浪士一件
杉浦梅潭 著  国文学研究資料館蔵


■■「浪士一件」について■■
■■杉浦梅潭■■
経年紀畧より
浪士組取扱



■■以下「浪士一件」より■■
文久二年十二月十三日松平主税助から杉浦へ提出された浪士名簿」
文久二年十二月十三日板倉勝静へ提出された松平主税助の書面 
浪士組、幕府役人名簿
文久三年三月十二日残留浪士浪士會津肥後守お預かりとなる
上記史料の内容について  二つの疑問 町奉行所と浪士組の接点


浪士一件について

 著者 杉浦梅潭  国文学研究資料館蔵
 「浪士一件」は、幕府目付杉浦正一郎(梅潭)が文久二年十二月十二浪士組取扱掛となってから入手した浪士組に関する情報が書き留められたもので、十二月十三日に松平主税助が提出した浪士の名簿からはじまっています。中には上洛した浪士名簿である尽忠報国有志連名も記されています。一部解読され最後の箱館奉行の日記(新潮選書)の中でも読み下し文が紹介されていますが、全文はまだ活字化されていません。
 杉浦梅潭は生前多くの自筆文書を書き残し、明治後の交友の広さを示す大量の書簡とともに、その遺稿は大戦中、杉浦家が鎌倉に移転していたため戦火を逃れ、現在に至るまで現存することができました。平成七年に子孫の方が国文学研究資料館に寄贈され、杉浦文庫として収蔵されています。現在研究を目的としての閲覧が可能です。
 また、史料の一部である目付在任中から箱館奉行時代の日記は「杉浦梅潭目付日記」「最後の箱館奉行の日記」として平成三年にみずうみ書房より翻刻刊行されています。
 なお、「幕末明治期の国文学 明治開花期と文学」国文学研究資料館 臨川書店 に資料の一覧が掲載されています。

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杉浦梅潭

 通称 正一郎
 諱   誠
 号   梅潭 (この名は埋堀に住んだことに因るといわれる)
 官名  兵庫頭
 文政九年(1826)一月九日生
 明治三十三年五月三十日没 享年七十五
 
  
 杉浦梅潭の祖父久須美祐明は低い役職から出世を遂げ、佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行を勤めた。勘定奉行となった時は七四歳で、現役奉行としては異例の高齢だったが、その手腕は高く評価されていた。
 久須美氏の祖は曽我物語の曽我十郎であるという。工藤一族の復讐を恐れた曽我十郎が越後に逃れ久須美と名乗り、のち再び吉宗の時代に江戸に戻り、旗本となる。
 父祐義は祐明の次男であったため小林家へ養子となる。梅潭が生まれてから離縁し再び久須美へ戻り一生部屋住みの身で過ごしたが、直心影流の師範として山岡鉄舟にも教えている。
 梅潭は七歳まで実母の元で育てられ、以降は父と祖父祐明の元で育つ。祖父祐明の大坂町奉行時代には父と共に大坂へ赴いた。祐明は高齢ながら毎日歩行訓練、居合、槍などの厳しい鍛錬を行っていた。梅潭も祖父や父に習って幼少から鍛錬をしていたという。
 
