幹事クリタのコーカイ日誌2015

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12月26日 ● 六曜は文化か?

 大分県が県と市町村で作った来年のカレンダーに六曜が入っているのは不適切だとして回収をすると発表したそうです。このニュースに対しては僕は当然の処置だと思います。過去に仕事で企業のカレンダーを作ったこともありますが、基本的にはカレンダー等には六曜は迷信であり差別を助長するという理由で入れないことになっているのも知っています。もしクライアントが六曜を入れたいと言ってきた場合は、そういう説明して、入れることによって人権団体などから抗議がくる可能性もあることを伝えた上で、それでもクライアントが入れると言えば入れます。

 六曜を入れたカレンダーを作るリスクを理解しているので、大分県が不適切だと回収を発表したのは「当然」だと思うのですが、それはあくまでもビジネス上のリスクを避けるための処置としての「当然」です。六曜が本当に差別を助長する人権侵害に当たるのかどうかという論議については考え方は人それぞれでしょう。世の中の多くの人は恐らくそういう認識は薄いでしょうから、このニュースについて疑問が噴出するのもわかります。カレンダーを見て大安とか仏滅とかわかった方が便利じゃないの、と単純に思うでしょうし。

 六曜自体に科学的根拠などないということについては、多くの人は理解を示すだろうと思いますが、じゃあなぜそれなのにみんな六曜にこだわるのか。仏滅に結婚式をするのはまだしも、友引に葬式をするのはさすがにやめておこうとなる人が大半でしょう。友引に葬式をしたことで何か他人に不幸があったら困る。周りから常識がないだのと責められる。だからやらない。本当は日程的な都合で友引に葬式をしたい人だっているはずです。その日に葬式を済ませないと仕事に差し支えるとか、海外にいる子どもが帰ってくるのに間に合わないとか、実際にマイナスの影響が出ているにも関わらず、それでも友引に葬式をしない。なぜか?六曜は一種の宗教になってしまっているからです。

 六曜自体には、例えば血液型で人を差別するほどの害はないかも知れませんが、そういうことを信じて行動する、さらにはそれを他人に強制するようになると、これはもう「布教」であり、信じていない人からしたらかなり迷惑な行為になります。いろいろな新興宗教に勧誘されたことがある人は多いでしょう。それと同じです。信じている人にすれば受け入れるのが当たり前のことでも、信じていない人にしてみたら迷惑な押し付けです。六曜は慣習だから、日本の文化だからと言う人もいますが(そもそも六曜の歴史は浅く広まったのは幕末〜明治期だと言われています)、僕は文化や慣習ではなく、迷信で人を束縛する「因習」だと考えていますから、六曜は無くても良いと思います。

 六曜をカレンダーに記載することがストレートに差別や人権侵害に当たるとまでは思いませんが、信じていない人に強制したり束縛するのは人権侵害につながります。「仏滅に結婚式をするなんて」と非難されても、当人たちにとっては特別な思いのある日かも知れないのです。そもそも迷信を何の検証もせずに受け入れるような態度自体、好ましいものではありません。「夫婦は一緒の姓であるべき」と「友引に葬式をするものではない」は同じ地平にあると僕は思います。人それぞれなんだから、好きにすれば良いのであって、押し付けるのはよくありません。


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