幹事クリタのコーカイ日誌2011

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2月5日 ● ツイッターとフェイスブックの「方向性」の違い。

 ツイッターの次はフェイスブックだ、という言われ方をしていたのはまだ半年くらい前のことでしょうか。ミクシーからツイッターへの流れだって去年のことなのに、もうツイッターから次にいくのかと驚いたものですが、そう言われてとりあえず僕もフェイスブックにアカウントを作りました。

 しかし、どうもこれが使いづらい。正直ツイッターのような気軽さがなく面倒くさいし煩わしい。なぜだろうと思いながら、そのまま放置して相変わらずツイッターで書いていました。フェイスブックは取っつきにくいし、よくわからないし、なによりツイッターに代わって使うというメリットが感じられませんでした。

 ところが映画『ソーシャル・ネットワーク』(フェイスブックを創設した若者が主人公)が公開され、それに合わせて年末くらいから一気にフェイスブック熱が盛り上がりました。1年前にツイッター特集をやって売れた雑誌「ダイヤモンド」が、今度はフェイスブック特集をやるし、ツイッターでもブログでもフェイスブックのことを取り上げる人がいきなり増えてきました。

 僕も改めてフェイスブックのプロフィールを整備したり、友達を増やしてみたりしながら様子を見ていたのですが、やっぱりなにかしっくりこない。この数日それは何が原因なのか、フェイスブックに関する人々の意見などを読んで考えてみた結果、ようやく何となくわかったことがありました。

 それはフェイスブックの成り立ちに大いに関係があります。そもそもフェイスブックはハーバード大学の学内の学生名簿代わりというところからスタートしたように、極めて内向き志向のソーシャルメディアです。その方向性が実名でなければ登録できないというところにはっきりと現れていて、要はもともと知り合いの友人知人のための、お互いの便利なコミュニケーションツールとして考えられています。だから名前も学歴も職歴もオープンにして、知り合いを探しやすくなっています。プライバシーの保護とか個人情報の守秘とかは二の次なのです。

 つまりフェイスブックは古い友達とのやり取り用であって、ネット上で新しい知己を得ようという人には向いていません。どんな人かわからない不特定多数にいきなり自分のプライバシーを公開するのはかなりリスクが伴います。相手も実名を出しているのだから、そんなにおかしなことはしないよ、と言われても、名前を出しているから変なことをしないという保証などないことは、リアルな日常生活で考えればよくわかります。周りに変な人なんていくらでもいますし、変じゃなくても会いたくない人はいます。フェイスブックではDVが原因で別れた元彼とかに見つかってしまう可能性だって高いのです。

 ツイッターはその点、よく知らない他人とでも気軽にコミュニケーションができるツールです。「なりすまし」が時々話題になるように、相手がどんな人間なのか本当のところはわかりません。ツイッターでは最初は相手のツイートを読んで、それから少しずつRTなどで絡んでみて、DMを送って、それでメールアドレスを教えてメールのやり取りをして、という親しくなる順番があります。個人情報を出すまでにかなりステップを踏むことができるから、気軽に最初の一歩を踏み出せます。

 知らない人と新たに知り合いになれるのがツイッターで、知っている人とより仲良くなれるのがフェイスブック。「広がる」のがツイッターで、「深まる」のがフェイスブック。大雑把に言えばそういうことかと僕は納得しました。だからツイッターでフォロー数やフォロワー数が増えるのは意味がありますが、フェイスブックで友達の数をむやみと増やすことには何の意味もありません。フェイスブックは数ではなく質が大事だからです。

 そういうわけで、フェイスブックに関してはもう少し世の中に広まって、古い友人たちがアカウントを持つようになってからじっくりやれば良いやと思っています。本当は高校の同窓会や、テニスサークルのメンバーがみなフェイスブックのアカウントを持ってくれたら、そのファンページを作ったりすると交流するのに良いのでしょうが、まだまだそうなるには時間がかかりそうです。

 


twitterでもつぶやいています@kanjikurita

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