島津義弘(惟新)の関ヶ原の闘い
西暦2000年は関ヶ原の戦い(1600年)から400年目の年にあたります。
関ヶ原の戦いや宝暦治水工事(1753〜1755年)など島津家薩摩藩は
美濃の国岐阜県と多分に関わりがあります。
島津義弘と関ヶ原の戦い、島津の退き口について。


 島津氏の三州統一

 戦国時代末期、本州では織田信長や豊臣秀吉が全国統一を
掲げ戦乱にあけくれていた頃、九州では義久を中心に義弘・
歳久・家久の兄弟四人が協力して、島津氏が薩摩・大隈・日向
の三州を統一した。

桜島


 秀吉の九州征伐

 島津氏はさらに九州を統一すべく肥後・豊後・筑前に進出していった。しかし、本州統一を果たした秀吉は大友氏からの
要請を受け、秀長や諸大名を率いて九州に進み、戦いを繰り返しながら旧領に押し戻した。
 義久は剃髪して龍伯と号して秀吉に降伏した。これにより秀吉の日本統一はほぼ確実なものとなった。


 島津氏の分封

 九州の諸地域を諸大名に分け与えた秀吉は、島津氏に対しても旧領を四人兄弟に分封して、その勢力を削ごうとした。
これが意見の統一を欠くという島津藩の奇妙な行動の始まりとなり、義久は国元に、義弘は大坂に居てその意見は
まとまらず。その後の島津家にとって大きな影響を与えていく。


 秀吉の朝鮮侵略

 天正20年(1592)3月13日秀吉から朝鮮への渡海命令が
発せられ、諸大名は肥前名護屋から続々と朝鮮へ出陣して
いった。(文禄の役)
 命令により出陣した島津義弘と子の久保をはじめ家臣たちは
、義久らの非協力で国元から軍船が来なかった為に賃船で細々
と渡海していったが、「日本一の遅陣」としてその面目は大いに
失われた。
 また島津氏の部将による肥後領への侵攻という一大事も起こり
、弟の歳久はその責任をとり自害した。
義弘らは朝鮮の各地を転戦していったが、このような状況の中、
長男の久保が陣中で亡くなり、次男の忠恒を日本から呼び寄せ
た。
 さらに転戦を重ね、文禄4年(1595)5月10日、義弘は朝鮮を
出発して、6月5日に大坂に着いた。


 太閤検地

 秀吉は朱印状を発して、島津家の領主を戦功のあった義弘に
した。しかし島津家の当主は義久であり、当事者とその家臣た
ちに大きな動揺を与えた。
さらに太閤検地によって、所領の大掛かりな移動があり、混乱と
動揺はさらに深まり、島津家の家臣たちは分裂していった。

季舜臣の像

壬申倭乱(韓国ではそう呼ぶ)の時活躍した
水軍統帥使 季舜臣の像。
釜山の竜頭山公園に日本を見据える様に立っている。


 泗川の戦い

 慶長の役(1597)が始まり、義弘は家中の非協力の中、少ない人数で渡海し各地を転戦した。
 やがて秀吉の死により、朝鮮より撤兵するが、この時に日本中にその勇猛をとどろかせたのが、義弘が行った
泗川の戦いである。

 慶長3年(1598)9月、明の提督董一元は20万の大軍を率いて晋州城を攻め徳川江をはさみ島津軍と対峙した。
島津軍は泗川古城を放棄し、泗川新城まで退いた。 10月1日明軍の攻撃が始まり、島津軍は僅か5千ほどの
兵力で応戦した。激しい戦闘の末、ついに明軍を退却させた。
 この時明軍の戦死者は3万8717人と報告され。味方の戦死者は僅か2人という。
 この大勝利で島津氏の戦功は不動のものとなり、明・朝鮮軍では、島津氏を「石曼子(シマヅ)」と称され、その
強さを恐れられた。

日本軍の退却でもその殿(しんがり)を務め、「日本の軍勢十万余が帰陣できたのも、義弘殿の一戦の大勝利の
おかげです。」と賞賛された。
 その後、秀吉の死後禁止されていた領地の加増が、島津氏のみになされたことも、その戦功の大きさを表している。
また義弘は慶長4年高野山に日本と朝鮮・明両軍の戦没者慰霊碑を建てて、その霊を供養している。


