2002更新記録

近況
02/11/10 (日)
 最近更新が滞ってますが、近々、松平春嶽のページを作りたいと思っています。春嶽関係の史料は豊富にあるのですが、かえって、史料を読むことに時間がかかり、なにをどう取り上げれば良いのか迷ってしまい、ページにすることができていません。
 もう少し自分の中で理解し整理できないとページにはできそうにありませんので、更新はしばらく滞るかもしれませんが、今月中には形にしたいと思っています。
 以前から福井を訪れたいと思っていましたが、今回いざ行こうと思い立ち下調べをしたら、歴史博物館と県立図書館は現在新館への移転作業と重なり、休館中でした。行きたいと思ったときに行けないのはつらいですが、新館オープンを待ち、是非訪れてみたいと思ってます。 
 相関図を見るとその一端が分かるんですが、春嶽の人脈はすごいです。この人を介して、幕末の重要人物が親交を持ったりしてるんですよね。当然、重要事件にも多く関わっています。幕末影の主役といえるかもしれません。
人物覚書 相関図
02/10/14 (月)
 ここ二週間更新記録を書いてませんが、人物覚書は少しずつ更新しています。
 今日はあらたに相関図のページを追加しました。
 これを見ていただくと、松平春嶽、島津斉彬、山内容堂が縁戚関係となることがわかります。

人物覚書
02/09/23 (月)
 先週に引き続き人物覚書です。斉彬を重点的に更新しました。
人物覚書
02/09/16 (月)
 ここ三ヶ月ほど、この年(3?歳)になってからようやく自動車学校に行くことを決意しまして、夜と休日を利用して通っていたため、ページ更新が滞っていました。先週ようやく免許もとれたので、更新再開です。教習中、たまたま仮免と卒業検定のみきわめをいただいた先生が同じ方で、奇しくも永井さんと同じ名前だったんですが、ページ更新が滞っていても、忘れるなということなのかと勝手に納得した次第です。しかし、名前をどう読むのかとうとう聞けず終いで、ついに謎です。(あまり優秀な生徒ではなかったので、そんな事を聞ける雰囲気じゃありませんでした・・・苦笑)
 
 今週アップした人物覚書は未完成なので、二週ほどかけて充実させたいと思ってます。
 
安政の大獄
02/07/07 (日)
 安政の大獄時、京都町奉行所与力として活躍した加納繁三郎は、文久二年八月三日に江戸にて富士見御宝蔵番を仰せ付けられています。
 前月七月には、島田左近が田中新兵衛らに暗殺される事件が起こり、大獄に加担した幕吏らも身の危険を強く感じているなか、加納は他の幕吏より一足先に江戸に召し返されていたのでした。
 翌月閏八月二十九日、目明しの文吉が岡田以蔵らに絞殺され三条川原に晒される事件が起こっています。
 加納より遅れること二ヶ月あまり後の九月二十三日、京都町奉行所与力森孫六、大河原十蔵、渡辺金三郎、上田助之丞らは幕府による配慮で召し返しにより密かに江戸へ向かうこととなり、夜、京を発ちました。しかし、この情報は長州、土佐、薩摩の藩士らに知られ、江州石部(滋賀県甲賀郡)の宿にて襲撃を受け斬殺され、京都粟田口刑場にて晒し首となりました。
 襲撃当夜、石部には下総関宿藩主、久世大和守一行も泊まっていて、大変な混雑だったそうです。そのため、四人はそれぞれ少数の家来とともに分宿していたところを、暗殺団たちもそれぞれ目的の人物を追い、四つの宿をおそらく一斉に襲撃したと思われます。暗殺者たちの執念や怨を感じずにはいられません。
 一方、一足早く江戸に召し返されていた加納繁三郎は、その年十二月二日に、前職京都町奉行所与力当時の職務譴責により、富士見御宝蔵番を召し放ちの上切米五十俵召し上げられ、御目見以下、小普請入りと、甲府勝手、押込を仰せ付けられています。
 
