SOME LIKE IT HOT (CONTEMPORARY)

BARNEY KESSEL (1959/3/30,31,4/3)

SOME LIKE IT HOT


【パーソネル】

JOE GORDON (tp) ART PEPPER (as,ts,cl) BURNEY KESSEL (g)
JACK MARSHALL (g) JIMMIE ROWLES (p) MONTY BUDWIG (b)
SHELLY MANNE (ds)

【収録曲】

(01-03) SOME LIKE IT HOT / I WANNA BE LOVED BY YOU / STAIRWAY TO THE STARS
(04-06) SWEET SUE / RUNNIN' WILD / SWEET GEORGIA BROWN
(07-09) DOWN AMONG THE SHELTERING PALMS / SUGAR BLUES / I'M THRU WITH LOVE

【解説】 (2008年03月02日更新)

 3月ですなぁ。もうすぐ春です。大のスキー好きで、チャイコフスキーとドストエフスキーが好き、好きな諺は 「蓼食う虫も好き好き」 で、好きな農機具は鋤 (すき) 、牛丼屋は 「すき家」 が好きや。この中で自分に当てはまるのは最初のスキー好きくらいで、牛丼は吉野家のしか食べたことがないし、農機具は鋤 (すき) よりも鍬 (くわ) のほうが好きだったりするんですが、そんな僕にとって春が来るというのは、大好きなスキーが出来なくなるということで、さほど喜ばしい出来事ではありませんでした。 が、脚の骨を折ってスキーに行かなくなって、冬というのはただクソ寒いだけのしょうもない季節に成り下がってしまって、今ではすっかり春が待ち遠しい気分になっております。 が、今年はですね、3月が来るのがいつもよりちょっと遅かったような気がします。どうしてなのかというと、閏年で2月が29日まであったからなんですが、君は閏年が好きかな?僕はですね、ま、別にどうでもいいよな。…とか思っているんですが、閏年だからと言って別に、目がウルウルするほど感動するわけではありませんからね。ウルメイワシというのも別に、目がウルウルするほど感動的に美味しいとも思えないし、ま、ウルメイワシの場合、イワシ本人…というか、イワシ本魚の目が潤んでいるのが名前の由来になっているわけなので、食べてどうこうというのはあまり関係ないのかも知れませんけど。それより僕にとってこの季節、スギ花粉の飛散によって目がウルウルすることのほうが問題だったりするんですが、そもそも僕は現行の暦制度については、かなり批判的だったりするんですよね。言いたいことはたくさんあるので、とりあえず思いつくものから順番に片付けていくことにしましょうか。

