幹事クリタのコーカイ日誌2012

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12月7日 ● 大学を減らせという年寄りの本音。

 田中真紀子文科相の大学不認可騒動からおよそ1ヵ月が過ぎました。当時の大騒ぎはその後の衆院解散と選挙突入ですっかり影を潜めてしまい、大学をどうするのかという議論は沈静化してしまいました。ただ彼女が一回火をつけたので、今後文科省がこの問題を提起しやすくなったことは確かでしょう。うまく大臣をコントロールできたお役人の勝利なのかも知れません。

 大学を減らせという議論について、その時に僕は「どうせ遊んでいるだけの4年だったら行かせるだけ無駄。勉強しない奴は高校卒業したら働けばいいんだ」とか「底辺の大学がたくさんあるから、受験生のレベルが下がり若者がバカになるんだ」とか、大学教育をその程度の短絡的な理由で衰退させて良いものなのか、と書きました。

 僕が見るところ、大学を減らしたがっている人というのは、社会的に成功した年配層ではないかと思います。つまり既得権益をがっちりつかんでいる人たちです。彼らが大学を減らせ、大学生を減らせと主張するのは、無駄な助成金を削減したいからとか、単純労働に使える低学歴層を確保したいからという見方は穿ち過ぎではないかと思います。確かにそういう理由も後付けでつけられますが、彼らの本音は単にブラブラ遊んでいるようにしか見えない若者が気に入らないからだと睨んでいます。

 古代エジプトにも「近頃の若い奴は」と書かれていた、という伝説がありますが、それほど年寄りは本能的に若者が嫌いなのです。特に年寄りから見たら怠惰で反抗的で役に立たない若者ほど腹立たしい存在はありません。彼らは年寄りが持っていないもの、失ってしまったものをたくさん持っています。そして、若者自身はそれがどれほど素晴らしいものかを無自覚なままです。それが年寄りから見たらつくづく羨ましく、かつ腹立たしいのです。

 年寄りから見て好ましい若者は従順で礼儀正しく良く働く人間。かつては中卒、高卒で働いているそういう若者がたくさんいたという「幻想」を年寄りは抱いています。そしてそれと正反対の若者が大学にゴロゴロと吹きだまっていると信じています。そんな偏見が「大学を減らせ」という大合唱につながっているのだと僕は思っています。

 そうした年寄りの若者に対する僻みと妬みは、ほとんどの場合「思いこみ」にしか過ぎません。今の大学生は意外と礼儀正しく勤勉です。彼らはそれほど無軌道でも反抗的でもありません。厳しい就職活動戦線を前にしてどうしたら良いのか真剣に悩み考えています。真面目ですし、ボランティア活動にも熱心です。

 大学生なんて遊んでばかりいる、お気楽なバカモノたちばかりだと言う年寄りの思いこみは、実は自分たちがそういう大学生活を送ってきたからに過ぎません。80年代に大学生活を送った中年層はお茶らけた軽薄な若者だったでしょうし、70年代に大学生だった世代は反抗的な若者だったでしょう。その上の世代は一握りの富裕層しか大学にいけなかったのですから、今とは全く状況が違います。

 自分たちの大学生活を今の若者に投影して「くだらない」と感情的に切り捨てるのは間違っています。それは自分たちの青春時代を「くだらない」と否定していることにしかならないことに、年寄りたちは気づくべきです。そして、もし自分たちの青春が「くだらなくても、あって良かった」と思っているのなら、安易に今の大学生を否定することはできないと思います。仮に「くだらない」大学生活であったとしても、それはくだらないなりに、もしくはくだらないからこそ必要な時間なのですから。



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