幹事クリタのコーカイ日誌2018

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10月18日 ● ドラゴンボール・ハラスメント。

 ネットで「『ドラゴンボール』を読んだことのない僕が、先輩に反論するために全巻読了した結果』」というエントリーがあって、結構な反響を呼んでいるようです。内容はほぼタイトル通りですが、要は先輩に読んでみろと言われて「ドラゴンボール」を読んでみたけど、それほど感動しなかった、ということです(ざっくり説明し過ぎなので気になる人は元の文章をあたってみてください)。

 この中で筆者はドラゴンボールの世界観の脆弱さや、すでに既視感のある設定について触れていて、それは逆に言えばドラゴンボールがあったからこそ、その影響を受けた作品がより洗練された形で登場したわけですから当たり前といえば当たり前の話です。それを筆者は「巨人の肩の上」と表現していますが、マンガに限らず小説であれ映画であれ音楽であれアートであれ、創作物というのはほとんどの場合、既にある作品の「肩の上」に乗っかってより高みに到達しているものです。

 若い世代が古い作品に感動しづらいというのは、ひとつは時代背景の違いを乗り越えられないということにあり、もうひとつは多感な時期に触れたからこそ感動が大きく代え難いということがあります。時代の違いはそのスパンが大きくなればなるほど乗り越えるのが難しくなります。我々が1000年前に書かれた「源氏物語」を読んでも夢中になることは難しく、教科書のような解説なしでは書いてある意味すら理解できないこともしばしばです。100年ちょっと前の口語で書いてある夏目漱石や森鴎外の小説でも、ある程度の教養がないと楽しめないだろうと思います。

 マンガやアニメの場合はこの数十年の間に一気に進化したジャンルですから、10年単位のスパンであっても「古さ」を感じてしまいます。ドラゴンボールですら20代の人たちにとっては「うーん」となるのも仕方ないことなのでしょう。彼らがもっと古い「巨人の星」や「がきデカ」を読んだらどう思うのか、感想を聞いてみたいものです。

 また多感な時期に触れた作品こそ「至高」と思うのは、これはもうどうしようもありません。それによって自分の好みが形作られてしまったわけですから。未だにバブルっぽいファッションをしているアラフィフを見るたびに「あーあ」と思いますが、だからと言って今のファッションを良いとは彼らは思えないのですから仕方ないのです。もっと言えば、少年少女の時代にワクワクしながら読んだ「作品」自体よりも、その「体験」こそが宝物なのです。どうやったところで超えられるものではありません。

 ただそういう個人の思い出を若い世代に押し付けようとしたところで、それは理解してもらえないことも年長者はわかっておくべきです。じゃないと「ドラゴンボール・ハラスメント」を気づかないうちに自分がやってしまうことになりますから要注意です。


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