更新記録


2001年の更新記録
2002年の更新記録
2003年の更新記録

菜の花の沖
2008年04月13日 (日)
今年初めての更新です。
なかなか更新ができずすみません。

短文ですみませんが、目の保養にどうぞ。
写真を送っていただきましたT様ありがとうございました。

菜の花の沖





小樽函館旅行
2007年12月23日(日)
 前回の更新から半年たちました。

 先日はじめて小樽と函館へ行ってきました。
 今回の旅行の目的は観光で、同行した友人がまったく歴史に興味がなかったので、別行動の時間を作り、一人で碧血碑、弁天台場あと付近を訪れました。
 そのときの写真を掲載しましたので、ご覧ください。
 
 旅行記

 もう年末となってしまいましたが、サイトを訪れていただいた皆様、ありがとうございました。
 来年はもっと更新の回数を増やすことができるようにと思っています。
 よい新年をお迎えください。










07/06/17(日)
 随分久しぶりの更新です。

 先日、仕事で知り合ったMさんと雑談をしていたところ、名前の話になり、Mさんは旧姓が岩瀬という名前で、先祖はもともと三河の出で、何代か前に尾張へ来られたということでした。そのことを聞いたとき、ふと、三河ということで、新城の岩瀬さんを思い浮かべ、もしかすると・・・といろいろ伺うと、確かに先祖は江戸時代に旗本として江戸で暮らしていたのですが、明治になってから三河に移られたそうです。
 また、幼いころ明治生まれのひいおじいさんから、先祖の話をいろいろと聞かされたそうですが、詳細はほとんど覚えていないとのことでした。ただ、「しょうへいこう」や「あんせいのたいごく」という言葉は学校で習う前に記憶にあったので、きっとおじいさんから聞かされていたのだと思う、とのことでした。

 残念なことに、岩瀬忠震についてはご存知ではなく、忠震の岩瀬家との関係は不明ですが、このサイトにある岩瀬さんのお墓の写真の家紋を見られて、多分同じだと思うとのことで、近い家系の方だと思いました。

 Mさんは、独身の頃、スキューバーダイビングが趣味で、世界中の海を潜っていたそうで、まだ経験していない海はもう数えるほどしかないということです。アメリカ留学を心待ちにしながら、安政の大獄で失脚してそのまま亡くなってしまった岩瀬さんの生涯を思うと、とても感慨深く思いました。
 奇しくも、その話をMさんとしたのが、六月十一日で、岩瀬忠震さんの旧暦の命日と同じ日でした。
 
 不思議な縁は以前にもあり、私がこのサイトを始めるかなり前からネットで知り合いだった方が、実は、永井家の遠祖である長田家の家系につながる方だということを、このサイトを始めたときに打ち明けられ、永井家についていろいろと教えて頂いたことがありました。なかなか永井さんについて知る人がいない中、身近によく知る方がいたことに驚いたことと、縁の不思議を感じました。
 



 私がサイトを持っていることを人に打ち明けると、どうして興味を持ったんですか?と聞かれることがあります。
 私が永井さんの存在を知ったのは、地元の加納町史という本に、加納藩永井家の家臣である奥谷さんが、永井さんの家臣として借り出されたときの手記が現代語に訳されて掲載されていて、それを読んだことがきっかけです。名前はあまり知られていないですが、幕末期全般にわたり第一線で活躍された経歴や人柄にとても興味が沸きましたが、サイトを開いてから七年たった今は、一人の一生として惹かれるものがあります。




 仕事に生きる人は往々にして私生活に恵まれていないということはありますが、永井さんの人生も華々しい仕事とは裏腹に、私生活はあまり恵まれていなかったように思います。生まれは藩主の子息であったのですが両親が生まれてすぐになくなったため、部屋住みの身となり、二十代で加納藩永井家の親戚にあたる旗本の永井家に養子に入りますが奥様がすぐに亡なってしまい、後添えを迎えます。
 その後学術に長けていることから頭角をあらわし、甲府の学校の学頭となり、その後出世を重ね、長崎へ目付けとして赴任し、その後江戸に戻ってからは開国に向けて外国との交渉にあたりますが、安政の大獄で失脚し、蟄居の身となります。その後、やっと謹慎が解け、公務に復帰しますが、着いた仕事は政情不安が続く京の町奉行という重責でした。激務の町奉行に就任してから、一年後、まだ十代だった一人息子を亡くしています。江戸から遠く離れているためか、京にもお墓をたて、その墓には遺髪がおさめられたそうです。
 その後京都から江戸、そして蝦夷へ、そしてまた、江戸の牢獄生活を経て、やっと普通の生活に戻れたのは八年後のことで、もう五十六歳となっていました。 この激動の時期、彼は、四十代後半から五十代半ばで、当時としては、もう老齢に入る年代でした。
 その後は明治政府に出仕しますが、六十一歳で免官してから、向島の岐雲園にて隠居します。この岐雲園はかつて岩瀬忠震が住んだ屋敷でした。晩年の永井さんは、広大な屋敷を維持するため、かなり金銭的に苦労をしたようです。
 永井さんは隠棲してから十五年後七十六歳で亡くなりました。
 奥様はその三年後に亡くなりましたが、永井さんのお墓は、中央に永井さんの戒名が刻まれ、その両脇には二人の奥様の戒名が少し小さい字で刻まれています。
 前述の奥谷さんの手記に、二度ほど奥様の話がでてきますが、京の屋敷に、一度だけ、奥様と、養子の岩之丞が尋ねてきて、永井さんがうれしそうに屋敷を案内したという話があります。

 




