安政の大獄
02/06/30 (日)
 維新暗殺秘録 平尾道雄 新人物往来社 をもとにして過激浪士による暗殺事件を年表に加えました。
 これを見ると文久二年は暗殺の嵐だったということがわかりますが、ほとんどが京都かその近郊で起こっています。当時、京都へ向かった幕府官吏の心中は、さぞかし生死の覚悟なしには赴くことができなかったのではないかと察します。
 しかし、どうして文久二年に集中しているのかが不思議ですが、当時は幕府や諸藩でも大獄に関係した藩主や家臣、幕吏に対する処分が行われており、天誅は意義のあることだと浪士に思わせる空気があり、それに後押しされたことも要因の一つではないかと思います。また、当時は公武合体の気運が高まりつつあったことから、それを阻止しようとする、反幕府派の勢力が暗殺を企てるケースもみられます。
安政の大獄
02/06/16 (日)
 安政の大獄関係の話を読むのは、体調が悪いときにはつらいですね。
 ところで、「史籍雑纂」という史料本には、長州の幕末時の手記が収録されているのですが、それによると文久二年、中島三郎助は上洛して、朝廷に対し、鎖国攘夷の非を説得しようとしていたと思われるのですが、結局中止となってしまったようです。
 当時長州藩内で中島三郎助の名が知られていたことがわかりますね。これは意外に思いますが、長州と中島三郎助の縁は結構深く、吉田松陰が密航事件を起こす前に、米国との交渉経験のある中島親子に面会しており、また桂小五郎は吉田から中島のことを知り、造船に関する知識を学ぶため一時弟子入りしていたことがあります。また、明治後、桂小五郎は中島の遺児を引き取り養育した時期がありました。
 意外な組み合わせといえば、老中筆頭阿部正弘の頃、彼は水戸斉昭、薩摩斉彬、土佐容堂、越前慶永らと親交があり、当時の状況から幕府瓦解を想像することはとてもできません。
 
安政の大獄
02/06/09 (日)
 多忙と風邪が重なり、しばらく更新が滞ってしまいました。
 今後もしばらく安政の大獄関係を追っていくつもりです。
 大獄で粛清された側が赦免となり復活すると同時に、当時逮捕に関係した人物が一転して裁かれる側になり、長野主膳、宇津木は死罪。京都町奉行所与力だった加納繁三郎は、富士見御宝蔵番の役職を召し放たれています。また、井伊派の公卿九条の家士だった島田左近は惨殺されています。
 手のひらをかえすように政局が変わってしまったその要因は、やはり井伊直弼が暗殺されたからだと思いますが、井伊直弼の存在の有無によりこれだけ変わってしまうということは、それだけ直弼の権限が強かったということで、大藩の門閥という強い立場が幕府を動かしていたということかもしれないと考えます。
  
阿部正弘
02/05/13 (月)
 阿部正弘は、安政四年六月十七日に亡くなっています。
 この頃の藤岡屋日記を見ると、五月八日、不快により阿部正弘が登城しなかったとあり、理由に、腹痛と水瀉(下痢)と書かれています。これ以後「登城無之」が続きます。
 六月二十二日、阿部正弘の名で妾腹の子阿部賢之助の養子願いが出され、同日老中列座のなか賢之助は阿部家の養子を仰せつけられています。
 六日後の二十八日に阿部正弘死去につき、三日間鳴り物(歌舞音曲)を停止するようにというお触れが出され、翌日には養子賢之助に香典として銀三十枚が幕府から下されています。
 十七日に亡くなっているにもかかわらず、十日後になってから死去が公となっているその訳は、その間、賢之助が養子を老中に仰せつけられてることから、藩主が亡くなるまでに嗣子として幕府に認められた者がいない場合、お家断絶となってしまうことから、しばしばとられた緊急措置だったと考えられます。
 また、五月八日に登城できなくなってから一ヶ月と十日ほどで亡くなってしまったことと養子の件から、阿部正弘の病気の進行は誰も予想できないほど早く、急死に近かったように思われます。
 ところで、この藤岡屋日記にはその日登城しなかった老中の名がたびたび書かれており、またその理由が書かれていることもたまにあることから、その情報源は幕府の内部文書のみではなく、日々親しく交際のあった幕臣から口頭で直接仕入れていたものも多かったのだろうかと想像します。現在、情報源の幕臣が誰だったのかは明らかになっていません。
忠震会総会
02/04/30 (火)
 昨日は総会に出席する予定で、帰宅してから報告をアップするつもりでしたが、急遽行けなくなってしまいました。しかし、講演をされた大島氏が、パソコンを使って紹介された内容をPDFファイルにしてHPにアップされました。早速拝見しましたが、すごい!です。
 講演のタイトルは「忠震ゆかりの地を尋ねて」で、タイトル通り、岩瀬さんに縁の深い土地が、古地図と現代の地図、現代の写真から、明治時代の写真などなど、ふんだんに使われ、わかりやすく、しかも大変詳細に紹介されています。説明がなくてもこのファイルを見るだけで、すごくよくわかります。
 当時の地図では、現代との対比のみでなく、著名人の屋敷や、墓所も同時に紹介され、また、意外な人物が登場していたりと面白い発見があります。
 なちみに、わたしはいままで岐雲園が現在のどのあたりにあたるのかがよくわかっていませんでした。いつかこのファイルの地図を頼りに訪れてみたいです。
 岩瀬氏のホームページ「岩瀬肥後守忠震」 「忠震ゆかりの地を尋ねて」のPDFファイルをダウンロードしてご覧になってください。
 
