1998年8月中旬のコーカイ日誌


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久々に名古屋の謎シリーズ「分団の謎」。(98/8/20)
 名古屋の人間に「分団」と言えば、それは即ち小学生が登校するときの地域の通学グループ(だから通学団とも言います)のことを意味します。1年生や2年生の小さい子を上級生が引率して10人程度の集団で登校するシステムです。それは名古屋の常識、「なにあったりまえのこと言っとりゃーすの」という世界です。ところが僕の古い友人U山さんから「千葉の友達に聞いたら、分団で登校してなかったって。みんな勝手に学校行くんだって。これって名古屋だけ?」というメールを貰いました。

 早速全国から集まってきている会社の同僚にリサーチします。広島出身M永くん「なんすか、それ?」。東京池上出身M宮さん「ああ、昔ありました。僕6年生の時は班長やりました」。三重県出身N脇さん「もちろんあったって。なにぃ、よそではないの?」。岐阜県出身K原さん「うーん、あったかなぁ。あまり覚えがないなぁ」。東京六本木出身N島さん「ないよぉ。みんな勝手に学校行ってたよぉ」。島根出身Y田さん「うーん、なかったなぁ」。さらに三河地区、知多地区、東濃地区など味噌煮込み文化圏では分団登校の存在を確認できましたが、それ以外の地域ではM宮さん以外に分団登校というシステムは知りませんでした。そう言えば「ちびまる子ちゃん」でも分団登校はしていませんから、お隣の静岡県でもないわけですね。

 唯一の例外M宮さん曰く「僕の場合随分昔のことだしね。それに下町だからかなぁ」とのことですが、分団登校の趣旨が交通事故や誘拐などの事故防止であるなら、昔より最近、下町より山の手の方が広まっていても良いはずです。そもそも分団で登校していない地域では、1年生はどうやって登校しているのでしょう?兄や姉がいればともかく、1人で通わせて危なくないのでしょうか?名古屋の謎、というより名古屋以外の地域の方が謎のような気がする「分団の謎」です。
やったかやらないか、が問題なのね。(98/8/19)
 どっかの妻子持ちスケベ中年がいかにもエッチそうなお姉ちゃんとやっちゃった、ってことが世界中でトップニュースになるんだから、今やはり世界は平和なんでしょう。こんなことでいちいち妻ならともかく赤の他人に大騒ぎされたら、石田純一ならずとも「不倫は文化だ」と開き直りたくもなります。会社の同僚Mっちゃん(久しぶりの「コーカイ日誌」登場です)なんか、そういう意味では文化勲章ものの大文化人です。なにせ最近ますます文化度をアップさせているようですからね。

 それにしても、そんなに「やった」かどうかが問題なんでしょうか?よく「愛のないエッチは不毛だ」なんて言いますよね。『GTO』の鬼塚も「本当に好きな女とエッチしたい」と言っておりました。裏返せば「やっちゃった」としても、そこに愛がなければ大して問題ではない、ということになるような気がします。または愛のないエッチをするような奴は、ただのケダモノということにもなります。だったら中年妻子持ちビルがお姉ちゃんと「やった」かどうかを問いつめるのではなく、そこに「愛」はあったのかどうかこそを問いただすべきではないのでしょうか?「やった」かどうか、なんて童貞の高校生が問題にしていればいいことです。世界中のマスコミがまるで女性週刊誌化してしまったような1日でした。  
●ゴルフも英語も必要ないが。(98/8/18)
 ビジネスマンにとって必要なアイテムはゴルフと英語とパソコン、と言われて久しい気がします。まあ最近ゴルフの価値は少し下がってきたような感がありますが、英語とパソコンは逆にますますその重要性を増してきています。広告界でも当然、ゴルフ・英語・パソコンは三種の神器なのですが、我々制作畑の人間にもゴルフと英語はともかく、パソコンだけはなくてはならないものになってきています。

 デザイナーにとってのMacは完全に道具としての地位を占めていますが、それに伴いコピーライターもパソコンでコピーを書くことが求められています。鉛筆で原稿用紙に書かれたアナログデータではなく、最初からデジタルデータにしておけば、その後の制作作業が楽なばかりではなく、校正ミスも減るはずですし(最初に入力ミスしていなければね)、訂正があっても簡単に直すことができるからです。もちろん、パソコンでコピーを書けばお決まりのスペックなどはコピー&ペーストで済みますからコピーライター自身、手間が省けて良いことだらけ、と言いたいところなのですが。

 実は僕は会社でもデジタル派だと思われているでしょうし、実際パソコンを趣味としている部分もあるのですが、その割には仕事の全てをデジタル化することに懐疑的なのです。ひとつにはデータ保全の信頼性に欠けるということ。セキュリティの不安。そして何よりも手で書くことで生まれる発想に未だに頼っているということが大きいのです。落書きのように原稿用紙にいろいろ書きなぐっている間に、何となくアイデアが浮かんでくることがあります。キャッチフレーズやビジュアルアイデアは原稿用紙に落書きしながら考える方がいいのです。これはパソコンのキーボードを前にしてもできることではありません。逆に企画書をまとめたり、ボディコピーのように長い文章を書くときは、パソコンで適当に書き連ねながらまとめていく方が効率的なのですが。