 そもそも今の暦というのは何かにつけ、数字的にちょっと半端過ぎやしないか?…というのが不満のポイントなんですが、僕は血液型がA型で神経質で根が几帳面なので、そういうところはきっちりして貰わないと、どうにも気持ち悪くていけません。1年を12ヶ月に設定したのは、これはまだいいと思います。どうせなら12ヶ月よりも10ヶ月にして貰ったほうが、数字的にはきりがよくて気分がいいんですが、ただそうした場合、1年を春夏秋冬の四季に分ける際、各季節が 2.5ヶ月ずつということになって、どうにも半端でよくありません。A型人間にとって小数というのはかなり不快なものだったりしますからね。4等分ならまだ小数点以下1桁で納まるからいいんですが、もし1年を3等分にする必要に迫られた場合、その1つの区切りは 3.333333333ヶ月ということになってしまいます。A型人間にとって、無限小数ほど不愉快な物は無かったりするので、2でも3でも4でも6でも割り切れる “12” という数字は、むしろ “10” よりも安心感があると言えます。ブルースが12小節から成り立っていると言うのも、同じ理由からでしょう。ただ、1年を12ヶ月に決めたことによって、いくつかの弊害が生じているのも確かでありまして、それは何かというと、1ヶ月を構成する日数が30日だったり、31日だったり、28日だったり、かと思えば4年に1度は29日になったりと、何とも複雑で不規則な数字になってしまったことなんですが、これはまあ、1年が365日であると決めたところにそもそもの問題があるとも言えるんですけどね。365日を12で割ると 30.41666667という、非常に気分の悪い数字になってしまって、僕は不愉快です。1年を5ヶ月ということにしておけば、1ヶ月は73日ということになって、ま、これも決して気分のいい数字ではないんですが、各月ごとに日数が違ってくるという不具合をほうは避けることが出来ます。 ま、そうなればそうなったで、今度は春夏秋冬の季節が 1.25ヶ月ずつとなってしまって、小数点以下2桁までいってしまうことになるわけですが、あちらを立てれば、こちらが立たず。 何だか、精力減退に悩むオッサンばかりを相手にしている抜きキャバ嬢のような心境になってしまいますが、この状況を打破する特効薬は無いのかというと、話は極めて簡単で、1年を360日と決めてしまえばそれですべては解決するんですけど。1年は12ヶ月で、1ヶ月は30日。 “30” という数字も、2と3と5と6と10と15で割り切れるので非常に気持ちがいいし、ついでに1週間も7日などという奇数はやめて6日ということにしてしまえば、毎月1日は常に日曜日で、しかも大安ということになって、世の中のすべてがすっきりします。大安や仏滅といった “六曜” は ここ にもあるように、現在の暦に合わせようとすると、時おりイレギュラーが生じてしまうんですが、その問題も含めて、360日という数字はすべてをクリアにしてくれます。

 では、どうして1年を365日などという半端な数字に設定してしまったのかと言うと、これは地球の自転と公転とが関係してきます。バク転とか、海老天とか、イカ天とか、そういうものは関係してきません。地球が地軸を中心にコマのようにクルっと1回転するのに要する時間を “1日” 、地球が太陽の周りをグルっと回って元の位置に戻ってくるのに要する時間を “1年” と決めた結果、1年が365日という変な数字になってしまったんですが、神サマもどうせ全宇宙を創造するんだったら、地球の公転をあと5日ほど早めて創ってくれればよかったんですけどね。あるいは計算間違いしちゃったんですかね?工作は得意なんだけど、算数はちょっぴり苦手。そういうタイプの神サマだったのかも知れませんが、ちなみに1年というのはきっかり365日なのかというと、そういうわけではなく、もっと正確に言うと約365.242199日なんだそうで。 となると、4年間で1460.968796日≒1461日となって、365日×4年=1460日という計算とは1日の誤差が生じてしまうことになるんですが、そこで4年に1度だけ1年を366日ということにして、辻褄を合わせて誤魔化すことになったわけですな。そのこと自体、特に不満はありません。神サマのチョンボを人類の叡知によって克服したわけで、むしろ賞賛に値する事だと思います。硝酸エコナゾールが水虫に有効であることを発見した人と同じくらい、賞賛されてしかるべきだと思います。 ただ、その日付を増やすために用いられた方法というのがちょっと問題でありまして、どうしてまたよりによって、中途半端極まりない2月という事にしちゃったんですかね?これがもし、閏年の12月は32日までということにしておけば、4年に1度は年末年始の休暇が1日増えることになって嬉しいんですが、2月ではほとんど意味がありません。そもそも、どうして2月だけ28日もしくは29日までしか無いということになったのか、その意図がよく分からんのですが、365日が12で割り切れないということなら、31日まである “大の月” の数を減らして30日にしておけば、それで済む話ですからね。便所の回数にしたところで、 “大” の数が多いというのは、すなわち下痢気味ということで、あまり喜ばしい状況ではありません。 更に言うなら、 “小の月” の並びが2・4・6・9・11月と、何を基準にしてこのように決めたのか、まったく理解に苦しむようなイレギュラーなものになっているのも解せないんですが、日本人なら “西向くサムライ” という語呂合わせで覚えれるからまだいいようなものの、アメリカ人やフランス人、中国、韓国、北朝鮮、あるいはグレナダ 、スリナム、セントクリストファー・ネーヴィスといったあたりの人は、一体どのように対処しているのでしょうか?

