幹事クリタのコーカイ日誌2000

 
 8月6日 ● 自分の狭量さを感じる時。

 昔から、そう、中学生になった頃から、僕は「大きな」人間になりたいと思っていました。もちろん体の大きな人間という意味ではなく、度量が広くて見識の深い、人間として「大きい」と言われるような人物になりたいと思っていたのです。

 だいたいにおいて「かくありたい」と思うということは、裏を返せば「かくあれない」自分を自覚しているからです。僕の場合は、思春期に差し掛かる頃から、自分の人間としての狭量さ、度胸のなさ、器の小ささを自覚し始めたからこそ、「大きな」人間になりたいと憧れたのだと思います。持っていないものを欲しがるのは人間の性ですし、また人間が小さい奴ほど貪欲なものなのです。

 さて、「大きい」人間になろうと考えた僕が始めたことは、まず人前で平気な顔をして話せるようになることでした。どちらかというと引っ込み思案で大人しい小学生だった僕は、それまで他人に対してはっきりモノを言えない子どもでした。中学に入ってから積極的に他人とコミニュケーションをとって話術を磨くことにしました。大人物は人前でも堂々と持論を展開できるものだ、という意識があったのです。

 しかし、それだけでは単なるおしゃべりな奴に過ぎません。次に始めたのは人の話を良く聞くことでした。僕の考える大人物は、思慮深げな顔をして人の相談にのってやり的確なアドバイスをしなければなりません。そのためには人の話を注意深く聞くことが大事だと思ったのです。

 さらに僕は格闘技をやらなければならないと考えました。僕の考える大人物はいざという時には腕力でも他人を凌駕できなければなりません。また格闘技系の体型は堂々としていて押しだしがききます。肩幅が広く胸板が厚いと、いかにも大物っぽいじゃありませんか。僕は高校生になると早速柔道部に入って日々筋力トレーニングに励みました。

 ここまではある意味カタチから入っていますから何とかなったのですが、問題はこの先でした。大人物たるもの常に合理的思考のもと、自分の感情よりも大局に立っての判断ができないといけません。ジェラシーなんてもってのほかです。人の幸せは素直に喜び、他人を妬むなんてことは論外です。

 ところここがまた一番難しいところなのです。大学生、社会人と進むうちに、僕なりに理想的な「大きな」人間に近づいてはいるのですが、他人を妬んだり羨ましがったりする気持ちは昔も今もあまり変わらないのです。自分の好きな相手が、自分のいないところで楽しい時間を過ごす。それを「楽しめて良かった」と相手と一緒に喜ぶことができれば良いのですが、ついつい「自分だけ楽しみやがって」とネガティブな心理に陥りやすくなっています。こういう心の狭いことではいつまで経っても自分の目指していた「大きな」人間にはなれません。不惑が着々と近づいていますが、早く真の意味で本当の大物になりたいものです。



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