 次の年表は杉浦が書いた自身の履歴である「経年紀畧」(杉浦梅潭目付日記 みずうみ書房)より抜粋し「最後の箱館奉行の日記」(新潮選書)を参考に補足を加えたものです。
嘉永元年 十一月十五日 叔父長女豊田お喜多と結婚。
十一月廿六日 旗本杉浦家の家督相続権を得、養子に入る。
嘉永二年 七月廿三日 長女登志生まれる
冬より翌年春へかけ祖父久須美祐明が病にかかり、看護のため虎門の官舎に泊る。
嘉永三年 七月 祖父祐明御旗奉行となる
嘉永四年 一月十九日 長男喜之助生まれる
一月十晦日 妻お多喜卒
豊田氏の邸を辞し、長男喜之助とともに本所大川端埋堀久須美氏の邸へ移る。
十二月 御納戸御番入する
嘉永五年 十月四日 祖父祐明卒。享年八十一歳
嘉永六年 四月九日 本田左太夫先生卒。弓術の師也
九月二日 大坂御鉄砲方坂本弦之助先生、子息とともに出府、赤坂溜池土岐氏の邸に寓す。
外国船一条につき、先生より一方の御固仰せつけられ度段願立相成り、予もこれに関る。
十一月八日 坂本弦之助先生品川港において大砲船打操練、閣老参政見分の節、予これに関わる。
嘉永七年 一月下旬 坂本先生江戸に滞留。外国船一条につき一方の御警衛仰せつけられ度段願立相成り、予またこれに関わる。
安政二年 四月廿四日 叔父豊田友直三女お多嘉を娶る。(先妻お多喜の実妹)豊田家に預けられていた長女お登志とともに埋堀へ。
安政四年 八月七日 大橋訥庵の門に入る。安政六年二月には横山湖山、四月には大沼枕山に入門する。
安政六年 二月廿日 お玉ヶ池横山湖山先生へ詩学の門に入
四月廿六日 槍剣居合三術上覧相勤、反物二反拝領
四月廿九日 大沼枕山先生へ詩学の門に入
湖山翁この日俄然帰国に因て也
八月廿七日 水戸一件落着
水戸前中納言殿御差控○徳川刑部卿殿御隠居御慎○岩瀬肥後守・永井玄蕃頭御役御免、御切米召上られ差控○川路左衛門尉御役御免隠居○水戸殿家老安島帯刀切腹、同家来茅根伊予豫之助死罪、鮎澤伊太夫遠島、鵜飼吉右衛門死罪 同幸吉獄門○鷹司殿家老小林民部権太輔遠島○池内大学中追放○近衛殿老女むら岡押込
安政七年 三月三日 水戸藩士櫻田門外に於て大老井伊掃部頭殿を殺す
万延元年 六月十九日 鉄砲玉薬奉行を仰せつけられる。
九月十六日 岩瀬鴎所を訪れ内々面唔。
万延二年 正月十五日 澤勘七郎御徒頭過人講武所頭取仰せつけられる。友人
文久元年 七月九日 岩瀬鴎所卒 (一般に命日は十一日であるとされている。誤記だろうか)
七月二十六日 櫻田一件の獄決放
八月八日 朝より霍乱を患う、殆危篤に及ぶ
文久二年 正月十五日 閣老安藤對州、登城にかけ刺客により傷を蒙る。
訥庵の獄起こる
五月十五日 二丸御留守居開成所頭取仰せつけられる
五月廿三日 開成所開場
五月廿四日 御黒書院へ召し出されはじめて将軍に親謁す
八月二十四日 老中板倉勝静に推され目付となる。三十七才。
閏八月九日 木村儀兵衛暴瀉を患て歿。予杉浦の養子となる、木村氏の周旋十の九による。
九月十一日 将軍御上洛掛仰せつけられる。
十一月四日 平主税助の儀について図書頭殿江御直ニ上ル
十二月十二日 浪士組取扱を仰せつけられる。
十二月十五日 御政治総裁職松平春嶽上洛の差し添えを仰せつけられる。
十二月十六日 布衣を仰せつけられる。
文久三年 一月二十二日 松平春嶽に従い勝海舟の順動丸へ乗艦。上洛する。艦中で坂本龍馬に初めて遭う。
二月四日 入京
三月廿日 外国奉行菊池伊豫守とともに御用につき江戸へ罷り越すよう仰せつけられる
三月二十三日 咸臨丸で順動丸に乗る
三月二十七日 江戸着
四月十三日 清河八郎赤羽近傍において暗殺に遭う。佐々木只三郎等の所為。
四月十五日 本所三笠町新徴組屋敷をかこみ巨魁を捕縛し評定所において吟味の上、諸藩へ預く。石坂周蔵、村上俊五郎、和田理一郎、松澤良作、藤本昇、白井庄兵衛
七月廿三日 長崎奉行仰せ付けられる
七月廿九日 御目付へ再勤仰せ付けられ、同日京都町奉行池田修理御目付仰せ付けられる。同人は筆頭、自分は次席。
九月十三日 御目付筆頭となる。本日池田外國奉行となる。
十月十六日 諸太夫仰せつけられ、兵庫頭と改む。長男喜之助正一郎と改しむ。
十一月八日 新番頭各千五百俵高に成し下さられ旨、酒井雅楽頭殿仰せ渡される
十二月二十七日 公方様上洛につき翔鶴丸へ御乗船。翌二十八日抜錨、自分儀御座舟へ乗る
元治元年 正月七日 朝七時天保山沖へ着船、直ちに御上陸。
正月十五日 公方様二条城へ着御
二月二十二日 公命を奉し京都出立東海道陸路早追にて
二月二十八日 江戸着
三月七日 江戸を立つ
三月十三日 京都着
五月二十日 公方様京都より還御、御供にて江戸へ帰る。
六月三日 松平大和守殿早登城、御前を願わらる  黜陟大激論言上の由
六月十七日 勤仕並寄合仰せつけられる 松平大和守殿の建白に原因する様子
九月二十三日 御上洛御用骨折相勤候に付、金5枚時服ニ拝領
