■■「浪士一件」について■■ | ||
■■杉浦梅潭■■ 経年紀畧より 浪士組取扱 |
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■■以下「浪士一件」より■■ |
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文久二年十二月十三日松平主税助から杉浦へ提出された浪士名簿」 | ||
文久二年十二月十三日板倉勝静へ提出された松平主税助の書面 浪士組、幕府役人名簿 |
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文久三年三月十二日残留浪士浪士會津肥後守お預かりとなる | ||
◆上記史料の内容について | ◆二つの疑問 | ◆町奉行所と浪士組の接点 |
浪士一件について 著者 杉浦梅潭 国文学研究資料館蔵 「浪士一件」は、幕府目付杉浦正一郎(梅潭)が文久二年十二月十二浪士組取扱掛となってから入手した浪士組に関する情報が書き留められたもので、十二月十三日に松平主税助が提出した浪士の名簿からはじまっています。中には上洛した浪士名簿である尽忠報国有志連名も記されています。一部解読され最後の箱館奉行の日記(新潮選書)の中でも読み下し文が紹介されていますが、全文はまだ活字化されていません。 杉浦梅潭は生前多くの自筆文書を書き残し、明治後の交友の広さを示す大量の書簡とともに、その遺稿は大戦中、杉浦家が鎌倉に移転していたため戦火を逃れ、現在に至るまで現存することができました。平成七年に子孫の方が国文学研究資料館に寄贈され、杉浦文庫として収蔵されています。現在研究を目的としての閲覧が可能です。 また、史料の一部である目付在任中から箱館奉行時代の日記は「杉浦梅潭目付日記」「最後の箱館奉行の日記」として平成三年にみずうみ書房より翻刻刊行されています。 なお、「幕末明治期の国文学 明治開花期と文学」国文学研究資料館 臨川書店 に資料の一覧が掲載されています。 |
杉浦梅潭 通称 正一郎 諱 誠 号 梅潭 (この名は埋堀に住んだことに因るといわれる) 官名 兵庫頭 文政九年(1826)一月九日生 明治三十三年五月三十日没 享年七十五 杉浦梅潭の祖父久須美祐明は低い役職から出世を遂げ、佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行を勤めた。勘定奉行となった時は七四歳で、現役奉行としては異例の高齢だったが、その手腕は高く評価されていた。 久須美氏の祖は曽我物語の曽我十郎であるという。工藤一族の復讐を恐れた曽我十郎が越後に逃れ久須美と名乗り、のち再び吉宗の時代に江戸に戻り、旗本となる。 父祐義は祐明の次男であったため小林家へ養子となる。梅潭が生まれてから離縁し再び久須美へ戻り一生部屋住みの身で過ごしたが、直心影流の師範として山岡鉄舟にも教えている。 梅潭は七歳まで実母の元で育てられ、以降は父と祖父祐明の元で育つ。祖父祐明の大坂町奉行時代には父と共に大坂へ赴いた。祐明は高齢ながら毎日歩行訓練、居合、槍などの厳しい鍛錬を行っていた。梅潭も祖父や父に習って幼少から鍛錬をしていたという。 次の年表は杉浦が書いた自身の履歴である「経年紀畧」(杉浦梅潭目付日記 みずうみ書房)より抜粋し「最後の箱館奉行の日記」(新潮選書)を参考に補足を加えたものです。
浪士組取扱 杉浦梅潭は文久二年八月二十四日老中板倉勝静に推され目付となり、十一月四日には松平主税助が提出した意見書にたいする建白書を小笠原図書守へ提出しています。その翌月十二月十二日には浪士組取扱に任命され、十五日には政治総裁職の松平春嶽の上洛差添を仰せ渡されました。 松平主税助から提出された浪士組に参加する候補者の名簿の筆頭は清河八郎で、この庄内藩郷士は、町人を斬ったことから指名手配の身となっていた。その清河を御赦免にして欲しいという願いが二十二日松平主税助から提出され、これにたいし浪士取扱である杉浦と池田修理が老中板倉に提出した意見書は、清河は浪士の巨魁であるから清河がいなくては浪士募集は成らないから御赦免にするべきだというものでした。