幹事クリタのコーカイ日誌2000

 
 9月8日 ● 教員養成系大学は必要か。

 日本中に48もある国立の教員養成系大学。戦前の高等師範学校の流れをくむこれらの大学ですが、最近の教員採用枠の減少に伴って、その必要が議論されるようになってきました。

 「週刊朝日」によると、1980年代初頭には卒業生の約7割が教員になっていたのに、最近ではわずか14%とか。大学によっては学年で数人しか教員にならないところもあるそうです。教員になるために税金が使われていて、優遇措置が取られている教員養成系大学なのに、これでは本当に必要なのか、確かに議論されても仕方ないことでしょう。

 我々のテニスサークルにN田という奴がいます。彼は大学を卒業後、某都銀に就職しながら、数年で退職。教員を目指して独学し、この春から目出度く静岡県の高校に配属されました。先日久しぶりにサークルに来たときに「教師ほど楽な商売ありませんよ。忙しいと言ったって民間に比べればたかが知れてますし、人に頭下げるどころか威張っていて給料貰えるんだから。先生しか知らない奴は大変だって言いますけど、ありゃ楽園ですよ」とのこと。

 もちろん彼はそういう口の効き方をするキャラクターだけに、この発言を額面通りに受け取る気はありませんが(そもそも彼が辞めた都銀だって同じように世間から批判され続けてきたわけですしね)、ただ学校(しかも教員養成系大学)しか知らない純粋培養の教員が、これからも本当に必要かどうか、という疑問は僕にもあります。

 無論、どんな世界にも「この道一筋」で大きな成果を上げてきている人もたくさんいます。またその世界の「エリート」が持つ、エリート故のモラルの高さというのも存在することでしょう。しかし教員に本当にそんな専門性とエリート意識が必要なのでしょうか?むしろ、それは多様化する社会に対応できず、綻びばかりが目立つことになりそうな気がします。

 17才の犯罪が流行になるような昨今、教員に必要なのは、まず彼らに向き合う自分自身の太い根っこだと思います。人間としての幅の広さと奥行きの深さ。エリートよりも、厳しい環境に揉まれてきたパワーのある雑種の方が、教員には向いているのではないでしょうか。

 教員養成系大学は統廃合して整理し、教員の新卒採用は中止、少ない教員採用枠は全て社会人経験者から採る、ということにしてはどうでしょう?その代わり給料ももっと高くして、モラルアップも図ります。なにせ昔と違って、教員になれる人間は数少ないのですから、それに見合ったステータスの高さも必要です。

 そもそも子どもが先生をなめるのは、教員の社会的地位が昔に比べると随分下がってきているからです。親や社会が先生をバカにすれば、当然敏感に子どもも感じ取ってバカにします。親にもなめられない教員の質の確保こそ、教育改革を謳う森内閣のなすべきことでしょう。

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