慶應ニ年 正月十八日 箱館奉行仰せ付けられる。 前年五月下旬より嫌疑ありこれを避けるために再勤まで門外不出
三月二十六日 箱館へ向陸路を發す。
四月二十二日 亀田五稜郭へ着。小出大和守と交替す。
七月二十四日 実父久須美順三郎死去
慶應三年 九月十七日 御勘定奉行兼帯仰せ付けられる。
慶應四年 正月三日 伏見戦争、同月十二日上様回陽丸にて御帰府、この報函館へは神奈川奉行支配組頭より函館奉行組頭へ宛てたる書状、二月六日入港の英商船カンカイ号の携帯せしを得、はじめて詳知す。
二月二十三日 決意書を認める
三月二十二日 市中へ触書を出す
閏四月十一日 裁判所先着のもの吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞へ金穀図書機械を仮に引渡し、五稜郭を去て同所近傍組頭の官舎に移、清水谷総督の着函を待
閏四月廿六日 権判事小野淳輔へ五稜郭を引き渡し、この夕、清水谷総督五稜郭へ入る。
閏四月二十七日 五稜郭において清水谷総督へはじめて面会
五月一日 事務を裁判所へ引き渡す
六月二日 英汽船フィルヘートル号へ家族及び帰府の配下数輩引き連れ乗船
六月三日 朝函港抜錨
六月七日 夜十二時神奈川港へ着、上陸
六月十三日 夕小舟にて本所大川埋堀の邸へ帰る
六月十八日 依願御役御免勤仕並寄合、函館残御用取扱仰せ付けられる
七月三日 大目付仰せ付けられる
本所南割下水今井帯刀屋敷内の家屋を借り受け引き移り萬居
七月十四日 御用人仰せ付けられる
明治元年 十二月四日 公議人命ぜらる。公議人席の儀、幹事役の次、御役金七百両下される旨中老申し渡される
十二月十三日 東京を發し静岡に赴く。
明治二年 正月九日 帰京
正月廿六日 神田佐久間町へ引き移る。
七月二十六日 勝海舟のもとに、杉浦の出仕について内談がなされた。
七月二十八日 勝海舟は杉浦と会談。杉浦は箱館へ命ぜられれば尽力する決心があると云い、出仕を承服した。
八月二日 外務省出仕仰せつけられる。
八月六日 外務省の命令により駿府へ向出立
八月廿日 駿府より帰京
八月廿九日 開拓権判官任ぜられる
九月 函館出張を仰せつけられる
十月十五日 正六位に叙せらる
十一月三十日 東京を發し函館へ向かい陸路出立。
十一月二十九日 函館着
明治三年 十一月四日 嫡子正一郎卒
十二月八日 家族飛脚船エリール号にて函館着
明治四年 四月廿八日 東久世長官札幌へ在勤として函館出立
六月 札幌開拓使庁を開き函館根室を以て出張開拓使庁となす
八月 陸軍少将桐野利秋着函、数日留滞、往来し常道の事務を稟議す
樺太開拓使を本使に併す
十一月十五日 東久世開拓長官侍従長へ転任
十二月 薄井幹事辞職、山田幹事これに代る
明治五年 二月九日 開拓判官に任ぜられる。
三月廿六日 当支庁上局監事山田致人建築が掛転じ七等出仕松平太郎これに代わる
四月二十八日 御用につき上京仰せ付けられる旨の辞令を受く
五月 新たに函館より札幌に至る道路を開く。六年六月竣工す、行程陸路四十五里余海路二十五里
五月二日 飛脚船コスタリカ号へ乗込む。供高橋譲三附属宮木権大主典、黒田次官同船。
五月五日 夜十一時横浜へ着
二日(?) 午後馬車にて神田佐久間町自邸へ着
六月三日 静岡の親族の元を訪れるため品川駅から汽車に乗り横浜へ。翌日静岡に着く。
七年 九月 家族を伴い静岡の親族の元へ赴く。徳川家達、勝海舟らにも会う。
十一月二十八日 函館赴任中から杉浦の元で書生をしていた高橋譲三を長女お登美の婿養子とし、東京神田の自宅で結婚式を挙げる。
九年 七月十六日 天皇の函館行幸の先導を務める。翌日は明治天皇の質問に対し陳述をしている。
十年 一月二十九日 開拓判官を退官
二月十日 函館港を出航
十二日 横浜港、着
十三日 神田の自宅に帰着
十一月二十六日 長女お登美と譲三の間に倹一が生まれる
十一年 九月 向山黄村、稲津南洋らとともに漢詩「晩翠吟社」を起こす。
「晩翠吟社」・・・月一回上野不忍池畔、湖心亭で詩会を開く。
大沼枕山が書評を行う。参加者は東久世竹亭山口泉処、宮本鴨北、小牧桜泉、など。
十四年 五月二日 長女お登美病死
十七年 九月 妻お喜美病死
二十三年 七月 梅潭と千代とのあいだに良が生まれる
三十年 十月 住居を神田三崎町から本郷駒込林町に移す
三十三年 五月二十四日 外出途中脳溢血を起こし自宅へ引き返す。そのまま床につく。
三十日 昏睡状態のまま亡くなる。享年七十五才。墓所 杉並区 長延寺
国文学研究資料館所蔵の「杉浦梅潭文庫」の中には、梅潭追悼寄詩文書画帖があり、その中には60点以上の詩や祭文、画が収められ、生前幅広い交流があったことがわかります。
 なお、祭文を送ったのは依田百川小野正弘、松平康国で、依田百川とは明治二十年代には三日をあけずお互いの家を訪問しあった仲でした。

