から交渉のための使節が琉球を訪れ強迫をもって通商を迫ったものの、琉吏は温言でこれをかわし、イギリス船はついに去りました。 以上のように、いったん開国は決定され、実際にフランスとの間で調印されたものの、交易はほとんど行われることなく、また広く人々に知られることもなく立ち消えとなったため、開国の事実はあまり知られてはいません。 |
| 和蘭国王将軍に開国を勧告する 弘化元年(1844)七月 1840年に起こったアヘン戦争の影響を受け、オランダ国王は日本にたいし開国を勧告する親書を送りました。 _______前文略 和蘭日本両国の主今日までいまだかつて書牘を往復せず。蓋し書牘を要することなければなり。其故は交易のこと及び尋常の風説は我和蘭の臣ジャワ及びアジア洲中オランダ所領の諸島を管領する所の総督より年々之を告ぐるを以ってなり 然れども今日に至りて余黙止することを得ず。其の故はここ一大緊張の事ありて告げざることを得ざればなり。このことは和蘭人日本に於いて交易の事に拘にあらず、即ち貴国政事の緊要のことに関わりて国王より直ちに国王に告ぐるに足るの一大事たり。余日本の後来を憂うること深し。こいねがうは余の好商議を以って未来の禍を防がんことを。近年イギリスの女王帝国シナと激戦せしことはわが国の船より年々長崎に出せる風説にてすでに政府の明知を経たるなるべし英武のシナ帝久しく無益の防戦を爲して後遂に欧羅巴兵術の強大なるに屈し其の和議を行うに及びて大にシナ、古昔よりの政法を改めかつ其の五處の港を開きて欧羅巴人交易の地となせり。今を去ること三十年前欧羅巴荒敗の乱治まりてより諸国の民治平の業を営み諸州の国王古賢の言を尊奉し其士民の爲に通商の諸道を開き随って諸民蕃息せり。又機械の学、分折の術に於いて発明多きにより手作りの業ようやく必要ならざるに至り、交易及び勉勤何れの地に於いても其増息甚だ速やかなり。然れども是に開からず諸国において生計の財資不足せり。 イギリスは其土人に富有、知能深慮のもの多しといえども生計の資に匱乏せし者多かりき是において彼国人其交易の新途を求めて休まず其の求むるの切なるに至りては或いは異邦の民と争闘に及ぶことあり。この時に至りてはイギリスの政官事の急なるによりて唯務めて己の属下を補翼保護するのその他計なきなり。イギリス商人と広東にありしシナの官人と争闘の起りしも其始め又是の如し。この争闘よりして兵乱を生じ其の乱遂にシナの一大災厄となれり其の故はこの一乱にてシナ人死する者数千人諸處の府城掠奪蹂躙せられて数百萬の賓貨を購焚料(焼打ちせらるべきをあがなうために敗軍より出す金銀をいう)としてイギリスに奪われたればなり 当今の時、右の如き災厄まさに日本に及ばんとす。もしすこしの不慮あらば即ち禍胎を萌發すべし。今よりは諸般の船日本近海に游走するもの増すなるべし。然れば其の船の人等と貴国諸州の人民と極めて争闘を生じ易かるべし。これらの争闘より兵乱を興すべき事は我深く憂所なり。 貴国の明智應にこの厄災を防ぐの良策あるべし。これ余の希望する所なり。千八百四十ニ年天保十三年壬寅八月十三日長崎奉行わり和蘭カピタンに示されたる諭書に異国の船温和の遇待の命あり。これもって政府の能知洞察を知るに足る。然れどもこの命旨もって厄災を防ぐに足るべきか右の諭書中に説く所は唯難風に遇い或いは匱乏して日本海岸に漂着する所の船のみ。