幹事クリタのコーカイ日誌2014

[ 前日翌日最新今月 ]

6月14日 ● W杯の古く長い思い出。

 サッカーW杯ブラジル大会が開幕しました。世の中がやたらとサッカーづいていて、いつもレッスンに行くS村楽器でも、店員がみんな日本代表のユニフォームTシャツを着ていました。店頭で着るために自腹で買い揃えたそうです。客層が若い楽器店だから良いのでしょうが、楽器屋じゃなくスポーツショップかと思ってしまいました。

 開幕戦のブラジルvsクロアチアを見るために朝5時から起きていた人もたくさんいたようで、いつからこの国はそんなにサッカー好きになったのか、って、そりゃJリーグが開幕した21年前からなんですが、世の中本当に変われば変わるものです。日本におけるサッカーのこの一気の浸透ぶりは、マーケティングを考える上で稀有な成功事例として世界的に記録されるべきではないかと思います。

 物心がついた時にはJリーグがあった20代にはわからないでしょうが、「J以前」の日本はシャレにならないくらいのサッカー後進国で、日本にはサッカーは根付かないんだろうと誰もが思っていたのです。プロリーグだって成功しないんじゃないかと思っていた人が多かったし、特にそれは昔からのサッカーファンほど懐疑的でした。

 僕がサッカーを意識したのは多くの古いサッカーファン同様、1968年のメキシコ五輪銅メダルからです。当時7歳だった僕はそこでサッカーというスポーツや釜本、杉山という当時の日本のスーパースターの名前を覚えました。W杯の一番古い記憶は1970年メキシコ大会。ここでペレを知り、1974年西ドイツ大会でベッケンバウアー、ミュラー、クライフを覚えました。もちろん当時はテレビ中継などありませんから、わずかなニュース映像だけで、ほとんどの知識は新聞のスポーツ欄を熟読して得たものです。サッカー雑誌を買おうにもまだ中学生では小遣いが足りませんでした。

 その後のW杯も、日本では相変わらずほぼその存在を無視されているがごとく話題にならず、社会人となっていた1986年のメキシコ大会でも、話題にしていたのはサッカー好きの先輩と僕の2人だけでした。あのリネカーが得点王になったメキシコ大会ですが、目立っていたのはもちろんマラドーナ。「5人抜き」に「神の手」と伝説的なプレーを連発した挙句にアルゼンチンを優勝に導きました。フランスのプラティニや西ドイツのマテウス、ブラジルのカレカなども活躍し、まさかリネカーやカレカが後に日本でプレーするなどとは全く想像もできなかった時代でした。

 風向きが少し変わったと思ったのは1990年イタリア大会。3年後にJリーグ開幕を控えて徐々にサッカーが注目されるようになってきたように感じました。と言っても、まだ一般にまでその風は届いていませんでしたが、スポーツ好きの若い男性の間ではちょっと話題になりかかっていたのを覚えています。この大会で活躍した「ユーゴの妖精」ストイコビッチがまさか名古屋に縁の深い人になるとは、この時もまったく夢想だにしませんでした。そして日本が「ドーハの悲劇」を経験し初出場を逃した1994年アメリカ大会、初出場した1998年フランス大会へと繋がっていきます。

 今大会で日本代表がどこまで勝ち上がれるかとか、どの国が優勝するかとかは、誰もがいろいろと予想をしているので敢えてそこには踏み込みません。僕は日本が過去の苦難の歴史を経て、「サッカーの下手なやつら」という認識から、いまやW杯の常連国となり、さらに決勝トーナメントに進出しても不思議に思われなくなったことに改めてしみじみと感慨深いものを感じていますし、本当に素晴らしいことだと嬉しく思っています。そして優勝するような強豪国ではなくても、フェアで美しいサッカーをして、他国からリスペクトされるような国であってほしいと願っています。それが「日本らしさ」だと思っているので。


gooブログでも読めます「幹事クリタのコーカイブログ」

テニス好きなら「幹事クリタのテニス日誌」