開 国
02/04/21 (日)
 彦根藩は、琵琶湖の南東に面していますが、湖の東側に敦賀から京へ向かう要路があり、途中に彦根があります。この街道沿いは北陸からの流通により商人らが潤っていました。
 その事情がありながら、幕府は湖北に運河を開き、水上運送により大量に物資を京へ運ぼうという計画を進めました。掘割が完成し、東北からの米が大量に京へ流入すれば、地元の米の相場は下がってしまうことが予想され、彦根藩にとって大きな痛手となることは必至です。
 幕府側で中心となって進めていたのが、阿部派官僚である、松平近直、川路聖謨、水野忠徳らでした。
 この計画が発覚した安政二年以降、井伊直弼は、藩の利益を損なうこの計画をつぶすための工作を京を中心にはじめます。
 なぜ阿部派の幕臣らがこの計画を進めようとしたのかといえば、井伊が大藩であることを鼻にかけ、門閥を重視したことを嫌っていたため、藩の力をそごうとしたのではないかといいます。これに対し井伊も、阿部が開国派の外様や大藩の大名らと親交をもつことに反感をもち、また、彦根藩に家格に相応しない相州の警衛を申し付けたことにたいし、遺恨を持っていたといいます。そのわだかまりが、この掘割の問題で、阿部とその派閥官僚に対する反発が増幅され、やがて阿部派諸大名による将軍継嗣工作を経て、安政の大獄へ発展してしまったとも考えられるようです。
 また、井伊の命を受け、京で安政の大獄のため町奉行所などを動かしていた長野主膳は、すでに掘割の問題から、九条関白、町奉行所の与力などとのつながりができていたのでした。


お知らせ

来週四月二十九日(月曜祝日)、午前九時より
愛知県新城市の設楽原歴史資料館にて、忠震会の総会が開かれます。
当日は大島氏による、岩瀬忠震ゆかりの地についての、スライドを交えた講演があります。また、新発見の書簡も展示されるそうですので、忠震会や岩瀬忠震に興味をお持ちの方は是非、足をお運びください。

安政の大獄
02/04/14 (日)
 先週に引き続き安政の大獄です。
 安政五年一月、三月十五日に延期された日米の条約調印までに朝廷の勅許を得るため、老中堀田、岩瀬らは京へたちました。
 なぜ幕府が朝廷の意見を求めたのか。それは、ペリー来航後、弘化三年に朝廷から幕府に対し、海防を強化するようにという沙汰が下り、それ以来朝廷を無視できなくなっていたためといいますが、天皇の了承を得ることで、幕府内外の人心を治めようとしたとも考えられそうです。
 しかし、天皇の勅許は三月十五日の期限までに下されず、井上と岩瀬は、調印の日を延ばすものの、ハリスにはこれ以上延期を請えないとして、とうとう勅許を得ないまま六月に調印します。
 この直前の四月に井伊直弼は大老に就任。その時、永井や鵜殿は反対し、老中の御用部屋へ抗議に訪れますが、聞き入れられるはずはありませんでした。
 井伊大老は、日米条約調印の翌日、朝廷に無断で調印をした責任をとらせ、堀田正睦、松平忠固を罷免。かつて阿部と敵対していた西尾藩主松平乗全らを老中に就任させます。
 実際に井伊直弼と阿部正弘はお互い反目しあっていたようです。この要因についてはまた後日。
安政の大獄
02/04/07 (日)
 先週より更新を再開しましたが、まだこのページは安政の大獄前半部分の年表しか完成しておりませんので、来週も引き続き更新します。
 相関図の方は、大獄関係者の関係を簡単な図にしました。
 