もしこの地の事にて敵対の意なく日本海岸に近寄るところの船は如何の待遇を蒙るべきや。右等の船もし温和ならず粗暴に抵拒せらるる時は即ち争闘を生ずべし。争闘即ち兵乱を誘発し兵乱即ち荒敗を致さるることなり 日本のためにこの禍災を除かんことは其の余の最も望む所なり。この心蓋しニ百餘年来我和蘭人日本において優待を蒙るに報ずる所なり。古賢云う、安に居て危を思い治にして乱を忘れず 余熟々時世の移換するを考ふるに坤輿生民の通交隆盛を爲すこと甚だ速やかなり。盖(がい)しここに拒ぐべからざるの勢いありて坤輿の民を互いに相引き相集む。近頃蒸気船の発明ありてより遐遠漸く邇近となれり。この諸民互いに相近くの時に在りて孤立して交わりをさらんと欲するものは遂に仇を諸国の民に結ぶに至るべし。名徳顕聞の貴国祖宗を立異国の民と通好を狭限するは(通商は唐土和蘭の二国に限りをいうなり)余が知る所なり。然れども「ラヲ、ツエヲ」(按ずるに老子なるべし)の言に聖人上に處れば和を保つと謂えり、若しそれ宗祖の法を厳守して和交爲べからずというも聖賢はその法を寛やかにせんことを欲せり。 余の誠意を以って大府に勧むる所またかくのごとし。ねがわくは異国の人に対するの法を寛やかにし幸福の日本をして兵乱の為に荒敗せしむることなかれ。余のこの議を大府に勧むるは一片の誠心にして少しも私利の心を挟にあらず それ和好を保つには唯親信の交によるべし。新信の交は唯交易に因て生ずべし。これ日本政府の賢明洞知する所なり 大君もしこの貴国の大事についてなおその詳を知らんと欲せば宸翰の回書を賜はるの後余まさに余の親信する所の者一人を日本に送らんとす。然る時は余のこの書牘中大畧を挙げたる事の詳明を盡ことを得べし 余隔遠の日本の幸福和好を願う内に悲惻にたえず。その故は此を慈父に議せんと欲すれば哀しきや。慈父和蘭王ウイルヘム第一世二十八年視政の後今をへだてること四年前館舎を捐つ大府幸いに憐恤(りんしゅつ)を垂れよ 余今一軍艦を以ってこの書牘を贈る。ねがわくは大府の回報を得んことを右の艦中余の肖像あり。これ余の誠貫戀愛の心を表せんが為に大府に獻ずる所なり。この他尚一ニの禮物あり。記して副紙に在り。並に菲微の品たりといえども皆和蘭人の学芸巧術および勉勤に因て産出する所の物なり 以下略___ 視政大四年千八百四十四年二月十五日天保十四年癸卯十二月二十七日ス、ガラアヘンハアガ 王宮に書す ウイルレム ミニステルハンコロニイン ハナアド |
| 閣老より和蘭の通信を謝絶するの書 弘化二年六月朔日 去歳七月貴国使价船がもたらした国王の書簡がわが肥前長崎港崎に至り、これ伊沢美作守が受けてこれ江戸府に達し我主親これを読む 貴国王二百年来もって通商のゆえあり。遥に察し吾国の利病を見、忠告条件その言は極めて懇になし、疑いかつ別見恵珍品若干種、我主、良用感理宜布報然に今有るあたわず。しからばわが祖創業の際海外諸邦、通信貿易固く無く一定及後議を定め通信の国通商の国、通信に限り朝鮮琉球。通商に限り貴国とシナ、外これ則新たな交通をなすを一切許さず。貴国に於て我、従来通商あり通信無し。信と商はまた各別なり。今この布報をなさんと欲す。すなわち違碍祖法ゆえ俾臣等この意を達し、公らにおいてこれを稟し国王事に恭しからず。しかるに祖法の厳このごとき所以をもって得ず、已に請諒見至り恵禮物また在所辞すべく然りて厚き意所寓遐方送致し、なお或いは返納●渉、恭しからず。