 浪士組取扱
 杉浦梅潭は文久二年八月二十四日老中板倉勝静に推され目付となり、十一月四日には松平主税助が提出した意見書にたいする建白書を小笠原図書守へ提出しています。その翌月十二月十二日には浪士組取扱に任命され、十五日には政治総裁職の松平春嶽の上洛差添を仰せ渡されました。
 松平主税助から提出された浪士組に参加する候補者の名簿の筆頭は清河八郎で、この庄内藩郷士は、町人を斬ったことから指名手配の身となっていた。その清河を御赦免にして欲しいという願いが二十二日松平主税助から提出され、これにたいし浪士取扱である杉浦と池田修理が老中板倉に提出した意見書は、清河は浪士の巨魁であるから清河がいなくては浪士募集は成らないから御赦免にするべきだというものでした。これは後日幕府に受け入れられ、清河の罪は許されています。
 翌年一月十八日には勝海舟が浪士組について杉浦と議論をしています。上洛を翌日に控えた二十三日には順動丸の中で勝海舟と杉浦、松平春嶽の三人で浪士組について議論に及び、その結果春嶽は浪士組の上洛を延期するようにと、江戸に残る老中水野忠精宛書簡に認めました。しかし、浪士組の出立が延期となることはありませんでした。勝が反対した理由は何かというと、龍馬が書いた「雄魂姓名録」から伺えます。