 閏年に12月だけ32日まであるというのはスッキリしないというのなら、通常、12月は30日までということにしても構いません。となると、4年のうちの3度まで、年末年始の休暇が1日減ることになってしまって、ちょっと哀しいんですが、それで暦の仕組みが明解になるのであれば、僕はそれを甘受したいと思います。2・4・6・8・10月の5ヶ月は31日まで、1・3・5・7・9・11・12月は30日までということにすれば、最後の2ヶ月だけはちょっとイレギュラーなんですが、ま、概ね偶数と奇数で分けられることになって、かなりシンプルになりますよね。閏年だけ12月は31日まであるということにしておけば、大晦日恒例の “紅白歌合戦” も4年に1度ということになって、オリンピック並の希少価値が生じて、視聴率も上がるに違いありません。ただ、大晦日が4年に1度ということになると、蕎麦業界の猛反発は必至なんですが、それならそれで、冬至の日にはカボチャの替わりに “冬至蕎麦” を食べるということにしておけば大丈夫です。僕はカボチャよりも蕎麦のほうが好きなので、そのほうが嬉しいです。 となると今度はカボチャ業界が黙ってはいないでしょうが、それならそれで、冬至蕎麦には必ずカボチャの天麩羅を乗せるということにすればいいですよね。僕はカボチャの煮付けがあまり好きではないんですが、天麩羅にすればけっこう美味しかったりしますからね。 ただ、年に1度とは言え、蕎麦にカボチャの天麩羅を乗せるということになると、その分だけ売り上げが減ることになる海老天業界からクレームが付くおそれもあるんですが、海老天とかイカ天とか、そういうものはあまり関係しないと思っていたのに、意外なところで接点が生じてしまいました。 そもそも、これほどまで各業界に気を遣わなければならなくなってしまったのはすべて、 “大の月” “小の月” の配置が不規則であるところに問題があるんですが、一体、誰がこんなヘンな規則を作ったんでしょうね?…と思ってちょっと調べてみたところ、どうやらローマ人が諸悪の根源らしいということが分かって来ました。

 どうやら昔のローマ人は、1年は3月から始まるものだとしていたようなんですが、アホちゃうか?…と思わずにはいられません。どうしてまた、そんなクソ半端なことを考えたんでしょうな? もっともこれは月の名前を数字で呼ぶから半端な気がするだけの話で、ジャニュアリー、フェブラリー、マーチ、エイプリル…と、何の脈絡もない名称で呼んでいる限りは、別に年の初めがマーチだとしても特に違和感は無いのかも知れません。その昔、1月と2月はとても寒くて何もする気が起きなかったので暦の上では無かったことにして、暖かくなってくる3月を1年の始まりとしていたようなんですが、現在、欧米諸国の年度始めが9月であるというのは、3〜5月、6〜8月、9〜11月、12〜2月という昔の区切りが今でも続いていることを窺わせます。 で、1年は3月から始まるということにして、3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・1・2月のうち、奇数月の3・5・7・9・11・1月を “大の月” 、それ以外を “小の月” とすると、3月〜1月までで、 “大の月” (31日) が6回、 “小の月” (30日) が5回で、合計336日。1年365日からこの数字を引いて、残った2月は29日まで、4年に1度の閏年は30日まで。 昔の暦というのはですね、こういう仕組みになってしたそうなんですよね。これだと12月31日が永遠に訪れないことになって、紅白歌合戦は1度も開催出来ないし、蕎麦業界は商売あがったりなんですが、いや、12月30日を大晦日ということにして、その日に “紅白” を見ながら年越し蕎麦を食べるということにすれば、問題はすべて解決するんですけど。となると、冬至はやっぱりカボチャということになって、僕としては今ひとつ嬉しくなかったりもするんですが、この問題はワガママな王様に頼んで、 「冬至の日には “チーズ入りウインナ” を食べるべし!」 というお触れを出して貰うことにして。心の中で、何てワガママな!…と思っても、処刑されたりするのは嫌なので、結局のところ王様の言うことには誰も逆らえなかったりするんですよね。いいですなぁ、王様は。

