幹事クリタのコーカイ日誌2005

[ 前日翌日最新今月 ]


 
10月31日 ● 憲法の役割。

 自民党が新憲法の草案を発表しました。かつてはそんな動きを見せるだけで大騒ぎになっていたのですが、今では改憲論議が成熟してきたのか、「どれどれ、どんな案にするんだ?」という感じで、あまり頭から否定する人も少なくなってきました。戦後60年、随分時代も変わってきたものです。

 もっとも自民党も先日の総選挙の大勝で、現実的に改憲を意識しているせいか、原案よりもむしろトーンを下げて、かなり現憲法を尊重した草案になってきました。焦点である9条では戦争放棄の第1項はそのまま残し、戦力不保持の第2項を削除して「自衛軍を保持」としました。これは現状を追認したカタチにとどまっていると思います。

 むしろ議論すべきは前文にあると僕は思います。まず「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」するとしていますが、要は「愛国心を持て」と国民に言っているわけです。さらに「公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務」として、「国民の責務」を強調しています。

 要は自民党の草案は「国民は国に対して尽くすべきだ」と言っているのです。国が国民に対して「こう生きよ」と指示しています。言い換えれば、憲法を国から国民への指示書にしようと自民党は考えていると言っても良いでしょう。

 こういうやり方は僕は反対です。国民は誰であれ自分の考えたように、好きなように生きる権利があります。もちろん人を殺したり物を盗んだりしてはいけませんが、社会に迷惑をかけないレベルなら生き方も考え方も自由であるべきです。

 しかし「国を愛せ」「公のために義務を果たせ」というのはそういう自由を縛り付けることになりかねません。国を愛することができるかどうかは、その国のあり方次第です。例えば北朝鮮のような国家に生まれてそれでも国を愛せるか、ということ。洗脳されず全ての真実を知らされたら「愛せない」と言う人がいてもそれを責めることはできないでしょう。

 あくまで「国を愛せ」るかどうかは、個人と国家の関係によって変わって来ます。自然と愛する気持ちになるような国にするのが政治家の役割であって、「愛せ」と国から命令を下すのは本来おかしいと僕は思います。

 憲法は国から国民への指示書ではなく、むしろ国が国民に対して約束する保証書だと思います。国はこれこれこれだけのことを国民に対して保証しますと憲法で約束するものです。指示書か保証書かと言う議論は、国があって国民があるのか、国民があってこそ国があるのか、という論議にもなりますので、まずそこをクリアにした上で憲法の役割や性格を決めるべきでしょう。

 まあ確かに最近の若者を見ていると年寄り連中が「公共心を持て!」と怒りたくなる気持ちはわかりますけどね。僕も前文に書かれていることは「そうだなぁ」とは思います。結構良いこと言ってるんだけど、でも冷静に考えてそこまで言うのはどうよ、ということなんです。

 

とりあえず、読むたびに(1日1回)

を押してください。 日記才人という人気ランキングに投票されます。
初めての方は、初回のみ投票者登録画面に飛びます。
結構更新の励みにしていますので、押していってくださると嬉しいです。