よって今領受薄晋土宜しき数種をもって報謝あらわしつぶさに録し、別れしりぞくなかれ。幸甚租法を抑え一に定め、嗣孫尊ばずべからず。後来往復請見とどまり或いはそれしからずといえども再三あたわずに至り、幸を受、訝るなかれ。至り、公等において書翰またなぞらえこの報なされず也。ただし貴国通商すなわち旧約を尊び、替えることなかれ。またこれ慎んで祖法を守り幸稟の国王においてといえども、すなわちなんじの云うにいたる国王において忠厚誠意に我主また深く感銘し敢えて疎外せず也。今俾臣等によりつぶさに言をのべつくさず意千萬諒察備えず 阿蘭陀国政府諸公閣下 日本国老中 阿部伊勢守正弘 牧野備前守忠雅 青山下野守忠良 戸田山城守忠温 |
| 嘉永五年五月八日附 米国より日本へ軍艦派遣につきジャワ総督通信(蘭文訳) 御内密 暦数千八百五十二年第六月二十五日(嘉永五年壬子五月八日)於ジャワ 大尊君長崎御奉行へ 阿蘭陀国王欧羅巴洲中専ら風聞これ有候こと承り候に、北アメリカ共和政治司より軍艦日本に差し越し商売あい遂げたき所存これ有候由に候 北アメリカ州共和政治事は欧羅巴州中強勇の国と其勢威異候儀御座候。右申上候軍船は許多にて其船或は蒸気仕掛或は尋常帆前の船に候。右様の仕組に候得ども殺罸の始末に及ばず柔軟の願振仕らずことか何とも申上難く候 一右様の次第にこれ有、阿蘭陀国王あい考候に、日本往々の御煩御用専心の御事と存じ奉り候 一数百年来日本より蒙り奉り候御寵遇の儀、阿蘭陀国王兼ねがね忘却仕り難く存じ奉り候儀に御座候。既暦千八百四十四年公功弘化元年辰年當国王前代日本の君に申し上げ候も幸福の日本御患いを御除の爲外国人の事に就て御趣意御緩宥に相成り候様との事に候。この度当国王もこの儀を省考仕先年の前見差し当たりこの節の御煩い遠からずこれ有やと懸念仕り何分黙止難く申し上げ候儀に候。右については日本の御官府篤と御用心御危患御防の御趣向専要の御事に存じ奉り候 一阿蘭陀領インド都督に阿蘭陀国王より申し付書面あい仕立て新カピタンの者をもって差出候。是究めてこの次第日本摂政の御聴に達し候事と存じ奉り候 一右の次第申上げ候儀にこれ有候えども、国王の意志十分尽くしがたく申上げ是まで永く蒙り奉御寵遇感荷奉り候ところより一の方便考出候儀これ有。勿論この儀につき御威勢強き日本国家にて立置かれ候御法度にいささか響かず御安全御策の儀に御座候 一右一件に付、是まで阿蘭陀領インド大裁断所評定役相勤め罷り在り、きわめて實貞政治向きに事馴罷り在り候ドンケルキュルシュス儀カピタン職に申し付け候この新カピタン儀阿蘭陀国王よりの命令を受け自然日本御官府向御用の儀御座候はば、前条申上げ候御策の方便申上げ奉り阿蘭陀国王より申し含候趣意申上げ何卒御弁利に相成様ねがい奉り候儀に御座候 一日本官府向にて阿蘭陀国王の意志御聴くだされ候こと、あい協(かない)候儀に候はば御身柄御忠勤の御方御掛出来その御方に右一件阿蘭陀国王より申し付け候新カピタン御応対申上げこの大切の一件取扱あい勤めさせ申したくねがいたてまつり候 一阿蘭陀国王右一件に付き申し立て候儀いささか自己の利を貪り候様の儀にこれ無く、まったく實意を尽くし申上げたき儀にこれ有候。自然このたびもこのみぜんの通りこの実意通じ難き様のことに成り行き候時は、阿蘭陀国王誠にもって深く歎息仕り候儀と存じ奉り候。