幹事クリタのコーカイ日誌2001

 
 3月27日 ● 甦った「玉乃島」。

 大相撲春場所、幕内下位で11勝し敢闘賞を受賞した「玉乃島」。初場所までは「玉ノ洋」というしこ名だったのですが、今場所から部屋の故横綱玉の海が大関時代まで名乗っていた由緒あるしこ名に改名しての大活躍でした。

 片男波部屋にとって「玉乃島」「玉の海」というしこ名は大事な名前でしょうが、実は僕にとっても角界で一番思い入れの深いしこ名です。もちろん子どもの頃に故横綱玉の海の大ファンだったからです。

 幼稚園時代から筋金入りの相撲好きの僕は、「巨人・大鵬・卵焼き」世代ですから、当然最初は大鵬のファンでした。しかし小学校2年の時にそれまでの大鵬ファンから当時の大関玉乃島ファンへと転身しました。そのちょっと前の昭和40年に、大相撲は部屋別総当たり制になり、同じ二所一門の横綱大鵬と小結玉乃島が対決、玉乃島が勝つという番狂わせを演じて世間を騒がせました。その時、初めて意識した玉乃島という力士が、実は地元愛知県出身ということを知って、僕の中で一気に玉乃島はヒーローの座についたのです。

 玉乃島は強じんな足腰を持った強い大関でした。土俵際まで押し込まれても、そこからこらえて吊り気味にうっちゃることも多く、見ているこちらはハラハラせずにはいられませんでしたが、いつも見応えのある相撲を取る力士でした。カラダに恵まれずなかなか横綱へ昇進できませんでしたが、柏戸、佐田の山らが引退し、大鵬にも衰えが見えた昭和45年3月、ようやく大関在位20場所にしてライバル北の富士とともに横綱に同時昇進。この時には、子どもながら、わが事のように嬉しかったのを覚えています。

 横綱昇進後、しこ名を「玉の海」に改めてからは右四つの型を完成させて、双葉山の再来を思わせるかのような盤石の四つ相撲を見せてくれました。横綱在位勝率では大鵬(8割5分8厘)を上回り双葉山(8割8分2厘)に次いで2位(8割6分7厘)。しかし絶頂期を迎えた昭和46年秋に、27才で急逝してしまいました。あれほどのショックもまた子ども時代としては最大のものでした。新聞記事を見て呆然と立ちつくしたのを鮮明に覚えています。

 それから約30年、多くの力士が登場し、そのうちの少なからぬ数を贔屓にして応援してきましたが、未だに僕の中で玉の海を超える力士は現れていません。「玉乃島」のしこ名を継いだ二代目は、いつか「玉の海」の名を継ぎ先代を超えるような力士にまで成長してくれるのでしょうか。番付が跳ね上がり上位陣と対決する夏場所。しばらくは目が離せません。

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