 庄内の乱

 島津忠恒は伏見の屋敷で重臣の伊集院幸侃を惨殺した。幸侃は島津家の家臣でありながら、秀吉の九州征伐後
豊臣政権と親密になり家中での発言力を増しつつあった。

 子の伊集院忠真は庄内(都城)に立てこもった。義弘は娘を忠真に嫁がせている関係もあり、その説得に努めた。
 この乱も1年ほど続いたが、家康の助成や義弘の説得によって、忠真が降伏する事によって収まった。
島津の国内は、戦乱状態に陥り、乱の鎮圧に忙殺され、長く続いた戦乱も合わさり疲弊した。


 関ヶ原の戦いへ

 慶長5年(1600)義弘は僅かな家臣を伴い、伏見の屋敷に上洛していた。その前年、五大老の上杉氏が領地に
戻ったまま上洛せず。
五奉行の石田三成が加藤清正ら七将に襲われ、領地の佐和山に蟄居するなど、世情は混乱していた。
 上杉征伐も決まり、義弘は国元に兵の増強を要請するが国内の疲弊もあり色よい返事はなかった。


 6月18日、家康は上杉討伐軍を率い伏見を出発した。その軍が下野の国小山に着く頃、石田三成は家康征伐の
挙兵をはかる準備を進めた。

 7月17日、三奉行の連署で家康への弾劾状を諸大名に発して、その軍を募った。これに応じて毛利・小早川・
宇喜多らの大名が大坂に集合し、西軍のその数は9万人ほどに及んだ。

 その頃、義弘はどちらにつくか態度を曖昧にし情勢を見ていた。家康の家臣が守る伏見城に入ることを求めたが拒否された。
このような状況の中、三成のさいさんの申し入れを受け西軍に加わることになった。

8月1日、伏見城が落城した。8月15日、義弘は伏見を出発し、大津より船行して近江佐和山に到着した。
8月17日、義弘は美濃の垂井に陣を移した。

 この時、義弘のもとには200人ほどの兵しか居なかった。さらに国元に兵の増強を要請するが、国元からの大規模な
派兵はなかった。しかし義弘を慕い6月5日に甥の島津忠久、7月28日に家老の新納旅庵らが大坂に着き、8月の伏見城
落城後の時点でも、その兵力は1000人に満たなかった。その後も義弘を慕う兵は各々に着陣し、関ヶ原の戦い直前の
9月13日には、阿多長寿院盛淳・山田有栄らが大垣に着陣し、最終的にその兵力は1500人ほどになった。

 時に島津義弘66歳。島津家の命運を賭けて、老将はこの戦いに望んだ。


 関ヶ原の戦い 前哨戦

 清洲に集まっていた東軍は、まず岐阜城を攻略した。
8月22日、関ヶ原と大垣の中間地点の垂井に陣をしいていた
義弘は、三成からの要請で墨俣に兵を進めた。
ここは大垣城の東、揖斐川を渡り、清洲と大垣を結ぶ美濃路
街道の長良川の川渡し宿である。

 三成は小西行長らと大垣城を出て、城の北東呂久川(揖斐
川の支流)下流の澤渡村に出た。また家臣の舞兵庫を石田の
兵を関ヶ原と岐阜を結ぶ中山道の合渡川(長良川の支流)の
渡しに配置して東軍の西進に備えた。

 8月23日岐阜城の攻略で戦功の無かった黒田長政・田中
吉政・藤堂高虎らは大垣城へ進むべく中山道を西に進み、
合渡川(河渡川)において石田の兵を撃破して侵攻した。

 朝より島津・小西を陣に招き、戦略を議論していた三成は
合渡川の敗戦の報告を聞き、大きく狼狽した。

 この時、義弘は墨俣に陣を張る豊久ら島津の兵を退却させ
てから退却するべきだと主張したが、取り入れられなかった。

 義弘の家臣の新納弥太右衛門・川上久右衛門らが三成の
馬のくつわを押さえて、
「惟新主従を死地に陥れひとり退くのは卑怯ではないか。」
と罵ったが、三成は対応策を議論することなく、
すぐさま大垣城に退却した。

大垣城

 自らの兵を墨俣に出していた義弘は孤立していた豊久をはじめ島津兵に撤退の命令を出す一方、その間、呂久川の堤の
上に手持ちの兵を並ばせて東軍に対した。しかし東軍からの攻撃は無く義弘は大垣へ戻り、大垣城の北の楽田に陣を敷いた。
この夜半に東軍の先発隊は呂久川を渡り、大垣城の北北西の赤坂に進み陣を張った。

