幹事クリタのコーカイ日誌2009

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10月24日 ● 人はいつ大人になるのか。

 一昨日のことなってしまいましたが、22日は父の命日でした。もう5年前のことになります。ついこの前のことのように思い出せるのですが、もう5年も経ったのかと時の流れの早さに溜息が出ます。

 父が死んだ時に一番感じたのは「もう自分は本当に大人にならなければいけない」ということでした。人間は子どもから徐々に成長して大人になっていきますが、一体いくつになったら大人になったと言えるのか、その線引きは難しいものがあります。いま成人年齢を18才に引き下げようという動きがありますが、ほとんどの人は18才なんてまだまだ子どもだと感じていることだろうと思います。

 もちろん20才になったからと言っても大人の自覚はやはり乏しいことでしょう。うちの息子も先月20才になりましたが、相変わらず中身は中学生みたいなものです。大学を卒業して就職しても、結婚しても、もしかしたら子どもが生まれても、まだ「大人になった」と本当に自覚しているかどうか怪しいものだと思います。

 もちろん、肉体的には10代後半には立派に成熟した大人です。しかし、社会的、そして精神的に成熟するには今の日本の社会は随分と時間がかかるようになりました。若いこと=未熟なことを「良し」とする傾向が、ますます人を成熟に向かわせないということもあるでしょう。

 とは言え、いつかどこかの時点でやはり大人にならざるを得ない時がきます。未熟なままでは恥ずかしい時がくるのです。それを僕は父の葬式の時に感じました。ここで立派に大人として振る舞わなければ死んだ父にも顔向けができないと思いました。後は大丈夫だ、任せろとは言えないと。

 別に僕の父親は社会的には全く大した人間ではありませんでした。むしろ今で言う「負け組」でした。高卒で零細な工場勤務で最後まで貧乏なままでした。気が弱く小心で酒飲みでした。高校生の頃は「なんでこんな父親なんだ、もっと立派な父親だったら良かったのに」といつも思っていました。ただ悪いことも曲がったことも狡いこともできず、優しい性格で、子どもが大好きでした。僕がいま父親を思い出すと、社会的には「負け組」でも、それだけで「良い父親だったな」と思えるのです。それも父親が死んだ通夜の夜に初めてそう思ったのですけどね。

 本当に親離れをできるのは親が死んだ時なのかも知れません。少なくとも僕はそうでした。そして本当に親から離れた時に、はじめてリアルに大人になった自覚が持てました。