2004年の更新
永井尚志と新選組
04/09/20 (日)
 今年は大河ドラマが新選組!ということで、永井さんもいよいよ来週登場します。この永井さんと新選組の関係はとても深かったようです。
 そこで、永井さんと関わりがあり、かつ新選組とも深く関わった人物をここで列挙してみようと思います。
 
 京都東町奉行所同心山田豹三郎
 浪士組が上洛した当時、永井は京都東町奉行の要職にありました。浪士が上洛した当日のことを記した沖田林太郎の留書には以下のようにあります。
 
 御池西へ入東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候、
二月二十三日

 江戸から上洛した浪士たちにたいし、京都に滞在中何か不自由なことがあれば東町奉行所の同心山田豹三郎に頼めば対処してくれるというお達しがあったという内容です。
 ここに出てくる同心の山田の父省三郎は、時期ははっきりしませんが、おそらくこの少し前に自刃して亡くなっています。
 前年の文久二年、安政の大獄で処分された者が次々と赦免されるなか、大獄で捕縛にあたった京都町奉行所の与力数名は報復を恐れ江戸へ召し返しとなりましたが、江州石部の宿で惨殺されました。かつてらつわんをふるった役人たちは、今度はいつか自分が襲われるものと恐れ、何人かが自ら命を絶ったのでした。
 山田省三郎も安政の大獄で捕縛にあたり活躍したものと思われます。
 
 会津藩主松平容保
 当時の町奉行所の役人が役に立たないということは、当時京都守護職であった松平容保の会津藩史料に書かれています。町奉行所の役人が機能不全であったため、京都守護職の重要性が一層増したということは忘れてはいけない事実です。
 その京都守護職に会津藩主松平容保が就任する直前の文久二年の出来事が以下となります。

八月 七日 永井水主正、再嫡子、京都町奉行に任命される。 再夢紀事
八日 松平春嶽、松平容保を訪ね京都守護職就任を説諭する。 再夢紀事
十日 幕府評議の上、永井主水正が会津重役と会談することが決定。
その晩、松平春嶽、永井、鈴木主税の三者会談により、未決の三条であった、浪士の件、御上洛の件、所司代の件を決定させた。
十三日 会津藩の希望により、京都所司代、牧野備前守に決る。
閏八月 一日 会津藩主松平容保、京都守護職に任命される。

 上記の記事から京都守護職決定について、永井が関わっていたことがわかります。
 上洛後はともに京都の治安維持に尽力していました。

 勝海舟
 勝海舟は長崎海軍伝習所の一期生で、永井は当時所長を務めていて、勝海舟らの要望にもよく耳を貸し、伝習生のために尽力しました。その頃から永井が死去するまで浅からず交流が続き、葬儀においては祭文を読んでいます。

 松本良順
 松本良順は勝海舟より遅れて医学伝習生となりましたが、この医学伝習は当初まったく予定されていないもので、良順自身が、当時江戸において伝習生の人選を行っていた永井へ直接頼み込み実現したことでした。
 良順はその自伝に、次のように書いています。
思うに西洋医方の我が国に入りしは、永井玄蕃、岡部駿河守等与りて力ありと云うべし。

 後藤象二郎
 慶応三年、近藤勇は永井から土佐の後藤を紹介されています。
 永井と後藤が知り合ったきっかけは、年のはじめ九州へ出張に行った際、行きは幕府の船でしたが、帰りの船がなく、丁度長崎にきていた後藤の船に乗船することを依頼して無事京に帰ったことからでした。
 後藤は近藤をあまり快く思わなかったように一般には思われていますが、彼の遺品の中には西郷や勝海舟坂本龍馬らの書簡と同じく、近藤からの書簡も大切に保管されていたそうです。

 水野弥三郎(弥太郎)
 水野は美濃岐阜の出身ですが、祖父の代まで西本願寺の典医をしていた関係で、水野家は京に多くの知人がいました。
 幼いころから義侠心にあつく、武芸に熱心だったため、家業の医者を継ぐべく大垣藩へ修行に行かされたものの、医には興味を示さずすぐに岐阜に返されてしまいました。
 その後は家が裕福だったため正業につくことなく、武芸に熱心で、その人望からか彼のもとには人が多く集まり、いつのまにか侠客と言われようになりました。子分たちのため道場を開くまでになったものの、お上から叱責を受け道場を閉鎖するという一件もありましたが、幕末にはその名を京の知人たちが知ることとなり、公卿たちから積極的に水野と交流を持つこととなったといいます。
 その関係からか、幕末には京に滞在することとなりました。
 後の話ですが、慶応四年二月、彼が綾小路率いる赤報隊に加わり中仙道を東下する途中、加納にさしかかったとき、ちょうど永井の奥方も京から逃れ加納に到着していました。
 そのことを知った綾小路らは朝敵である永井の家族を差し出すよう要求しましたが、水野が「京都で町奉行の(永井)玄蕃頭に助けられたことがあり、そのご恩返しにご家族を御世話申しあげたい」と申し出て事が収まったという事件がありました。
 町奉行のころ永井と知り合った水野は新選組の御用達となり、のちに、伊東派に与し、赤報隊に参加することとなりました。
 現在の愛知県内で赤報隊が解散したあと、水野は大垣藩から呼び出されます。出向いたところを捕らえられ牢に入れられてしまい、刑死を恐れたのか水野は自殺をしました。そのとき、藩家老の小原は彼の免罪を晴らしたいものがあれば自分も心配したいと部下に手紙を書きました。しかし、なぜか直後に水野のことでは事を起こさないようにと警告の手紙を送っているそうです。
 水野の死に関しては毒殺ではないかという説もあります。