 23日に大垣に着ついた宇喜多秀家は、赤坂に着いた東軍は本日の戦いで疲れているので、夜襲をもってこれを攻撃する
べきだとして三成にせまった。義弘もこれを良しとして参加を申し出たが、三成はこの案を退けた。
島津軍は度重なる冷遇と軍議での意見の違いなどで、不信がつのり西軍の一員としての戦意を失っていく。

9月13日、楽田の陣に阿多長寿院盛淳・山田有栄・伊勢貞成らが兵を70人ほど引き連れて着陣した。すぐさまその中の2人が
陣の北の曽根城に奇襲をかけた。兵力は少なかったが、義弘を慕い国元より三々五々集まった島津軍の団結は固かった。
 家康が清洲から岐阜経由で赤坂へ向かう途中、北方のあたりで
島津隊の偵察隊と遭遇し鉄砲の一斉射撃を受け、危うい場面が
あったと伝えられる。

9月14日昼頃、家康が赤坂に到着する。
西軍は杭瀬川の戦いで小戦を勝利し大垣城での攻防戦を準備して
いた。

義弘は再度赤坂への夜襲を提案するが三成に退けられた。

 東軍が赤阪から西に向かい大坂に向かうとの情報を入手した
三成は夜半から大垣城の諸隊を関ヶ原へ移動させた。

雨の中、大垣城を出た西軍は美濃路・中山道を進まず、西に
位置する南宮山の南麓へ迂回し、牧田を通り、伊勢路から
関ヶ原に向かった。

 島津隊は9月15日午前4時ごろに関ヶ原に着き、北陸へと
向かう北国街道を石田隊と挟むように小池の地に陣を張った。

関ヶ原町小池の島津義弘の陣跡

後ろに見えるのが宇喜多、小西らが陣を張った天満山

 関ヶ原の戦い

 9月15日午前8時ごろ、朝もやの中、戦闘は始まった。
東軍の攻撃は、笹尾山の石田隊と宇喜多・小西隊に集中した。
島津隊はその真中に位置したが、その朝鮮の戦い以来の強悍
ゆえ、容易に攻め込まれなかった。

 島津隊は兵を分け、前方に島津豊久その右に山田有栄、後方
に島津義弘という配置で、矢のような陣形を取り、攻め込む東軍
には鉄砲の一斉射撃で追い払ったが、積極的に攻撃には参加
せず、防戦に終始した。

 三成の家臣が東軍への攻撃を二度にわたり要請したが
取り合わず、戦いを傍観した。
 また、石田三成が自ら島津豊久の陣へ攻撃参加の督促に
来たが、「本日の合戦はめいめいに戦いたい。」として取り合わ
なかった。

 しかし両軍入り乱れての混戦の中、数度と東軍を押し戻したが
敵との間合いは徐々に狭まり、乱戦となって島津の兵力は減少
していった。

 昼過ぎには、小早川秀秋らが東軍に寝返り攻撃を始めた為、
西軍は総崩れになり、敗走を始めた。西軍の敗走兵が自陣に
逃げ込むのを防ぎながら東軍に防戦したが、戦いの勝敗はほぼ
東軍の勝利に決するなか、逃げず留まった島津隊は戦場に孤立
し取り残された。
 
 島津の退き口

 西軍の敗走が続く中、陣を構えているのは島津隊のみであった。後ろには西軍の敗走兵とそれを追う東軍の兵が満ち溢れていた。
 数百メートル前方に家康の本陣が移動していたので、義弘はここに最後の戦いを挑むことを考えた。
 しかし、義弘を思い島津家の将来をうれう豊久や盛淳の戦場離脱のすすめがあり、これに応じて退却することに決めた。

  その方法は後ろに引かず前方の東軍の中を敵中突破で突抜け、南宮山と松尾山の間、前日来た道を南に抜けるという。
 前に退くという方法は前代未聞であり、その島津隊の勇敢さをしてこの退却戦を「島津の退き口」と称された。

午後2時ごろ、東軍の勝利がもはや決まろうとしていた、
戦闘も小康状態になった。

 生き残った兵をまとめた島津隊はこれを4隊に分け、鋒矢(ほうし)
の陣形をとり豊久を先頭に穿ち抜けして東南に進み始めた。
鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され、東軍についた
部将と兵は唖然として見送った。