右様あつく申上げ奉り候は至極大切の儀黙止難きところよりかくのごとく御座候 一世上の記説往昔よりの説にも天の然らしむる所は地上遠隔の所といえどもこの所の足らざる所のもの缺(かく)たるところの礼、互いに習い或いは索(もと)め双方の弁利を旨とするとなりしかりといえども日本の御国は御威勢盛んにしていささかこれらの説に御泥み成らせられ様の儀はこれ有る間敷候えども諸方の国々より湊へ来り強いて望みを達せんとする時に至て御国のみ世界の列を御離れ他に御関係なく首尾よく御防は出来べく候えどもはなはだもって御煩わしき事やに存じ奉り候 一右様の始末に至る時はきわめて兵器の沙汰に及びながなが血戦の患免れずしてはあい鎮まり申す間敷存じ奉り候。自然右様御混雑の事ともあい起り候様の事万一これ有候時は右混雑のため阿蘭陀人までも日本に罷り出候儀譬(たとえ)暫くのあいだたりともかなえがたき様の場合に趣候様の儀に成り行き候様のことにも至り候ては実にもって嘆かわしき次第に存じ奉り候 |
| 嘉永五年九月 在長崎和蘭商館長より長崎奉行に提出せる通商條件案(訳文) 恭敬大尊君長崎奉行牧志摩守様大澤豊後守様阿蘭陀カピタン謹んで申し立て候 一ジャワ都督職のもの筆記差出方の儀カピタン職儀命令を受け則ち右書面(上資料)、江府御伺の上御受け取り相成り候。随ってジャワ都督職より私儀に申し聞け候は左の通りに御座候 第一阿蘭陀国王存じ付の方便日本御国法にあい背き申さず安全の計策日本御官府向にて御取用にも相成り候はば申上べく候様の命を受け候は当時専ら外国人ども御本国罷り出儀漸う増長仕り候 第二右一件に付御官府向より仰せ蒙られ候御方へ申し立つきく心得にこれ有候ところ、阿蘭陀国王趣意にて右方便日本御安全のため至極御大切の儀に御座候えばあい叶うべくだけ急速に申し立てたき儀に御座候。然る處右筆記の書面持ち越し候て最速三ヶ月にも相成り尚この末右一件の御掛出来候までよほどの時日經候やも計り難く左候時は阿蘭陀国王本意を失い候様成り行き申し候。ついては私儀あい考え候に近日牧志摩守御事御発駕に相成り申すべく候あいだ阿蘭陀国の趣意申し立て候右一件の方便、江府表へ仰せ立てられ候儀あいかなうべくもうすやに存じ奉り候。左候えば節格の存意むなしく相成り候申す間敷存じ奉り候。右方便と申すは御爲筋の儀にて「カピタン」職のものより申し立て候様阿蘭陀国王申しつけ候右一件の原因は来たアメリカ洲共和政治司日本国と交易の志願是非遂げたき様子にこれ有り。この存意あい止め申さず様あい見え申し候。随っては交易の儀御許容に相成り尤も旧来の御定め格別相ふれず、かつ外国人どもも心得違い仕らず双方意味違これ無きようこの御趣向至極御良策と存じ奉り候。はたまた太平海辺の通船鯨漁等年々増長仕り候えば洋中危難の患とかくにこれ有り右につき船修覆ならび食用の品辨方等の儀日本の地にて仕らず候てはあいかなわず候様の儀航海を専らと仕り候国々の者とも必要の儀に御座候につき左の趣意申し上げ候 第一 北アメリカ洲共和政治司より多分願事仕り候儀これ有べく右願いまったく御取用成させられず候様にこれ無確執出来申さず様のためいささかばかりの事にても御免許御座候方然るべく存じ奉り候。