裏千家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
03/12/23 (火) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本日の中日新聞朝刊「三河武士の出自」に裏千家十一世玄々斎宗室(1810〜1877)が取り上げられていました。茶道の名門に三河武士という異色の血筋ということで、興味がわき、内容を読んだところ、この方は三河奥殿第七代藩主松平乗友の第五子とありました。 永井さんは、第八代藩主乗尹の二男です。第九代藩主となったのは、乗友の子乗曹ナ玄々斎は実弟であり、永井さんとは、従兄弟の関係となります。
玄々斎宗室は父乗友が藩主を退いた20年後に生まれ、19歳離れた実兄で尾張藩家老渡辺規綱のもとで育てられ、九才のとき裏千家に養子に入った。 「明朗闊達な性格で、万事にわかりやすさを旨としたと伝えられる」 茶道の近代化に貢献し、立礼式いす点前を考え出したのはこの玄々斎だそうです。 政治と茶道と世界は違いますが、それぞれの道で近代化に貢献した二人にはいろいろ共通点が多いようです。
ところで、もう年の瀬ですね。 ホームページに来てくださったみなさん、ありがとうございました。 よい新年をお迎えください。 |
榎本武揚未公開書簡集 |
03/09/28 (日) |
最近読んだ「榎本武明未公開書簡集」新人物往来社 に、永井さんの名がたびたび登場しました。 そのなかから二つ紹介します。 明治3年10月16日付 武揚から友人諸氏へあてた手紙より 永井翁の钁鑠(かくしゃく)には驚き入り申し候 まだ脱走軍として獄中にあったころの手紙です。当時永井さんは57歳で、脱走軍幹部は三十代が中心のなか飛びぬけて高齢だったのですが、英語の勉強をしたり、榎本から化学の講義を受けたりと勉強熱心でした。 また、獄中と外問わず、高齢の永井さんの体を案じた人は多かったのかもしれませんが、心配の必要もなく、長く獄中にあったにもかかわらずかくしゃくとしてお元気だったようです。 明治5年1月2日 武揚から観月へ 今年こそまことに快よく春をむかへ申し且つ又麦酒御恵投下され只今晩飯にたっぷり相用い誠にうきうきしたし申し候 永井老人は極々酒ずきに付尚更大よろこびにて頂戴仕り候 大晦日の新聞を元旦に読んだ榎本らは、出獄が決まったことを知りました。その祝いのビールの差し入れがあり、酒ずきの永井さんは大変喜んだということを伝えています。 永井さんが酒ずきとは、初めて知りました。また、日本酒でもワインでもなく、ビールというのが意外な驚きです。ビールは幕末に一部の知識人に知られるようになり、明治三年には居留地の外国人向けに生産されるようになったそうですが、輸入ものでも国内産でもなかなか手に入るものではなかったと思います。だれの差し入れで、どんな味だったのか興味がわきます。 |
大政返上の起草文 |
03/03/23 (日) |
炎の陽明学 山田方谷伝 (矢吹邦彦 著 明徳出版社)によると、備中松山藩主板倉勝静に抜擢登用され、藩政の改革をした山田方谷が、大政奉還の起草文を草案したということです。これは、著者矢吹氏の先祖が山田方谷の弟子で、当時交わした書簡が近年解読され判ったことだそうです。板倉は慶応三年の大政奉還当時、永井とともに慶喜にたいし大政の返上を勧めたということはよく知られています。 永井が起草文を作ったという話は、「大給亀崖公伝」(「伝記 永井玄蕃頭尚志」より また同書には「大政奉還文下書」(永井家文書)も掲載されています) に書かれていますが、当時板倉とともに永井がかかわっていたため、漢文など書にも造詣が深い永井が起草したのだろうと憶測されたのでしょうか。 当時、山田は松山に帰っていました。そのもとに板倉から大政を返上する旨の書が急飛脚により届きます。そして急ぎ認めた起草文は十四日に慶喜の上奏文として一部内容を改められ天皇に提出されたのでした。 昨年末から忙しさとパソコンの故障が重なり更新が滞ってしまいました。 |