これは後日幕府に受け入れられ、清河の罪は許されています。 翌年一月十八日には勝海舟が浪士組について杉浦と議論をしています。上洛を翌日に控えた二十三日には順動丸の中で勝海舟と杉浦、松平春嶽の三人で浪士組について議論に及び、その結果春嶽は浪士組の上洛を延期するようにと、江戸に残る老中水野忠精宛書簡に認めました。しかし、浪士組の出立が延期となることはありませんでした。勝が反対した理由は何かというと、龍馬が書いた「雄魂姓名録」から伺えます。 浪人頭 清河八郎 右之人浪人頭ヲ被仰付依之浪人来り候時は弐人不知に金拾両、幕より被下候様承。 少しの間にて浪人四五拾人参りしと聞、右数浪人幕府上京時参り候様、勝麟太郎先生より夜にて聞し事。 此は春嶽公大失策也。亥の正月廿二日しるす。幕も大きに勢無之き事と知るべし。一笑々々。 勝海舟は春嶽らを京へ送ってから江戸へ引き返すとすぐ登城し、老中水野に会い議論に及んでいますがその時この浪士組にも言及しています。しかし、時すでに遅く浪士組は上洛し勝の危惧が具体的な形となって現れました。浪士組(正しくは鳩翁組)上洛翌日、清河が学習院へ提出した建白書には、幕府の世話で上洛したが、禄は受けない。皇命を妨げ、妨害の企てをするものがあれば、たとえ幕府役人であっても容赦はしないという内容が認められていました。松平春嶽にこの内容が知らされたのが二月三十日。その日清河らは攘夷のため江戸に帰還したいという上書を学習院に新たに提出しています。三月三日には浪士組の帰還命令が出されるものの度々延期され、一部浪士をのぞく浪士組本体は十三日にようやく鵜殿、高橋らとともに東下しました。 京に着いてからの杉浦は浮浪の徒が起こす事件と浪人対策、天皇の命令による攘夷の期限の問題と、昨年八月に起こった生麦事件にたいする英国への賠償問題、足利三代の木像事件などに忙殺されていました。三月に入り将軍の還御のお供を仰せつけられていた杉浦は、二十日老中板倉勝静に急遽江戸御用を仰せつけられ、三月二十一日京を出立。順動丸にて江戸に向かい二十七日三時頃築地の軍艦所に着き四時には登城しています。同日浪士組も江戸に到着。 四月三日には清河らによる札差への資金強要事件が起こります。 六日以降には浪士組の山岡、高橋、金子らが杉浦の元をたびたび訪れ会談をしています。十二日の杉浦の日記には高橋、松岡、金(中條)一條尤切迫と書かれ、詳細は不明ながら緊迫した状況にあったと伺えます。この頃清河らは十五日に横浜市中を焼き討ちにし、夷人を襲い奉行所の運上金を奪い決起するという計画をたてていたといわれています。 四月十三日、清河は佐々木只三郎、速見、高久、中山周助、窪田千太郎、右母田与之助の六人によって赤羽橋で暗殺されました。清河暗殺については、まだ京に滞在中、残留浪士となる芹沢、近藤らが老中板倉勝静の命令により清河らを討とうとするが、同行していた山岡の機転により救われるという一件がありました。 翌十四日 高橋 窪田治部右衛門 山岡 松岡外出役七名はお役御免差控の処分を申し渡されています。 三笠町の浪士組屋敷は庄内藩、中村藩、平戸藩小田原藩などから動員された兵により一斉に手入れを受け、札差への資金強要と浪士暗殺の関係者が逮捕され、翌十五日処分が下されています。 十四日の藤岡屋日記には 速見久四郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、永井虎之助、徳永昌作、依田雄次郎、佐々木只三郎、浪士取締役并出役可被差免候、銘々頭支配江其方共より引渡候様可被致候。 とあり暗殺実行者である佐々木、速見、高久も高橋、山岡らと同日役を解かれています。 高橋、山岡ら清河の同志はその後維新まで身を潜めることとなりますが、六月二十六日には佐々木ら暗殺実行者六人は再勤の儀が杉浦から遠州公(有馬)へ申しあげられ、佐々木と速見は富士見御宝蔵番、高久は御天守番となっています。 浪士組は清河暗殺事件後、新徴組と名を改め、五月二十六日には清河の出身である庄内藩酒井公お預かりとなっています。 |