 猛将と言われた福島正則でさえ手を出さず、子の正之も家臣が
「死に狂いする敵に戦はせぬもの」と言い押しとどめられた。

 譜代の家臣たちがその前面を固めていた家康の本陣の前方を
駆けぬけた島津隊は関ヶ原の戦場を脱し、山間の牧田方面へ
向かった

 東軍参加の諸将は見送ったが、家康の家臣本多忠勝・井伊
直政や子の松平忠吉らが島津隊を追撃した。


烏頭坂(うとうざか)
ここで島津豊久と家臣が殿戦を行い、義弘らを退進させた。
ここは前夜、大垣城から退き決戦地関ヶ原へ向かった道で
もある。
 烏頭坂での殿戦

 関ヶ原の戦場を一文字に脱した島津隊は山間の間道「烏頭坂」に
たどり着いた。ここまでたどり着いた島津隊は200人あまり。
 ここでそれまで先鋒であった豊久の隊は最後尾に回りこみ、
追撃してくる東軍を迎え撃ち、殿(しんがり)として戦った。
島津豊久は島津惟新を名乗り追撃を引き付け、先を行く島津隊を
進めた。
豊久は本多忠勝の兵に囲まれ、四方八方から槍で突き上げられる
うちに義弘の身代わりとして着ていた猩々緋の陣羽織は散々に
飛び散った。
豊久に従った13人の部将もことごとく討ち死にしたといわれる。

豊久については、ここで亡くなった説や重傷を負いながら烏頭坂を
脱出した説など諸説がある。

正面の木立の向こうが牧田上野地区。
遠くに養老山地が見える。



島津豊久のものと伝えられる鎧

 江戸時代の中期に家中の者が江戸の道具屋で
偶然に見つけ、買い上げて島津家に収めた。

 胴丸に残るいくつもの槍傷の痕が、戦闘の激しさを
生々しく伝えている。

 恐らく戦闘の後、里人による武具集めで拾われて、
古道具屋に売られ、流転して江戸に至ったものと思われる。

烏頭坂 島津豊久の碑


 阿多長寿院盛淳の殿戦

 烏頭坂を越えて牧田上野の集落に達してもさらに東軍の追撃は
激しかった。
追撃の先鋒の井伊直政と松平忠吉らの軍勢が島津隊に迫った。

 義弘はもはやこれまでと覚悟を決めて敵に斬れ込もうとするが、
阿多長寿院盛淳が押し止めた。
盛淳は「一軍の大将たる人が簡単に命を捨ててはいけません。
天命があるまで生き長らえ、千人が一人になっても、
今日この戦場から脱出してください。私が身代わりになります。」
と言って僅かな兵を引き連れ
「われこそ島津兵庫入道惟新なっるぞ」と叫びながら
敵中に突進して討ち死にした。

さらに殿戦は激しさを増し、捨てかまりの戦法によって追撃隊の将、
井伊直政と松平忠吉は島津兵の鉄砲で狙撃され負傷した。

 後の宝暦治水工事の時、薩摩藩士は再びこの地にやって来た。
この戦いに参加した島津の子孫たちは、工事の合間に小さな
石造りの五輪塔を作り、先祖の供養したと伝えられている。



阿多長寿院盛淳の墓横の五輪塔



琳光寺にある阿多長寿院盛淳の墓


 島津豊久の墓

 牧田上野の集落より南に10キロほど、伊勢街道をたどり
勝地峠を越えて山間の道を進んだ所に上多良
樫原の集落がある。
ここに瑠璃光寺という寺があり、島津豊久の位牌が奉られ、
その近くのカンリン藪(高取)と呼ばれている所に
豊久の墓がある。

 村の伝承によると、烏頭坂の激戦で重傷を負った豊久の
一行は井伊直政・松平忠吉・小早川らの追い迫る敵より
逃れて伊勢街道の勝地峠にたどり着く。
ここで待ち伏せ戦術をとって敵を退かせた。

残兵たちは瀕死の豊久を介護しながら街道を南下して、
上多良の白拍子の谷に隠れた。そしてさらに名及から
樫原の地に逃れてきたところ、瑠璃光寺の僧や名主の
三輪内助入道一斉などがこれをかくまい傷の手当てをした。

 しかし、豊久の傷は重く、足手まといになることを憂慮して、
かくまわれていた農家で自刃したと伝えられる。
瑠璃光寺の裏手の森には島津塚と呼ばれる豊久の墓がある。

 また言い伝えでは島津家は参勤交代の途中に寺へ使者を
送ってその礼を謝して、祭祀料も欠かさなかったといわれている。
(「上石津 道をたずねて」より)

