幹事クリタのコーカイ日誌1999

 
 6月29日 ● 均質化された学校の良否。

 三田誠広の『父親学入門』という本を読みました。『僕って何?』以来、ニューファミリーとかマイホーム主義とかの一種の象徴のような作家ですから、この人の語る理想の父親像というのも、いかにもという感じがするのですが、特にこの中で熱っぽく語られているのが次男の中学受験についての章。

 息子と二人三脚で中学受験をした三田は、その後それをネタにして本を売り講演でも稼いでいたようですが、それは流行作家としては仕方ないとしても、まるで私立中学の協会から広報マンでも依頼されているかのような公立中学叩きは一体なんなのでしょう?

 彼曰く、私立中学は小学生の時に受験という厳しい試練を乗り越えてきたセルフコントロールができる生徒が集まっているし、教師も転勤のない学校で熱意に溢れているので、教えるにも学ぶにも最適な環境である。対して公立中学は私立受験もさせないような教育に無関心な親の元で育った野放図な生徒ばかりで、しかも公務員でやる気の薄い教師が教えるのだから、子どもにとって良い環境のはずがない、と説きます。

 確かにそれはある面から見れば当たっているかも知れませんし、東京と地方では少々事情が異なるということもわかります。しかし、それでもこれは余りにも偏った見方ではないでしょうか。三田は私立中学の「質の高い同じ種類の生徒が集まっている」ことを最大のメリットとして評価しているわけですが、僕は逆にそれは大きなデメリットも伴うことだと思います。

 今さらこんなことは説明するまでもないことでしょうが、選抜されて均質化された集団では「出る杭は打たれる」という諺通り、個性的であることはマイナスにしかならず、多様な価値観は受け容れられずに異質な人間ははじき出されてしまいます。内輪の人間だけで固まり、個人になるとひ弱い。よくある「お坊ちゃん学校」出身者のステレオタイプ。ひいては日本社会の縮図です。

 もちろん公立中学だって所詮は日本の中学なのですから、同じようなものです。ただそれでも私立中学よりは混沌としていて、多様な人間がひとつ教室で学んでいます。変な奴やおかしな奴、怖い奴もいることでしょう。しかし、それが社会なんです。そういう類の人間といかにして付き合うかを学ぶ機会は、この時期をおいてありません。いずれにしても高校以降は成績で輪切りにされて似たようなタイプの人間とばかり付き合う羽目になるからです。

 小学4年の息子のクラスにも、体が大きくて乱暴な困った子がいるそうです。うちの学区は名古屋市でも有数の高級住宅地を含んでいるので、お上品な子が多く、そういう子は珍しいらしいのですが、息子も時々その子に小突かれたり蹴られたりして被害に遭っているようです。

 ただ集団でいじめられているのならともかく、一人の子がやんちゃなだけなら、そんな経験も僕は必要だと思っています。そういう乱暴な奴に真っ向から立ち向かうのか、へつらって見逃してもらうのか、上手に相手にしないでかわすのか、とにかく逃げ回るのか、いずれの策を選ぶにしろ息子にとっては貴重な試練です。社会に出たら暴力は振るわれないにせよ、その手の理不尽なことはたくさんあるからです。

 クラスメートが全員セルフコントロールができる良い子ばかりなんて、面白くないじゃないですか。学校出てから「昔クラスにこんな奴がいてさ」なんて話もできないし、同窓会をやっても盛り上がるネタに事欠くような気がします。それとも私立中学になんて行けなかったし、子どもも行かせてやれないビンボー人には、その楽しさとメリットは理解できないものなんでしょうかね。

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