 で、わりとスッキリした体系を誇っていたローマの暦法なんですが、ここにワガママな王様が2人ほど登場することになります。1人目はユリウス・カエサル、英語ではジュリアス・シーザーと呼ばれるこの人は、ユリウス暦と呼ばれる暦法を確立したんですが、3月始まりで “大の月” と “小の月” が交互に出てくるという、先ほど説明した奴がそれに当たります。これだけなら別にワガママでも何でもなくて、むしろ硝酸エコナゾールと同じくらい賞賛されてしかるべきなんですが、暦を作ったドサクサに紛れて、7月のところに “Julius” に因んだ “July” という名前を付けたのは余計でした。で、もう1人のワガママな王様というのは、カエサルの後継者であるアウグストゥスという人なんですが、この人もドサクサに紛れて、7月のところに “Augustus” に因んだ “August” という名前を付けてしまいました。わりを食ったのが、それまで “8月” として夏休みを謳歌していたオクトーバーでありまして、 “オクト” というのはタコがオクトパスであることからも分かるように “” を現す言葉であるにも関わらず、前に2つも余計な名前が入ったおかげで、10月にずれ込むことになってしまいました。夏、終わってるやん!海に行っても泳がれへんやん! オクトーバーくんの心中は、いかばかりのものかと察せずにはいられませんが、タコなのにイカばかりと、ここでも矛盾が生じてしまいますしね。 で、アウグストゥスのワガママはそれだけに留まらず、ジュライが “大の月” なのに、オーガストが “小の月” というのは、怪しからん!…というので、8月を強引に “大の月” ということにしちゃいました。おかげで、2・4・6月と順序よく並んでいた “小の月の法則” が8月のところでズレてしまって、イカ、いや、以下、9・11月ということになってしまったんですが、 “小の月” が1つ減ってしまったあおりを受けて、2月が1日減らされることになって、28日もしくは29日までということになったというワケです。 いや、王様というのは何とも強引で人騒がせなモノでありますなぁ。。。

 もし僕が将来、サバの王様になって、シバの女王と結婚するようなことになったりしたら、としあえず “差し歯” を入れようかと思うんですが、とまあそんなことで、今日のお話はおしまい。

 ということで、今日はバーニー・ケッセルなんですが、地味ですな。僕はバニー・ガールは好きなんですが、バーニー・ケッセルにはあまりソソられるものを感じなくて、このコーナーでは過去に一度しか登場していないような気がするんですが、そんな彼にもちょっぴりソソられる1枚があるという事が判明しました。 『サム・ライク・イット・ホット』 、日本語のタイトルが 『お熱いのがお好き』 …って、いや、いいですな。 「熱いのが好き」 ではなくて 「お熱いのがお好き」 と、前後両方ともに “お” を付けたのがこの邦題のうまいところでありまして、ちなみに僕はお熱いのがさほどお好きではありません。猫舌ですからね。ま、猫舌でも、カンジタになるよりはいいか。…と思って諦めてはいるんですが、猫背と違って猫舌というのは、鍋焼きうどんを食べたり、コーヒーを飲んだりする時にちょっと時間が掛かるだけで、別段、健康に悪いとかそういう事ではないですからね。むしろ、熱いものを無理やり飲み込んだりしないので、食道癌になる確率が普通の人に比べてうんと低いと言われておりますが、それはそうと 「お熱いのがお好き」 。 これはえーと、マリリン・モンロー主演の映画のタイトルでありましたか。モンローと言えば数年前、桑名にある婦人服店が年末に配ったカレンダーが1月から12月まで、ずーっとモンローの写真だったことがありました。前年同様、日本の熟年女優シリーズみたいなのを期待していたうちのおかんはかなり不満だったようで、「なにぃ、こんなん〜!もう、あそこで服を買うのはやめるっ!」 などと、かなりワガママなことを言っておりました。せっかくのお客様サービスがすっかり裏目に出てしまって、その店には同情を禁じ得ないところでありますが、僕もあまり好きではないんですけどね、モンロー。 モンローよりも “ういろう” のほうがいいよな。…という気がするわけなんですが、で、このバーニー・ケッセルのアルバムはですね、リーダーはともかくとして、サイドマンにはかなりソソられるものがあります。なかんずくアート・ペッパーの参加は本作の目玉となっておりまして、日本盤ではわざわざ、バーニー・ケッセル・フィーチャリング・アート・ペッパーと明記されているほどなんですが、その他にもジョー・ドーゴンジミー・ロウルズといった、なかなか渋い人達が名前を連ねております。 でもってジャケットには網タイツを穿いたアメリカンなギャルが総勢5名ほど登場しているんですが、個人的に網タイツというのはどうもあまり好きになれません。せっかくのナマ太股がチャーシューみたいになってしまって、何もかも台無しだと思わずにはいられませんが、で、ここまでジャケ絵を書くのがクソ面倒な素材となると、もはや似せようなどという気は最初からこれっぽちもなくて、おそらくかなり適当な仕上がりになるものと推測されますが、とまあそんなことで、では1曲目から聴いてみることにしましょう。