 今回の更新では、松岡英夫氏、吉田常吉氏、両氏の同名著作「安政の大獄」を参考にしています。
 

来週から更新を再開いたします
02/03/24 (日)
 来週からまた更新をはじめられそうです。
  
 ホームページをはじめてから、史料を探すことが多くなりましたが、地元の史料のなかからあまり知られていないエピソードに出会ったということが、たびたびありました。その中でも、加納町史に収められていた「永井玄蕃頭随伴記」は、永井さんに興味をもったきっかけであり、もっとたくさんの方に知っていただきたいと思う史料です。
 先日、永井さんについて調べようと考えていらっしゃる方からメールをいただき、この史料を読みたいのですがどうすれば良いでしょうかというご質問をいただきました。
 この史料は、「加納町史」のみ収められているだけですので、この本を読むには、図書館で他館からの協力貸出しを依頼するか、関東近辺の方でしたら、東京都立図書館か、国立国会図書館でコピーをとられると良いと思います。興味をお持ちのかたは、少々手間がかかりますが、是非どうぞ。
 
 ところで、気になる史料の存在を知ると、その内容すべてを読みたくなりますよね。
 昭和の頃出た地元の雑誌に、新選組の近藤勇の介錯をした横倉喜三次の日記からの引用が書かれていまして、史料から引用された文は、近藤勇に接見し、介錯をつとめるまでのわずかな期間のみで、内容的には良く知られていることとさほど変わりはありませんが、はじめて読んだとき、そのリアルな原文に思わず鳥肌がたちました。
 しかし、原史料の一部にすぎないので、日記の全文を是非読みたいと思ったのですが・・・・・・
 結局のところ原史料の行方は不明のようです。摩訶不思議なのですが、こんなこともあるのですね。願わくは、自筆の史料が消滅していないことを祈るのみです。それとも、もうどこかで掲載されいる史料なのでしょうか。
 
近況など
02/03/10 (日)
 今日はページ内の明らかな誤り訂正と、一部に補足を加えました。
 三月いっぱいは、なかなか更新が進みそうにありません。せっかく訪問していただいたのにすみません。

 史料本を読んでいると、たまに意外な発見があります。
 永井さんの養父能登守は、一旦家督を譲り隠居しますが、安政の大獄で蟄居の身となった養子に代わり、再び復活し役職についています。
 そして、永井尚志の罪が解かれ、軍艦操練所の御用を仰せ付けられた文久二年七月五日の前日、西之丸御留守居としての精勤が認められ時服を賜りました。この時七十四歳でした。華々しい昇進で、家格以上の出世を遂げた養子尚志の盛衰に対し、どのように接したのかは、伝え聞かれません。高齢で、よもや再びお勤めをすることになろうとは、思いもよらなかったことでしょうね。
 能登守は同年三月二十四日、本所御先手頭松崎権左衛門宅にて、尚歯会に出席し、楽器の笙を担当しています。この会の詳細は不明ですが、幕臣を中心とした、和楽器演奏の会のようです。
 「尚歯」の出典は荘子。尚歯会の意味は、高齢者を慰安するための会合と辞書にはありました。高野長英ら蘭学者の会としても知られ、こちらは、老いてなお研鑽を積もうというような意味で使われたようです。また、古く平安の頃から同名の会は存在していたそうです。
 永井家は学術に対する造詣が深い家柄とは知っていましたが、楽器の趣味をお持ちだったとは、少々意外な驚きでした。おそらく風雅な方だったんでしょうね。

 「藤岡屋日記」「字源」より
今週も休み
02/02/17 (日)
 更新は今週も、お休みです。再開は来月になるかもしれません。
 ところで、最近疑問に思っていることがあんですが、それは、永井さんが晩年、岐雲園で朝夕、霊を弔っていたといわれる祠の行方なんです。こういったものはお寺や神社に納められたり、何らかの処置をされるのが普通ではないかと思うのです。しかし、その後どうなったのかは本などではまったく触れられていません。そのまま朽ち果ててしまったのか、誰かかどこかへ運んだのか・・・。どうなってしまったんでしょうね。
 