浪人頭   清河八郎
右之人浪人頭ヲ被仰付依之浪人来り候時は弐人不知に金拾両、幕より被下候様承。
少しの間にて浪人四五拾人参りしと聞、右数浪人幕府上京時参り候様、勝麟太郎先生より夜にて聞し事。
此は春嶽公大失策也。亥の正月廿二日しるす。幕も大きに勢無之き事と知るべし。一笑々々。

 勝海舟は春嶽らを京へ送ってから江戸へ引き返すとすぐ登城し、老中水野に会い議論に及んでいますがその時この浪士組にも言及しています。しかし、時すでに遅く浪士組は上洛し勝の危惧が具体的な形となって現れました。浪士組(正しくは鳩翁組)上洛翌日、清河が学習院へ提出した建白書には、幕府の世話で上洛したが、禄は受けない。皇命を妨げ、妨害の企てをするものがあれば、たとえ幕府役人であっても容赦はしないという内容が認められていました。松平春嶽にこの内容が知らされたのが二月三十日。その日清河らは攘夷のため江戸に帰還したいという上書を学習院に新たに提出しています。三月三日には浪士組の帰還命令が出されるものの度々延期され、一部浪士をのぞく浪士組本体は十三日にようやく鵜殿、高橋らとともに東下しました。
 京に着いてからの杉浦は浮浪の徒が起こす事件と浪人対策、天皇の命令による攘夷の期限の問題と、昨年八月に起こった生麦事件にたいする英国への賠償問題、足利三代の木像事件などに忙殺されていました。三月に入り将軍の還御のお供を仰せつけられていた杉浦は、二十日老中板倉勝静に急遽江戸御用を仰せつけられ、三月二十一日京を出立。順動丸にて江戸に向かい二十七日三時頃築地の軍艦所に着き四時には登城しています。同日浪士組も江戸に到着。
 四月三日には清河らによる札差への資金強要事件が起こります。
 六日以降には浪士組の山岡、高橋、金子らが杉浦の元をたびたび訪れ会談をしています。十二日の杉浦の日記には高橋、松岡、金(中條)一條尤切迫と書かれ、詳細は不明ながら緊迫した状況にあったと伺えます。この頃清河らは十五日に横浜市中を焼き討ちにし、夷人を襲い奉行所の運上金を奪い決起するという計画をたてていたといわれています。
 四月十三日、清河は佐々木只三郎、速見、高久、中山周助、窪田千太郎、右母田与之助の六人によって赤羽橋で暗殺されました。清河暗殺については、まだ京に滞在中、残留浪士となる芹沢、近藤らが老中板倉勝静の命令により清河らを討とうとするが、同行していた山岡の機転により救われるという一件がありました。
 翌十四日 高橋 窪田治部右衛門 山岡 松岡外出役七名はお役御免差控の処分を申し渡されています。
 三笠町の浪士組屋敷は庄内藩、中村藩、平戸藩小田原藩などから動員された兵により一斉に手入れを受け、札差への資金強要と浪士暗殺の関係者が逮捕され、翌十五日処分が下されています。
 十四日の藤岡屋日記には
 速見久四郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、永井虎之助、徳永昌作、依田雄次郎、佐々木只三郎、浪士取締役并出役可被差免候、銘々頭支配江其方共より引渡候様可被致候。
とあり暗殺実行者である佐々木、速見、高久も高橋、山岡らと同日役を解かれています。
 高橋、山岡ら清河の同志はその後維新まで身を潜めることとなりますが、六月二十六日には佐々木ら暗殺実行者六人は再勤の儀が杉浦から遠州公(有馬)へ申しあげられ、佐々木と速見は富士見御宝蔵番、高久は御天守番となっています。
 浪士組は清河暗殺事件後、新徴組と名を改め、五月二十六日には清河の出身である庄内藩酒井公お預かりとなっています。
 