 まずはアルバム・タイトル曲の 「サム・ライク・イット・ホット」 。 これは映画の主題歌ということになるんでしょうか? タイトルから受ける印象とは裏腹にさほど熱くはなくて、どちらかというと、ぬるま湯のような仕上がりだったりするんですが、ちなみに僕は猫舌であっても猫肌ではないので、熱い風呂はわりと大丈夫だったりします。ま、強いと言っても瞬間的な熱さに強いというだけの話で、すぐにのぼせて耐えられなくなってしまうので、長い時間はぜんぜん駄目だったりするんですけど。ピアノとベースによる何とも小粋なイントロに続いて登場するテーマは、えーと、ギターと サックとトランペットのスのユニゾンということになるんでしょうか?ミディアム・テンポで、お上品で、こりゃ、典型的なウエスト・コースト・サウンドやな。…といった世界が展開されるわけなんですが、でもってソロ先発はアート・ペッパーでありますか。アルトではなくて、テナーではないか?…という気がするんですが、たまにテナーを吹いたりするんですよね、この人。今ひとつ覇気がなくて、ハキハキとした感じがしないのは、ま、本職ではないから仕方のないところではあるんですが、とか言ってるうちにジョー・ゴードンのトランペット・ソロが始まりました。ミュートを使ったプレイは、これまたあまり破棄が感じられなかったりもするんですが、中間派スタイルのもったり感がこの人の持ち味だったりしますからね。芋に例えると里芋タイプとでも申しましょうか?僕は里芋の煮っ転がしというのがあまり好きではないんですが、茹でて生姜醤油で食べたりすると、けっこう美味しかったりしますよね。素材を活かすも殺すも料理法次第やな。…という気がするんですが、ジョー・ゴードンの資質はこの手の西海岸系のサウンドでは、わりとよく活かされていると言えるかも知れません。 で、続いてジミー・ロウルズのしみじみとしたソロがあって、最後はケッセルが地味に締めて、テーマに戻って、おしまい。アルバムの出だしとしては、まずは無難にまとまっていると言えるのではないでしょうか。