更新お休み
02/02/03 (日)
 すみません。先週に引き続き更新をお休みさせていただきます。
 最近、外務省外交資料館編集の「日本外交史辞典」を見たところ、初代「外国奉行」の五人のうち、岩瀬忠震、水野痴雲、井上清直の名はあり、永井、堀利熙の二人の名がありませんでした。
 本の凡例には
 この辞典はペリー来航(1853)から日中国交正常化(1972)までの約120年間における日本外交史上の主要事件、その間の条約、協定、国際会議、対外政策などの諸事象、および外交史上重要な役割を演じた人物、団体、ならびに地名、外交用語などを対象としている。その際、とくに明治維新から太平洋戦争終結までの間に項目選定の重点を置いた。
 とあり、どうやら外交に関し、本に収めるほどの重要な役割をはたしてはいないと判断されたようです。ちょっと納得できないです。残念。
   
岐雲園の住人
02/01/20 (日)
 昨年三月「雑感」に岩瀬忠震ゆかりの設楽原歴史資料館訪問記を載せましたしが、これをきっかけとして大島信雄氏よりメールをいただき、東海日日新聞にて氏が連載執筆中の「越後長岡と東三河」をダウンロードして拝読することができました。
 雑感に書いていることですが、私は永井死去後の岐雲園の住人について、幸田露伴とその兄のどちらが住んでいたのかを疑問に思っていましたが、連載に岐雲園幸田兄弟が詳しく書かれており、疑問が解消しました。
 露伴の兄が勤め先の関係でまず先に住み、その後転職により移転すると、露伴があとに入ったというこです。しかし、すぐ重い腸チフスにかかり生活が窮乏し、やむを得ず邸から出たため、わずかな期間しか住むこととはなりませんでした。また、兄成常がいつから入居したのかその時期は判明していないようです。
 なお、大島氏の「越後長岡と東三河」では現在も岩瀬忠震をテーマとした連載が続いていますが、氏のHPにおいて週一本のペースで脱稿された稿が順次アップされており、東海日日新聞の地区以外の人も読むことができます。毎回岩瀬さんにかかわる人々や史料について深く掘り下げられていていますが、とくに史料の解読は大変有り難く貴重なものではないかと思います。
 大島氏の許可をいただくことができましたので、今後当ホームページにて引用させていただきます。
 大島氏のHP「越後長岡と東三河」のリンク先は以下です。ぜひダウンロードをしてお読みください。
 東海日日新聞連載「越後長岡と東三河」
http://www02.so-net.ne.jp/~oshimamd/nagaoka.html
 
開国 年表
02/01/15 (火)
 開国に関する年表を作りました。
 米の黒船来航によって日本は開国を決断しましたが、開国以前、日本を訪れて何らかの接触を図ろうと試みた外国は、もちろんアメリカだけではありません。
江戸城のお正月
02/01/07 (月)
 新年の最初ということで、江戸城の元旦について紹介しました。

 ところで、嘉永五年にオランダからもたらされたアメリカ艦隊来日の予告信書は、受け取ったものの内容が秘匿されたというのは大変不思議に思えませんか。
 幕府は弘化二年にオランダ国王からの信書を、祖法(オランダとは交易は結んでいるが通信は結んでいない)に背くことになるので、という理由で断ったのと同じ理由で嘉永五年のときも拒んだのですが、前回は信書の受け取りさえも拒否したものの、今回は返信できないが受け取ることだけなら良いということで許可しました。
 この祖法に背くということは、家康以来の御国法を破るというこで、鎖国と同様に重大なことと考えられていたようです。
 そして、なぜ秘匿されたのかというと、オランダから送られた信書とともにアメリカの新聞があり、これには嘉永二年に起こった難破船員にたいする日本側の残酷な待遇が記され、「速やかに日本を発し日本政府の不法を制しかつ通商のために開港を促し交通の便を開くべし。もし将軍及び執政がこれを拒めば兵力をもって服する手段をとり都府を攻撃し、各港を封鎖し、もって報復をはかるべし云々」とあったため、という説もあります。
 残されているオランダからの信書にはその新聞の内容は書かれていませんが、もし通商を断り鎖国を続ければ、戦争が起こり国内でながく争乱が続くだろうと警告する内容が確かに含まれています。
 想像以上のショッキングな警告内容に、さすがの阿部正弘でさえなにも手を打てず、ただ、動揺により国内が混乱することを防ぐため、秘匿するしかなかったということなのでしょうか。