幹事クリタのコーカイ日誌1999

 
 8月5日 ● パソコン文化の消滅。

 最近の新しいパソコンを見ていると、つくづく食指が動きません。どのパソコンも似たり寄ったり。違うのは細かなスペックだけ。そりゃiMacのように見た目を大きく変えてみました、というものもあるけど、それとて本当にうわべだけの変化で、パソコンが作り出す世界を一変させてくれるわけではありません。去年も一昨年も、できることは、どのパソコンでもできるし、できないことは相変わらずできない。もうパソコンでは夢は見られない、とさえ言っていいでしょう。

 誰にでも使いやすいパソコン、家電感覚のパソコンというのは、言い換えれば趣味性を廃し実用的な道具にする、ということです。電話や冷蔵庫や洗濯機と同じ感覚でパソコンを使ってくれ、と言っているわけで、そんなものに夢を見る人間はよほど特殊な嗜好の持ち主でしょう。

 パソコンと近似した道具にクルマがあります。趣味と実用のバランスの上に成り立つ近代的な発明品。カローラやサニーに(もっと言えばトラックやバスに)文化と呼べるものを見つけるのは困難ですが、フェラーリやミニには明らかに文化らしきものがあることからも、クルマの危ういバランスが見て取れます。

 「文明」は誰でも使える普遍的な価値であり、「文化」は特定の人間だけが認める固有の価値である、と言ったのは司馬遼太郎だったと思います(うろ覚えなので嘘かも知れません)。カローラは文明であり、ミニは文化です。不便を我慢しても俺はこれが好きだ、と言えるところがあるからこそ、ミニは文明に成らずに文化として踏みとどまっているのです。そしてパソコンは、かつて文化だったのに、今や文明へと大きくシフトしつつあります。

 もちろんそれは良いとか悪いとかの問題ではなく、それが時代の流れなのだということでしょう。パソコンが文明になりつつあるからこそ、テニスサークルや同窓会の連絡だってメールとホームページの掲示板でやり取りできるのですから。機械には全然弱くて、という女性だってメールくらいは使えるような世の中になったのですから、大した進歩だと思います。ただ願わくば、フェラーリやミニのような文化としてのパソコンが生き残ってくれないかな、という思いが僕の中にはあります。ただのノスタルジーかも知れませんが。
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