島津豊久の墓





地元に伝わる古文書

         




カンリン藪・高取


 その後の脱出ルート

 島津隊の近江の国、水口へ至る撤退路については諸説がある。
大きく分けると三つのルートがある。 また追っ手を惑わすため、いくつかの隊に分けて逃げ延びた可能性もある。
 豊久の隊及び殿戦で生き残った兵は勝地峠を越え、さらに霊山山地を越えて近江水口へ走った。
義弘の隊は昨夜大垣城からの転進した道筋を走り、南宮山の東麓に布陣していた長束正家に陣払いを伝える使者を出した。
正家は近江国水口城主で、家臣数名を付け道案内させた。さらに南に走ると東軍についている高須城があり
それを避けて養老山地の南麓駒野峠を越え、伊勢の国に入り関ヶ原と伊勢を結ぶ街道に出た。
さらに時村で他の隊と合流し、霊山山地を越えて東軍の進む中仙道を避けながら近江水口へ向かったといわれる。
後に島津越えと呼ばれるこのルートでは小林新六郎や甲賀衆を道案内としてしている。
また駒野峠を越えてから南下して後の東海道沿いに伊勢の関や鈴鹿峠を通り水口に至ったという説もある。
 どのルートも水口に立ち寄っているので、バラバラに逃げても、ここで合流することが伝えられていたのだろうか。
信楽では数百人の落人狩りに囲まれたが家臣が義弘を守り切り抜けた。
 いずれにしても義弘は無事に堺まで逃げ切り、大阪城に人質になっていた夫人と忠恒の夫人を救い出して、
船行して日向、薩摩の地へたどり着いた。
この時、義弘に従う者は80人ほどであったと言われる。しかし三々五々帰着した者もおり数は定かではない。
 義弘は従ってきた兵に感状と少ないながら禄を与えている。

 所領安堵

 西軍参加の主要な大名のうち所領を守りきったのは島津のみである。
義弘が大坂の人質を救い無事に帰還した後、島津は国境を固めながら、義久・忠恒らの数年に渡る粘り強い交渉の末
その所領が安堵された。また家康は島津へ他の大名へは見られない寛大な処置を行っている。
 これらは朝鮮出兵のおりの島津の活躍と、関ヶ原での大軍をも恐れぬ撤退戦が大きな影響を与えていると思う。
関ヶ原で西軍大名や三成を討ち、豊臣秀頼の大阪城に圧力を加えるも、まだ世情は混沌としていた。
秀吉の島津征伐の折には日本中の大名が動員されたが、島津は防ぎきった。
天下を手中に収めたい家康は島津への懐柔の道を選んだ。

 その後

 所領安堵の後、薩摩藩は参勤交代の道筋として中仙道を使い、近江や美濃の地を通っている。
後に、近江高宮では薩摩藩の御用人の問い合わせに対して、島津の撤退の様子を地元の役人が調べて答えている。
 島津の撤退については、参加した家臣達が各々覚書を残しているが、途中からはぐれたり、すさまじい殿戦の中
事の前後がはっきりしなかったりする。

 島津の存亡をかけた美濃での関ヶ原の戦いは、その後、薩摩藩の人々に語り継がれた。
さらに宝暦4年(1754)2月5日、薩摩藩は再び藩の存亡をかけ、御手伝い普請の為、美濃の地にやってきたのである。



島津義弘についてはいろいろな本に書かれていますが、最近読んでとても
面白かった物を紹介します。是非読んでみて下さい。 
島津義弘の賭け山本 博文読売新聞社ISBN-643-97074-X C0021
島津奔る  上池宮彰一郎新潮社ISBN4-10-387205-5 C0093
島津奔る  下池宮彰一郎新潮社ISBN4-10-387206-3 C0093
島津義弘のすべて三木 靖 編新人物往来社ISBN4-404-01356-6 C0021
関ヶ原島津血戦記立石 定夫新人物往来社ISBN4-404-01238-1 C0021
チェスト関ヶ原
 島津義弘と薩摩精神
西田 実春苑堂書店
島津義弘加野 厚志PHP文庫
惟新公関原合戦記北川 鉄三人物往来社島津史料集
惟新公御自記北川 鉄三人物往来社島津史料集