文久二年十二月十三日松平主税助から杉浦へ 提出された「浪士名簿」 |
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阿州産 | 伊勢産 | 土州産 | 常陸土浦産 | 筑前産 | 水戸産 | 水戸産先年遠島当時揚屋 | 水戸産先年入牢此節出牢 | 水戸産先年入牢此節出牢 | 下総産昨年入牢当十一月出牢 | 芸州産昨年入牢当九月出牢 | 庄内産 |
村上俊五郎 | 松浦竹四郎 | 坂本龍馬 | 大久保枩之助 | 磯新藏 | □塚行藏 | 杉浦直三郎 | 堀江芳之助 | 内藤久七郎 | 石坂宗順 | 池田徳太郎 | 清河八郎 |
文久二年十二月十三日板倉勝静へ提出された松平主税助の書面 「浪士組、幕府側名簿」 |
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鵜殿鳩翁 | 川□□斎 | 窪田次郎右衛門 | 山岡鉄太郎 | □□□□ | 林伊太郎 | 中條金之助 | 高橋綱三郎 |
三月十四日、鵜殿、高橋の書が杉浦へ届けられる |
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※原文のまま ※ □ 不明 ※ 黄色字 最後の箱館奉行の日記(新潮選書)の読み下し文より確定 | |||||||||||||||||||||||||||||
三 月 十 三 日 |
相残申候仍之此段申上候已上 | 聞候間今朝同人家来へ引渡京地へ | 支配向内談爲仕候処差支無之旨申 | 十 二 日 申 出 無余儀次第相聞候に付 肥 後 守 家 来 へ |
松平肥後守ノ手に附今暫京地二相残度旨昨 | 京都表之形勢不極儀深く心配仕何卒 | 右之者共一同江戸表へ召連罷下可申處 | 伊予 | 加賀 | 松前 | 白川 | 仙台 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 水 戸 | 浪士之内 | 周防守殿申上ル | 三月十四日高橋鵜殿□□より差越書 | |||
鵜殿鳩翁 | 高橋伊勢守 | 原田佐之助 | 平山五郎 | 永倉新八 | 沖田宗司 | 山南敬助 | 土方歳三 | 井上源三郎 | 佐伯又三郎 | 斎藤 一 | 藤堂平助 | 近藤 勇 | 粕屋新五郎 | 平間重助 | 野口健次 | 新見 錦 | 芹沢 鴨 |
上記史料の内容について 上の史料は三月十三日に鵜殿、高橋が杉浦へ渡した書です。 この日浪士取扱である鵜殿、高橋は浪士一同を引き連れ東下しています。 上記の史料の内容は、残留希望浪士が十二日に肥後守の手に附き京地に残りたい旨を申し出、余儀なき次第を申聞、それにより支配向が会津侯の家来へ内談したところ、差し支えないということで十三日家来へ引渡され、京に残ることになったということを報告しています。(大意は「最後の箱館奉行の日記」新潮選書の読み下し文を参考にしました。) 近藤勇の志大略相認書によると 十二日夜九つ時漸々願の趣意お聞済みに相成り会津公お預かりと相成居候 とあり、上記の内容と一致します。 志大略相認書では、十日に会津侯のもとへ残留希望浪士が嘆願書とともに訪れています。もしそれが聞き届けられなかった場合、京で浪人の身となって勤王攘夷のもとに命も捨てる覚悟であると書かれているほどの決意があったとはいえ、十二日になっても正式に会津からの通知がなく、翌日に同志の出立を控えてかなり焦りがあったと想像される状況のなか、会津公お預かりとして残りたいと申し出たところ、支配向が会津藩士と内談し確かに認められたのでした。 二つの疑問 上記の鵜殿、高橋の書に書かれた名簿の人数は十六名ですが、志大略相認書によると十七名とあり、十日に会津へ出された嘆願書も十七名で、その名簿と比べると阿比留鋭三郎の名が欠けています。鵜殿高橋が認めた書が間違っていたのか、または杉浦が書き写す時損じたのか、もしくは十三日当日阿比留は含まれていなかったのか・・・・はたして真相は如何に。 また。