清洲に集まっていた東軍は、まず岐阜城を攻略した。8月22日、関ヶ原と大垣の中間地点の垂井に陣をしいていた義弘は、三成からの要請で
墨俣に兵を進めた。 ここは大垣城の東、揖斐川を渡り、清洲と大垣を結ぶ美濃路街道の長良川の川渡し宿である。

 三成は小西行長らと大垣城を出て、城の北東呂久川(揖斐川の支流)下流の澤渡村に出た。また家臣の舞兵庫を石田の兵を関ヶ原と岐阜を結ぶ
中山道の合渡川(長良川の支流)の渡しに配置して東軍の西進に備えた。

 8月23日岐阜城の攻略で戦功の無かった黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らは大垣城へ進むべく中山道を西に進み、合渡川において石田の兵を
撃破して侵攻した。その朝より島津・小西を陣に招き、戦略を議論していた三成は、その敗戦の報告を聞き、大きく狼狽した。

 この時、義弘は墨俣に陣を張る豊久ら島津の兵を退却させてから退却するべきだと主張したが、取り入れられなかった。

 義弘の家臣の新納弥太右衛門・川上久右衛門らが三成の馬のくつわを押さえて、
「惟新主従を死地に陥れひとり退くのは卑怯ではないか。」と罵ったが、
三成は対応策を議論することなく、すぐさま大垣城に退却した。

 自らの兵を墨俣に出していた義弘は孤立していた豊久をはじめ島津兵に撤退の命令を出す一方、その間、呂久川の堤の上に手持ちの兵を並ばせて
東軍に対した。しかし東軍からの攻撃は無く義弘は大垣へ戻り、大垣城の北の楽田に陣を敷いた。
この夜半に東軍の先発隊は呂久川を渡り、大垣城の北北西の赤坂に進み陣を張った。
 23日に大垣に着ついた宇喜多秀家は、赤坂に着いた東軍は本日の戦いで疲れているので、夜襲をもってこれを攻撃する
べきだとして三成にせまった。義弘もこれを良しとして参加を申し出たが、三成はこの案を退けた。

島津軍は度重なる冷遇と軍議での意見の違いなどで、不信がつのり西軍の一員としての戦意を失っていく。

 9月13日、楽田の陣に阿多長寿院盛淳・山田有栄・伊勢貞成らが兵を70人ほど引き連れて着陣した。すぐさまその中の2人が
陣の北の曽根城に奇襲をかけた。兵力は少なかったが、義弘を慕い国元より三々五々集まった島津軍の団結は固かった。