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文久二年十二月十三日松平主税助から杉浦へ
提出された「浪士名簿」
阿州産 伊勢産 土州産 常陸土浦産 筑前産 水戸産 水戸産先年遠島当時揚屋 水戸産先年入牢此節出牢 水戸産先年入牢此節出牢 下総産昨年入牢当十一月出牢 芸州産昨年入牢当九月出牢 庄内産
村上俊五郎 松浦竹四郎 坂本龍馬 大久保枩之助 磯新藏 □塚行藏 杉浦直三郎 堀江芳之助 内藤久七郎 石坂宗順 池田徳太郎 清河八郎
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文久二年十二月十三日板倉勝静へ提出された松平主税助の書面 
「浪士組、幕府側名簿」
鵜殿鳩翁 川□□斎 窪田次郎右衛門 山岡鉄太郎 □□□□ 林伊太郎 中條金之助 高橋綱三郎


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三月十四日、鵜殿、高橋の書が杉浦へ届けられる

※原文のまま  ※ □ 不明 ※ 黄色字 最後の箱館奉行の日記(新潮選書)の読み下し文より確定




相残申候仍之此段申上候已上 聞候間今朝同人家来引渡京地へ 支配向内談爲仕候処差支無之旨申




無余儀次第相聞候に付





松平肥後守ノ手に附今暫京地二相残度旨昨 京都表之形勢深く心配仕何卒 右之者共一同江戸表へ召連罷下可申處 伊予 加賀 松前 白川 仙台 水 戸 浪士之内     周防守殿申上ル 三月十四日高橋鵜殿□□より差越書
鵜殿鳩翁 高橋伊勢守 原田佐之助 平山五郎 永倉新八 沖田宗司 山南敬助 土方歳三 井上源三郎 佐伯又三郎 斎藤 一 藤堂平助 近藤 勇 粕屋新五郎 平間重助 野口健次 新見 錦 芹沢 鴨
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上記史料の内容について

 上の史料は三月十三日に鵜殿、高橋が杉浦へ渡した書です。
 この日浪士取扱である鵜殿、高橋は浪士一同を引き連れ東下しています。
 上記の史料の内容は、残留希望浪士が十二日に肥後守の手に附き京地に残りたい旨を申し出、余儀なき次第を申聞、それにより支配向が会津侯の家来へ内談したところ、差し支えないということで十三日家来へ引渡され、京に残ることになったということを報告しています。(大意は「最後の箱館奉行の日記」新潮選書の読み下し文を参考にしました。)

 近藤勇の志大略相認書によると
  十二日夜九つ時漸々願の趣意お聞済みに相成り会津公お預かりと相成居候
 とあり、上記の内容と一致します。
 志大略相認書では、十日に会津侯のもとへ残留希望浪士が嘆願書とともに訪れています。もしそれが聞き届けられなかった場合、京で浪人の身となって勤王攘夷のもとに命も捨てる覚悟であると書かれているほどの決意があったとはいえ、十二日になっても正式に会津からの通知がなく、翌日に同志の出立を控えてかなり焦りがあったと想像される状況のなか、会津公お預かりとして残りたいと申し出たところ、支配向が会津藩士と内談し確かに認められたのでした。
 
 二つの疑問

 上記の鵜殿、高橋の書に書かれた名簿の人数は十六名ですが、志大略相認書によると十七名とあり、十日に会津へ出された嘆願書も十七名で、その名簿と比べると阿比留鋭三郎の名が欠けています。鵜殿高橋が認めた書が間違っていたのか、または杉浦が書き写す時損じたのか、もしくは十三日当日阿比留は含まれていなかったのか・・・・はたして真相は如何に。

 また。上記の内容から察すると、十二日残留浪士が申し出たことにより、支配向が会津藩士へ内談したところ、差し支えないということでお預かりとなったということですが、残留浪士が申し出た先と、その支配向とは一体誰なのかがはっきりとしていません。
 支配向というと、長崎代官がその配下へ下した文書には手附へ、または支配向へと書かれていることを参考にすると何かの配下の役人であると考えられます。京には所司代や町奉行所がありますが、京都町奉行所と浪士組が当初からなんらかの関わりがあったということが、杉浦正一郎の日記などから伺えるので、この支配向は京都町奉行所役人を示すとも想像できます。もしこれが正しいならば残留浪士は京都町奉行所へ申し出、それにより支配向が会津藩士と内談したということになります。

