幹事クリタのコーカイ日誌2013

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8月15日 ● 「風立ちぬ」とタバコ。

 映画「風立ちぬ」で喫煙シーンが多いことに日本禁煙学会がクレームをつけたそうです(こちら)。禁煙学会という団体はそういうことを主張するためにある団体として存在しているのだから仕方ないのかも知れませんが、映画にクレームをつけるのはちょっと筋違いではないのでしょうか?

 映画の描いている戦前はもちろん、昭和50年代でもまだまだ日本人男性の喫煙率は恐ろしく高く、むしろタバコを吸わない男性の方が変わり者扱いされていたくらいです。僕は生まれてから一度もタバコを吸ったことがありませんが、それを言うと本当に珍奇な人間を見るような目で見られました。

 平成元年に僕の会社の新社屋が建つ時に、労組から会社に出す新社屋についての要望をまとめる会議で僕は「オフィスは禁煙にして喫煙スペースを作るべきだ」と主張しましたが、組合の幹部たちに「ありえない」と一笑に付されて潰されました。また新社屋が建った時に会社の総務は整理整頓を徹底しようと「退社時のデスクの上には電話機と灰皿のみ」などという通達を出しました。僕はなぜ灰皿は良いのかと噛みついたものです。それがつい四半世紀前のことです。もちろん今のオフィスは禁煙になっています。だったら最初からやりゃあいいのにと僕は思っていました。

 だから映画の時代には男性がタバコを吸うのは当たり前であり、むしろ吸わない方が違和感があります。長年の嫌煙家(僕のテニスサークルは1986年の創設時からずっと禁煙サークルを標榜しています)である僕からしても、この時代の男たちにタバコを吸わせないのはおかしいと思います。この映画の感想で僕は「失われた日本」を描こうとしていると指摘しましたが、タバコという文化も宮崎監督からしたら今の日本から失われてしまったものなのでしょう。

 さらに「風立ちぬ」におけるタバコというのは単なる小道具ではなく、一種のシンボルであり、タバコによって様々な登場人物たちの心象風景を表現しています。議論になっている菜穂子が寝ている横でタバコを吸いながら仕事をする二郎のシーン。これもあそこで菜穂子の手を握りながらタバコを吸うからこそ印象的で意味があるのです。菜穂子がすでに死を覚悟し、それでも二郎を愛することを決意していて、それをまた二郎が感じ取ったことをあのシーンでは表現しています。

 「二郎に優しさがない」わけではありません。当時の結核という病は不治の病です。結核は風邪やインフルエンザではないのです。菜穂子は寝ていれば治るわけではありません。彼女は確実に死に向かっている途中であり、それゆえに敢えて富士見高原の病院から出てきて二郎と一緒に暮らしているし、二郎もその覚悟を共有しています。二人がその運命を一緒に受け止めた象徴があのタバコです。

 最初に書いたように禁煙学会がタバコの有害さをアピールすることは有意義なことであり、そういう団体として活動をすることを僕は応援します。ただ映画「風立ちぬ」にクレームをつけるのは、多くのファンを敵に回すし、むしろ「芸術をわかっていない」と思われて逆効果ではないでしょうか。映画とうまくタイアップしながらタバコの害をアピールしていくようなやり方はなかったのかと残念に思います。



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