幹事クリタのコーカイ日誌2011

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2月25日 ● 何も与えない者は何も受け取れない。

 先日から内田樹の本を読んでいたのですが、「なるほど」と首肯するところが多いです。それは新しい発見があって目を開かれたというよりも、自分が常々感じ思っていたことをより的確に整理して書いてあるので「そうそう」と共感したという感じです。「うまいこと言うな」って。

 そのひとつに、内田は「自立」は実は「孤立」であり、それよりもこれからは「共生」を考えろ、と言います。自立できる社会(=ひとりで生きられる社会)というのは基本的に豊かな社会、安全な社会であり、それは人類の歴史の中でも極めて特殊な状況だと。その前提が壊れた時には人は「ひとりでは生きられない」。生き残るためにはお互いが助け合い支え合う共生できるネットワークを作ることの方が大事だよ、と言います。

 共生するためには集団の一員とならねばならず、それは利他的な行動を規範とします。つまり集団のために自分が働き、自分だけが得をしたりしてはいけない、むしろ受け取るよりも与える方が多いようでなくてはダメだと。みんな少しずつ平均値より多くを提供しようとすることで、集団は維持されていくというのです。逆に誰もが自分だけ他より得をしようとしたら、その集団は崩壊してしまうと。

 長年会社で働き、またプライベートでサークルの幹事をしていると、この集団維持のための原理はとてもよく理解できます。集団の中には必ず落ちこぼれる人間がいます。本人が意図しているかしていないか、また本人の能力とかやる気は関係なく、周りの助けを必要とする存在がいます。その人をフォローしながら集団が維持されていくためには、他のメンバーがその人の分まで頑張り、平均以上、報酬以上に提供をしなければなりません。

 そんな落ちこぼれは見捨てていけば良いじゃないか、という言葉はいつか自分へ返ってきます。常に集団の平均以上にいられるかどうか。今はそうでも体調を崩したり、年を取ったり、家庭の事情だったり、どんな理由で平均以下になるかわかりません。その時に「相互扶助」することができる集団が、長きにわたって存続していける集団であり、そのために「自立」よりも「共生」なのです。「ひとりで生きる」ことは、自分が落ちこぼれになったら、即アウトです。集団の中で共生していれば、いったん落ちこぼれても支えてもらいながらまた復活できる可能性があります。「やり直せる」ことができるかどうかは大きな違いです。

 サークルで幹事をしていても、平均以上によく働くメンバーは長く中心メンバーとして在籍しています。その間には浮き沈みもあります。事情があってテニスができない時期があっても、また戻ってこられます。しかし、自分だけが得をしようと都合の良い利己的な行動ばかりを繰り返すメンバーはいつの間にかサークルから消えていきます。いや、実はそれは「いつの間にか」ではないのです。サークル全体の無言の総意として「消されて」いるのです。そう言うと恐ろしく冷たいサークルのような印象を受けるかも知れませんが、そうじゃなく、むしろみんなが優しいからこそ、自分だけ得をしようとする人間がいつの間にかサークル内で浮いてきてしまうのです。

 サークルがそのまま世の中と同じではありませんが、やはりエッセンスは共通したものがあります。まず他に与えること、それが自らが受け取ることの条件であり、何も与えない者は何も受け取れない。当たり前のことなんですけどね。




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