  町奉行所と浪士組の接点
  浪士組と町奉行所が関わっていたと思われる史料を以下に載せます。

  二月二十三日 御池西へ入東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候
  三月
八日 高橋謙三郎浪士取扱被仰付、浪士引連、早々帰府之儀御達し
鵜殿鳩翁御上洛中、浪士三四拾人引連退京、町奉行江申談、市中廻り方御達し
杉浦
日記
浪士組、八日朝京出立の予定が、九日に延期される。
九日 鳩翁京地見廻り之儀、御沙汰止ミ 杉浦
日記
浪士組の出立が再度延期となる。
十日 幕府より会津へ浪士組残留者の差配が命じられ、芹沢、近藤ら十七名は嘆願書を會津へ提出。
十二日 残留希望浪士十七名會津御預りとなる。
  なお、志大略相認書より十日に残留希望浪士が提出した嘆願書の内容の一部を以下に載せます。
 
 何卒大樹公御下向迄御警衛仕度志願候間、恐れながらこれまでも密々御城外夜廻り仕り寸志の御警衛申しあげ候愚意お酌み取り成し下され御下向相成り候まで銘々退去引き延ばしのほど御許容相成り候はば有り難き仕合わせに御座候

 これによると、これまでも密に夜廻りをして警衛していたと書かれています。
 上表の八日に鳩翁組(当時横行していた浪士らと区別をするため、幕府浪士組は鳩翁組と呼ばれていた)の退京が町奉行と市中廻り方へ知らされていることと、翌九日鳩翁組京地見廻り之儀、御沙汰止ミとあることから、残留浪士は町奉行所との連携により夜廻を行っていたのかもしれないと想像できます。
 また、元治元年四月に新選組は幕府から改めて洛中の見廻を仰せつけられていますが、その時同時に場所案内のためとして町奉行所両組から三人ずつ差し添えするよう仰せ渡されたことが、杉浦の日記に記されています。京滞在一年を経ていた当時でも奉行所から場所案内として役人が入っていたという事実から察すると、京へ着いたばかりの浪士が単独で不案内な京の町を夜廻りすることは考えにくく、当初から奉行所と連携して行っていたと考えるのが妥当ではないかと推測します。

 浪士組が京に着いた当日、「東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候」というお達しがあったことから、町奉行所が当初から浪士組に関わっていたと思われるものの、具体的にどのような経緯があり夜廻りが行われることとなったのかは史料が無くまったくわかりません。しかし、十二日に残留希望浪士が申し出た先が町奉行所であったとすれば、上の推測はかなり信憑性が高くなるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 町奉行所と浪士組が深く関わっていたとすれば、当時東町奉行であった永井尚志が浪士組と当初からかかわっていたと考えられます。
 また、元治元年池田屋事変の前の出来事ですが、京都見廻組発足が決まるが、人員が不足ししているため、会津藩にたいし新選組から人を借りたいという申し入れがあったとき、当時大目付に昇進していた永井に會津藩公用人が相談しています。会津藩庁記録によると以下のように書かれています。

新撰組之者形勢見聞仕候処、品段打上、同心勤抔にて御召抱成度候共、申聞候迄も之無く、中々承服仕間敷、一統の気向にも罹り、巳来之御為にも相成らず義と、一同評議仕候へ共、尚又、永井主水正殿へも内々右の趣申上候処、私共の所存御同様の思召にて、左様之義申聞かず方が宜候旨も仰聞く。

 永井は会津藩と同様の考えで、また、そのような事を新選組の耳に入れないほうが良いと言ったとあります。何故会津藩は永井に新選組のことで相談をしたのかを考えると、新選組の事情に詳しい人物という定見があったからではないでしょうか。
 以上のように永井尚志は浪士組上洛当初から町奉行として、また翌年大目付となってからも新選組とは浅からず関わっていたと思われるのですが、残念ながら現在のところ史料から推測するにとどまっています。
 
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