幹事クリタのコーカイ日誌2015

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12月30日 ● レコード大賞個人史。

 今日、日本レコード大賞が発表されました。と言っても、この30年近く興味を失っていたコンテンツなので、実はどうでも良いんですけど、たまたま珍しく他に見たい番組もなかったし、この手の番組を娘と突っ込みを入れながら見るのも悪くないので、マンガ片手に右目で見ていました。

 新人賞は4人いたのですが、見事なまでに知らない歌手ばかりで、もちろん知っている曲もありませんでした。さすがにこれだけ無名の人が勢ぞろいするというのはスゴイことです。各有力プロダクションのプロモート合戦だとは言え、もう少し誰かいないのかと思いましたが、今年の新人歌手で他に誰がいたっけ、と考えてもパッと思いつきません。辛うじてクマムシくらいですが、彼らに新人賞を与えるわけにもいかず特別賞をもらっていました。

 賞レースが華やかなりし頃の70年代は、新人賞は本当に誰が貰うのかわからないくらいの豪華なラインアップでした。僕が小学校4年生だった1970年の新人賞は野村真樹とにしきのあきらの一騎打ちでしたが、個人的には「走れコータロー」のソルティシュガーを応援していました。1971年は小柳ルミ子と南沙織、1972年は麻丘めぐみ、森昌子、郷ひろみの三つ巴、1973年は浅田美代子、アグネス・チャン、桜田淳子とアイドル全盛でした。この頃は毎年のように応援している歌手がいてレコ大は大晦日のビッグイベントでした。大賞の行方も気になりましたが、小学生・中学生にとって親しみがわくのは、大賞よりも歌手の年齢が近い新人賞でした。

 高校生の頃は、大ファンだった山口百恵がいつ大賞を受賞するのかを毎年気にかけていました。1977年は「秋桜」の年でしたが沢田研二に敗れ、1978年は「プレイバックPart2」がヒットしたもののピンクレディーに攫われてしまい、1979年の「しなやかに歌って」もジュディ・オングの前に完敗。そして翌1980年に引退をした百恵は特別大衆賞というわけのわからない表彰をされてレコ大無冠のまま終わってしまいました。新人賞も貰えなかった百恵は本当に賞レースには縁が薄かったのです。

 1980年代前半はまだレコード大賞は権威がありましたが、中森明菜が連覇を果たした80年代後半になるとそれが揺らいできました。賞レースに金や派閥の争いが絡んでいるという記事が週刊誌などで掲載されるようになってきたからです。近藤真彦が「愚か者」で大賞を受賞した1987年には僕はすっかり白けてしまい、翌年の光GENJI「パラダイス銀河」で「ああ、レコ大は終わったな」と感じました。

 実際、この年を最後に視聴率も20%を切ったままですから、レコード大賞が国民的行事だったのは1980年代までだったということです。1990年から「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分かれるようになり、それを機会に僕はもう興味を完全に失ってしまいました。また以前はレコード大賞が終わってから紅白歌合戦が始まっていたのに、紅白が大幅に開始時間を早めたり、賞獲りレースを辞退するアーティストが多数出てきたりして、この頃から権威も大きく揺らいでしまいました。

 僕は大学生の頃までは大賞受賞曲を第1回の水原弘「黒い花びら」から20数曲、すべて諳んじることができました。何の役にも立ちませんが、それくらい気合を入れて見ていたのです。今年の大賞受賞曲は先ほどまで見ていたのに、もう曲名を忘れてしまいました。と言うか、そもそもあまり聞いたことがない曲でしたし。それに三代目JSBならせめて今年は「Summer Madness」でしょう。彼らがエイベックスの力で取ることがわかっていたとしても。


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