 2曲目、 「アイ・ワナ・ビー・ラブド・バイ・ユー」 。  「愛されたいのに」 などという邦題が付けられておりますが、愛したいとか、愛されたいとか、鯛を食べたいとか、タイ人になりたいとか、人間にはいろいろな欲求がありますよね。ま、僕はサカナがあまり好きではないし、日本人であることに誇りを持っているので、あまり鯛は食べたくないし、別にタイ人になりたいとも思わないんですが、この曲はアレですかね?失恋系のバラードなんですかね?愛されたいのに愛されなくて、その代わりに愛想を尽かされて、ああん!…みたいな世界がこのタイトルから浮かび上がってくるわけなんですが、演奏のほうは割と能天気な仕上がりとなっておりますな。小粋な、いかにも西海岸っぽいサウンドです。テーマに続くロウルズのソロが何だかとってもカクテル・ピアノっぽくて、いい雰囲気なんですが、とか言ってるうちにペッパーのテナーが出てきて、出来れば本職のアルトのほうを聴きたいところなんですが、ま、彼には彼なりに何らかの考えがあってのことなんでしょう。続くゴードンはまたしてもミュートで、ソロを最後を飾るケッセルは何となく地味で、とにかく各自に与えられたスペースがあまりにも短すぎるような気もするんですが、テーマの再現部にはなかなか洒落たアレンジが施されていたりして、とまあそんなことで、おしまい。 で、3曲目は歌モノの 「ステアウェイ・トゥ・ザ・スターズ」 。  「星へのきざはし」 という邦題でも知られていて、 “きざはし” というのはどうやら階段の意味らしいんですが、今ひとつ馴染みの薄い言葉ではありますな。僕の場合、 “きざはし” というとどうしても、キザな高橋クンの略?…とか思ってしまうんですが、僕はこのネタだけで既に4回ほど原稿を書いてしまっているんですけど。 で、演奏のほうはしっとりとしたバラードとなっているんですが、ケッセルをフィーチャーしたギターの無伴奏ソロなのか、あるいはベースくらいはバックに入っているのか。ちなみにこのアルバムにはリーダー以外にもジャック・マーシャルという人がリズムギター担当として入っているんですが、とか言ってるうちに次の曲になってしまったんですが、 えーと、4曲目は 「スウィート・スー」 でありますか。キャンディーズの3人の中では、スーちゃんがいちばんスウィートだよね♪…と僕は常々から思っているので、このタイトルには心の底から納得がいくわけなんですが、ギターが主導する主旋律に、ホーン陣が 「サヴォイでストンプ」 みたいなメロディで絡んでくるテーマ部は、なかなか洒落ていて、とってもいい感じです。アドリブ・パートの出だしはギターが中心で、そこに途中からその他の楽器が絡んでくることになるんですが、続いてはペッパーが出てきて、これはえーと、クラリネットという事になるんすかね?もしかしたら普通にアルトなのかも知れませんが、その後、ロウルズが出てきて小粋なピアノを弾いて、最後はゴードンがミュートで締めて、テーマに戻って、おしまい。よくあるハード・バップとはひと味もふた味も違う、いかにも白人ジャズ的な佳作やな。…といった仕上がりの1曲なのでありました。

 5曲目、 「ランニン・ワイルド」 。 クラスの受け持ちの先生は担任で、お茶に含まれる渋みの成分はタンニンなんですが、 “ランニン” というのはランニングの省略系なんでしょうか? ワイルドな走り。おそらく、そのようなものを表現したい作品なのではないかと思われますが、さほどワイルドな感じはなく、かと言って、悪いど。…ということでもなく、ランニンな雰囲気はうまく表現されていて、ジョー・ゴードンのトランペットとペッパーのアルトが激しく絡むアドリブ・パートの疾走感が何ともスリリングでありますな。続いてギターとピアノの絡みがあって、その後、ペッパーとロウルズとジョー・ゴードンとケッセルの4人が順に短い小節でソロの腕を競いあって、でもって、テーマに戻って、おしまい。 で、次。お馴染みのスタンダード・ナンバー、 「スウィート・ジョージア・ブラウン」 。 急速調で演奏されることの多い作品なんですが、ここでのケッセル一味もかなりのスピードで飛ばしております。七味ではなく、一味唐辛子の切れ味とでも申しましょうか、ここまでの作風と比べるとアレンジがかなりシンプルだったりするんですが、その分、ゴードン、ロウルズ、ペッパー、ケッセルと続くソロ・パートは、純粋にアドリブ一発勝負!…といった感じで純粋に楽しむことが出来ます。ペッパーはやはりアルトを手にした時がいちばん生き生きとしているし、各自のソロ廻しの後は、合奏パートとドラムスとの4バースみたいなのもあるし、シンプルと言ってもそれなりに工夫は施されて、でもって、テーマに戻って、おしまい。 ベースのランニングで始まる 「ダウン・アマング・ザ・シェルタリング・パームス」 は、ちょっぴりダルい、ダルビッシュな雰囲気のある作品で、ギターが奏でる主旋律に管楽器が絡むテーマ部が何とも言えずにいい感じです。ソロ先発はジョー・ゴードンなんですが、マイルスを彷彿させるミュート・プレイがちょっと意外でもあり、思わぬ儲け物とも言えるかも知れません。 何気なくジーパンのポケットに手を突っ込んだら250円入ってたという、ささやかな幸せを感じる瞬間がここにはあるんですが、以下、ジミー・ロウルズのピアノがあって、続くペッパーはここではテナーでありますか。この手のちょっぴりアーシーなサウンドには、彼のちょっぴりダルなテナーというのもアリかも知れません。最後はケッセルがちょっぴりカントリーなギターで締めて、テーマに戻って、おしまい。

