幹事クリタのコーカイ日誌2013

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1月31日 ● 部活時代のある思い出。

 体罰問題に関しては、当然否定的な意見が多いようですが、体罰擁護論も散見されます。ただ体罰擁護論には理屈が通っていないと言うか、指導者の指導力不足を補うために暴力で服従させているに過ぎないと思われる意見ばかりです。それを過去に自分が体罰を受けてきたことを正当化するために、もしくは体罰を受けてきた自分が体罰を繰り返したために、無理やり擁護しているようにしか感じられません。

 指導者の体罰と近いところにあるのが、部活における先輩から後輩への「しごき」「いじめ」ですが、これは単に服従させようというだけではなく、むしろ先輩からされたことを後輩にすることで「仕返し」している結果でもあります。俺たちがやられたんだから、後輩にもやらなければ「損」だ、って。何が得で何が損なのかよくわかりませんが、そういう思考法になってしまうのが日本の部活の伝統なのでしょう。

 僕は幸い中学でも高校でも大学でも会社に入ってからも、そういう目に遭遇することはありませんでした。むしろ今から振り返ると先輩に失礼だったかなと思うようなことばかり。高校時代は柔道部だったのですが、1年の夏合宿初日の夜のミーティングで「1年生は何か言いたいことはあるか?」と聞かれたので、素直な僕は「食事の時に先輩の茶碗に後輩がご飯をつぐのはおかしいと思います。自分でできることは自分でやれば良いんじゃないでしょうか」とクソ生意気なことを言いました。いや、実際にそう思ったんですけどね。俺はお前らの召使いじゃねえよ、と。

 でも柔道部ですからね、1970年代の。普通ならそんなこと言ったらボコボコにされるところですが、僕以上に素直な先輩たちは「それもそうだな」なんて言って、翌朝から自分で自分のご飯をよそうようになりました。練習の時でもそんなことを言いだした僕への報復的しごきはありませんでした。実によくできた先輩たちであり、民主的な部活だったと思います。

 まあそういう性格のせいで、会社に入ってからも先輩や上司に常に生意気な態度でモノを言いまくって失敗した結果が現状なのですが、出世しなかった代わりにストレスもたまらなかったので自分的には「よし」としています。まあご迷惑をおかけした先輩上司には申し訳なかったと、この年になって痛切に感じていますけど。生意気な後輩のポジションというのは、上の人間の度量が大きくなくては成り立たないものですから。

 と言うことで、体罰を容認する人間と言うのは、とりもなおさず自分の度量の小ささを白状しているようなものだと僕は思っています。尊敬している人の言うことは、優しく諭されただけでも心に響き反省します。叱っても言うことを聞かないのは、叱っている人間に人望がないから。体罰擁護論は、せめてそれを自ら認めることから話をはじめて欲しいものです。「小さい人間だから一生懸命正当化しているんだな」と憐みの目で聞いてあげますから。

 あ、ちなみに生徒の教師への暴力に対する正当防衛は体罰とは別問題です。それをわざと混同して「荒れる学校」における体罰を容認して一般論にすり替えるのは詭弁です。



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