尚阿蘭陀人外たりとも食用薪水並船修履等のため入用の品は御あたえ病人養生の御手当なさせられ候様御沙汰に相成り候方然るべく存じ奉り候 第二 日本国に往古より敵対仕らず国々の者もし通商御願い候はば、長崎港に渡海御免成らせられ左の箇条御立なられ然るべく存じ奉り候 第一 通商の儀は長崎港に限り候事 第二 通商御免の国はその国の重役同所に相詰め候事 第三 通商御免の国人の住館同所へ御手当に相成候事 附 此三箇条相立候得ば日本の内外場所へ罷出候患これ有間事 第四 外国人との交易の儀は江戸 京 大坂 堺 長崎五箇所の商人限り候事 附 此箇条の儀は日本御国法にて外国人と私の交易御停止の趣阿蘭陀国王傳承罷在候これによりこの趣向に候えば御国法に相背き候儀これ有るまじく存じ奉り候 第五 御法御立交易の趣向御定長崎港に御蕃所御立の事 附 此箇条は船々出入り荷物の積み卸改方に付御規定相立申すべく存じ奉り候 第六 交易取引の儀は双方長崎会所或は大坂会所の手形にてあい 辨(わきまえ)候事 附 此箇条は日本の御法にて金銀外国に御渡停止の由かつまた外国の金銀日本にて通用仕らずよしこれにより右趣向に仕り候えば御国法に背くまじく存じ奉り候 第七 諸品物運上等の御規定程能御立の事 附 此箇条は外国人とも運上差出候様相成りかつ過分の荷物持ち渡り申さず様の防に相成るべくもっとも運上格別相増し候えば苦情申し立て候様相成るべくこれにより程能と申上げ候儀に御座候 第八 交易の儀に付外国人取●出来候節は長崎御奉行所と外国重役と取扱に相成候の事 第九 御法を犯し候外人はその国の支配にて仕置き致すべく候 第十 日本御官府向にて石炭圍場所外国人へ御指図の事 附 此箇条は北アメリカ洲西方の諸洲アシヤ洲東方の諸洲並唐国との蒸気船渡海就中北アメリカ洲共和政治弁利のため既にこれまで相立候場所もこれあり。ついては右様の振合いに石灰圍場所相定候の儀必要の事に御座候 一阿蘭陀国王の意志は北アメリカ洲共和政治司よりの願前条の振合に御答ならせられ候はば御安全の御策と存じ奉り候 右の趣謹で申し上げ奉り候 カピタン ドンクルキユルシユス |
| 文書領収につき阿部閣老より長崎奉行への令達 嘉永五年七月二十八日 阿蘭陀新カピタン持越候ジャワ都督之者筆記致し候書付の儀、一旦御国禁の趣を以って受け取り難き旨申し諭し候上は当地へ伺いの上受け取り候も不都合候えども、筆記とこれ有の上は縱令(ほしいまませしめ)い長崎奉行あてに候とも書翰とは訳も違い申すべきかにつき、弘化度申し諭しの趣にあい障り候儀もこれ有る間敷く候あいだ、右の心得をもつてこの上書翰にてはこれ無くまったく筆記にて答書等望み候すじもこれ無きかの旨とくとあい尋ねいよいよ筆記に候はば別段風説書も同様の心得をもってその方ども手地にて受け取り一覧致し候儀は苦しからず候。左候はば右書付はお役所へ通詞ども呼び寄せ隠密に和解いたさせ当地へ差し越し候様致されるべく候。もっとも右につき答書等差し遣わし候筋にこれ無候えども御筋のため厚き心入りを以って遠路差し越し候段深切の趣は時宜次第その方ども心得を以って古カピタン帰帆の節なりともねんごろに申し含み遣わし候様取り計らわれるべく候。もしまた書簡の由に候はば弘化度あい違い候趣もこれ有、御国法故やむを得ず事、受け取り難き旨実意に申し諭し深切の段はよくよく申し含み遣わし候積心得らるべく候。もつとも右の通りあい達し候につき一旦申し諭し候御国法ゆえ受け取り難きとの趣意さらにあいたたす様成り行き候は不都合の事に候あいだ最初申し諭し候趣意にもあい障らぬよう厚く勘弁いたし失體 の儀これ無きよう精々入念に取り計らわれるべく候事 |
参考資料