上記の内容から察すると、十二日残留浪士が申し出たことにより、支配向が会津藩士へ内談したところ、差し支えないということでお預かりとなったということですが、残留浪士が申し出た先と、その支配向とは一体誰なのかがはっきりとしていません。 支配向というと、長崎代官がその配下へ下した文書には手附へ、または支配向へと書かれていることを参考にすると何かの配下の役人であると考えられます。京には所司代や町奉行所がありますが、京都町奉行所と浪士組が当初からなんらかの関わりがあったということが、杉浦正一郎の日記などから伺えるので、この支配向は京都町奉行所役人を示すとも想像できます。もしこれが正しいならば残留浪士は京都町奉行所へ申し出、それにより支配向が会津藩士と内談したということになります。 町奉行所と浪士組の接点 浪士組と町奉行所が関わっていたと思われる史料を以下に載せます。 二月二十三日 御池西へ入東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候 三月
何卒大樹公御下向迄御警衛仕度志願候間、恐れながらこれまでも密々御城外夜廻り仕り寸志の御警衛申しあげ候愚意お酌み取り成し下され御下向相成り候まで銘々退去引き延ばしのほど御許容相成り候はば有り難き仕合わせに御座候 これによると、これまでも密に夜廻りをして警衛していたと書かれています。 上表の八日に鳩翁組(当時横行していた浪士らと区別をするため、幕府浪士組は鳩翁組と呼ばれていた)の退京が町奉行と市中廻り方へ知らされていることと、翌九日鳩翁組京地見廻り之儀、御沙汰止ミとあることから、残留浪士は町奉行所との連携により夜廻を行っていたのかもしれないと想像できます。 また、元治元年四月に新選組は幕府から改めて洛中の見廻を仰せつけられていますが、その時同時に場所案内のためとして町奉行所両組から三人ずつ差し添えするよう仰せ渡されたことが、杉浦の日記に記されています。京滞在一年を経ていた当時でも奉行所から場所案内として役人が入っていたという事実から察すると、京へ着いたばかりの浪士が単独で不案内な京の町を夜廻りすることは考えにくく、当初から奉行所と連携して行っていたと考えるのが妥当ではないかと推測します。 浪士組が京に着いた当日、「東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候」というお達しがあったことから、町奉行所が当初から浪士組に関わっていたと思われるものの、具体的にどのような経緯があり夜廻りが行われることとなったのかは史料が無くまったくわかりません。しかし、十二日に残留希望浪士が申し出た先が町奉行所であったとすれば、上の推測はかなり信憑性が高くなるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 町奉行所と浪士組が深く関わっていたとすれば、当時東町奉行であった永井尚志が浪士組と当初からかかわっていたと考えられます。 また、元治元年池田屋事変の前の出来事ですが、京都見廻組発足が決まるが、人員が不足ししているため、会津藩にたいし新選組から人を借りたいという申し入れがあったとき、当時大目付に昇進していた永井に會津藩公用人が相談しています。会津藩庁記録によると以下のように書かれています。 新撰組之者形勢見聞仕候処、品段打上、同心勤抔にて御召抱成度候共、申聞候迄も之無く、中々承服仕間敷、一統の気向にも罹り、巳来之御為にも相成らず義と、一同評議仕候へ共、尚又、永井主水正殿へも内々右の趣申上候処、私共の所存御同様の思召にて、左様之義申聞かず方が宜候旨も仰聞く。 永井は会津藩と同様の考えで、また、そのような事を新選組の耳に入れないほうが良いと言ったとあります。何故会津藩は永井に新選組のことで相談をしたのかを考えると、新選組の事情に詳しい人物という定見があったからではないでしょうか。 以上のように永井尚志は浪士組上洛当初から町奉行として、また翌年大目付となってからも新選組とは浅からず関わっていたと思われるのですが、残念ながら現在のところ史料から推測するにとどまっています。 |