 8曲目の 「シュガー・ブルース」 は、ちょっぴり砂糖なブルースです。ブルースと言ってもこの人たちの場合、決して泥にまみれるカレイみたいになるのではなく、あくまでも軽妙にして洒脱であるわけですが、ゴードン、ケッセル、ペッパー、ロウルズが1小節ずつアドリブを繋いでいくという希有な手法の取られたソロ・パートが秀逸でありますな。 後半は普通にケッセルのギター・ソロになって、続くペッパーは、えーと、これはクラリネットの音ですかね? 以下、ロウルズとゴードンが続いて、でもって、テーマに戻って、最後はゴードンがカデンツァで締めて、おしまい。いや、賑やかでありました。 と、ここでムードは一転して、続いては 「アイム・スル・ウィズ・ラブ」 。  「恋の終わり」 という邦題が付けられておりますが、ギターとベースのデュオと思われる、しみじみとしたバラードに仕上がっております。 恋は終わっても演奏のほうはもう1曲だけ続いて、アルバムの最後を飾るのは 「バイ・ザ・ビューティフル・シー」 という作品です。美しい海のそばというのはいいですよね。そんなところで蕎麦を食べたら、さぞや美味しいのではないかと思うんですが、あなたの蕎麦で暮らせるならば、辛くはないわ、この東京砂漠〜♪ 東京で蕎麦屋をやって暮らしているオトコに恋をした女心を切々と歌い上げた内山田洋とクールファイブの名曲でありますが、ケッセル一味の演奏のほうは、明るく正しいハード・バップ風の作品に仕上がっております。ゴードン、ペッパーのアルト、ロウルズ、ケッセルの順にソロ廻しが行なわれる、わりとオーソドックスな構成なんですが、敢えて小細工を弄さなくてもソロだけで十分にやっていける、そういう実力の持ち主であることを改めてアピールしておいて、とまあそんなことで、今日のところはおしまい。

【総合評価】

 ジャケットの見た目からして、最初の期待度をかなり低めに設定したんですが、それがいい意味で裏切られてたなかなかの作品でありました。 根はアレンジ重視のウエスト・コースト・ジャズでありまして、東海岸の黒人系ジャズとは一線を画した精緻なサウンドが展開されているんですが、かと言ってアドリブが軽視されているわけでなく、ケーシー高峰が軽視されているわけでもなく、これはやはり、アート・ペッパーの参加が決め手であると言えるかも知れません。ジョー・ゴードンとジミー・ロウルズも頑張ってますけど。さほどギターが目立つわけではないので、ギター嫌いの人でも十分に楽しめると思いますが、とまあそんなことで、 “jazz giant vol.28” は、これにてコンプリート♪ トータルでは840回ということになるんですが、今ひとつ半端な数字なので、特にイベントとかはありません。 では皆さま、 “jazz giant vol.29” も、ヨロシク♪


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