幹事クリタのコーカイ日誌1999

 
 12月9日 ● 子どもの可能性は有限。

 「お受験」報道をいろいろ読んでいて考えたのですが、そもそも「子どもの可能性は無限なのだから、それを引き出してやるのが親の役目」なんて考え方自体が間違っているんじゃないかと思います。やれピアノだ、バレーだ、野球だ、ゴルフだと、勉強に限らずいろいろな習い事を幼い頃から子どもにやらせるのが親の務めのように考えている連中が多いのですが、端から見ていると、ほとんどドブに金を捨てているようなものです。

 確かにイチローは英才教育を受けてあれだけの大選手に成長したかも知れません。しかし、イチロー1人の陰に、イチローになれなかった何千人、何万人の少年がいることを忘れてはいけません。しかも、イチローはもしかしたら幼い頃からの英才教育を受けなくても、やっぱりどこかで野球に目覚めてイチローになっていた「可能性」だって否定はできません。あれだけの身体能力の高さを持っていれば、野球に限らずあらゆるスポーツでトップに立てる「可能性」だってあります。

 子どもの可能性は無限ではなく、明らかに有限です。才能に限界はあるのです。それを引き出すのではなく、見極めることこそ本来の親の務めでしょう。本当に才能があるのなら、無理に引き出さなくても自然に頭角を現してくるものですし、逆に明らかに才能がないのにそれに目を瞑ってしまうのも子どもの人生をあたら無駄に浪費させるだけです。

 それに親が望む「可能性」というやつが、明らかにある分野に偏っているのも考えものです。すなわち勉強か芸術・芸能かスポーツ。成功すれば確実にステータスと金になる分野ばかりです。しかし、子どものことを本当に考えて可能性を云々するのなら、親が望む可能性だけではなく、それ以外にもいろいろな可能性の方向があることをちゃんと親も自覚すべきでしょう。ごく限定された可能性を子どもへ押しつけることほど、子どもに無用のプレッシャーとストレスを与えることはないと思います。

 もっと言えば、可能性は幼い子どもだけの特権ではありません。いくつになっても人間には可能性があるのです。例え幼い時に失敗しても、この先にもいくらでも「可能性」は広がっているわけですし、そもそも子どもに自分の夢を押しつけるくらいなら、親が自分自身の可能性を試していく方が健全です。もっとも幼児教育に血眼を上げている母親連中にこんなことを言っても、どうせ耳には入りっこないでしょうけどね。あれは一種の信仰みたいなものですから。

 
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