幹事クリタのコーカイ日誌2004

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10月25日 ● リアル版『お葬式』。

 伊丹十三監督の『お葬式』を見たのは24才、もうすぐ25才になるという時でした。もちろん独身で両親はまだまだ元気。映画自体は面白いと思ったものの、その内容を実感できるような年齢でも状況でもありませんでした。単に世の中の慣習をコメディにした社会風刺的な映画と思い、伊丹十三らしいシニカルなユーモアを楽しんだだけでした。

 今回、父親の訃報に接して夜道をクルマで走らせている時に、「ああ、これは映画『お葬式』の冒頭場面だ」と思いました。そして、それ以降丸二日間のバタバタもまた映画と同じ。映画と違ったのは、葬式の最中に愛人と、という刺激的なシーンが残念ながらなかったことくらいです。

 葬儀社との打ち合わせ、お通夜で親族と食事、葬儀での喪主挨拶、火葬場で待っている時。いろいろな場面がまるで映画の一シーンのように感じられる瞬間があるのも実に不思議な感覚でした。それだけ葬儀というのが非日常的な空気感に覆われていて、肉親の「死」を特別なものへと昇華させているのでしょう。

 特に今回お通夜で一晩中父親の側にいて線香を絶やさないように番をしていたのですが、それが僕にとってはとても印象的でした。これまで一連の儀式の中でお通夜というものの意味をいまひとつ掴みかねていたのですが、午前3時過ぎに父親の棺の横に一人ぼんやりと座っていると、どうしたって父親のことを考えざるを得ません。父の生涯について、自分との思い出について、ずっと父と二人で語り合うように考えていました。そして、これが父への供養になるんだ、そして父との訣別になるんだと感じました。お通夜の意味を実感できた瞬間でした。

 親を送るというのは人生の中でも特別な経験です。結婚することや子どもを持つことと同じ、もしくはそれ以上に「大人になるための通過儀礼」ではないかと今回感じました。これで完全に自分は親の庇護を離れてしまうんだ、これ以降は自分を守ってくれる人はいないんだ、ということを痛切に実感するのです。親を送って遂に「大人」が完成するのです。

 もちろん中には10代で親を送る人もいるでしょうし、60代になるまで親を送れない人もいますから、全てが全て同じとは言い切れないでしょうが、少なくとも僕はそれだけの強い衝撃を今回受けた気がします。そして改めて映画『お葬式』を見直してみたいと思いました。きっと24才の僕には決してわからなかったことがわかることでしょう。

 そうそう、今回「コーカイ日誌」を読んだ多くの方からお悔やみの言葉をいただきました。個々にお礼を返すことができるほどまだ余裕がないので、申し訳ありませんが、ここでまとめてお礼を述べさせていただきます。本当にありがとうございました。


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