 もちろんメールで原稿を送ったり、インターネットで情報を調べたりということにも使えるパソコンは、今やコピーライターにとっても欠かせない道具。ゴルフや英語とは比べものにならないとは思います。それでも何でもパソコン、とにかくデジタル、という風潮は納得できません。昔はパソコンに理解がなかった人たちに憤慨していたのに、今はあまりパソコン業界に踊らされない方がいいんじゃないの、と思ってしまうのは単なるあまのじゃくなだけではないと思いますが。
●ボークでサヨナラ負け。(98/8/17)
 夏の甲子園の2回戦、豊田大谷-宇部商戦は延長15回の白熱した一戦でしたが、豊田大谷のサヨナラ勝ちとなった最後の1点が、なんと宇部商投手のボークによる得点。あまり見たことのない盛り上がらないけれど奇妙な味わいのある幕切れでした。

 この試合、両校のエースが踏ん張って1点を争う投手戦となりました。9回終わって2-2。ともに投球数が200球を超えて疲れが見えた延長15回裏豊田大谷の攻撃。宇部商は無死満塁という絶体絶命のピンチを迎えていましたが、敢えて満塁策を取った彼らはそれでも決して試合を諦めてはいませんでした。いざ勝負、というその時、一瞬キャッチャーがサインを変更、慌てた2年生エースは一度入りかけたセットポジションを外そうとして「ボーク」。豊田大谷は労せずしてサヨナラ勝ちを収めたのです。

 スタンドの観客もテレビ中継を見ていた僕もア然としてしまいましたが、それ以上に戦っている彼らの方が戸惑っていたようです。勝った豊田大谷の選手も、派手にガッツポーズしたり抱き合ったりするわけではなく、喜びをどう表現していいのかわからない風で妙に淡々としていますし、負けた宇部商の選手も、負けた実感が沸かないのか、涙を流すわけでもなく腑に落ちないような表情。その中で、ひとり呆然とした後、泣き出した2年生エースと、彼を慰める3年生の選手たち。

 高校野球でしばしば見る劇的な、しかしありふれたサヨナラのシーンよりも、この唐突な幕切れの方がかえってリアルなドラマを見た気がします。スポーツのドラマとは、バックストーリー(亡き父に捧げる、とかいう臭い話)で語るものではなく、常に選手達のプレーそのものによって感じるものだ、と僕は常日頃思っていますが、それにしてもこのボークでサヨナラ負けというのは、ある意味ではサヨナラホームランなどよりもずっと迫力のあるドラマでした。

 冷静に解説すれば、常に先の塁を狙い、キャッチャーのサインを盗もうとした豊田大谷の選手達の抜け目なさに、まだキャリアの浅い2年生エースがつけこまれたということなのでしょうが、そんなことよりも、なんの盛り上がりもないまま、いきなりのサヨナラシーンという異常な空間の凄さ。打たれたのなら、いやせめてエラーでも押し出しても暴投でも、それはプレーの結果だから負けても納得がいったでしょう。しかしボークは反則負けと同じです。それで終わりじゃあまりにも酷というものですが、それがルールなのだから仕方ありません。負けたら終わりの高校野球。だからこそ、余計にこのサヨナラ負けは球史に残るほど印象的なシーンでした。
●夏休みの宿題考。(98/8/16)
 夏休みも残すところ半月。うちの小3の愚息もそろそろ「思い出の絵」とか「読書感想文」などという大物を片づけなければならないところに来ています。算数は得意だけど図工と国語が大の苦手な息子には、この手の宿題が最も鬼門となっていまして、学校に入学以来毎夏、親にハッパをかけられつつ何とか青息吐息でクリアしているといったところ。今もため息をつきながら絵を描いているところです。

 思い起こせば30年前、僕も子どもの頃はこの類の宿題に苦しめられていました。特にイヤだったのが「自由研究」。そんな小学校の低学年の子に自由に研究して発表することなどあろうはずもありません。親に手伝ってもらって何とか格好をつけていました。今、息子を見ていると当時の自分を見るようで陰ながらため息をつきそうになってしまいます。

 果たして夏休みにこうした大量の難しい宿題を出す意義はあるのでしょうか?確かに勉強の習慣を失わせないように、とか、長い休みでなければできないような課題をこなす、ということはあるのでしょうが、だからと言って無理に絵を描かせたり工作を作らせたり書道をやらせたり観察日記をつけさせたりしても仕方ないんじゃないかなぁ、という気がします。特に昔と違い、子どもの生活習慣も大きく変化してきた昨今、30年、40年前と同じような宿題を出す意味は皆無に等しいと思います。

 あの頃の子どもは塾にも通っていませんし公文式もやってません(うちの愚息もどちらもやってませんが)。家で勉強なんかしない、毎日近所の子どもたちと虫取りしたりして遊んでいる、そして夏休みの旅行と言っても親戚の家に数日行くくらいだったという経済状況が夏休みの前提にありました。だからこその宿題だったと思いますが、今は夏休みと言ってもそうそう子どもは近所で遊んでいませんし、大型家族旅行に出かける家庭もごく普通です。当然宿題のあり方、と言うか夏休みを子どもにどう過ごさせるか、というプラン自体が変化してこなければならないはずです。とりあえず画一的な宿題ではなく、長い休みを各人がどう過ごすのか、という自主的な方策を立てさせるべきではないでしょうか。教育界は世の中でも最も変化を好まない保守的な業界(?)だと思いますが、いい加減に新しい夏休みの宿題を考える時期だと思います。
●お盆はお気楽極楽。(98/8/15)
 我が社は残念ながらメーカーと違って、お盆だからと言って休みがあるわけではありません。それでも半分くらいの社員は2〜5日程度の休みを取っていますし、例え出勤していても、会社にかかってくる電話も激減するので、みんなのんびりと過ごしています。なにせお盆の会社は涼しくて暇で本当にお気楽極楽。羽を伸ばしてグタグタと過ごすに限ります。

 ただ世の中どこにでもイヤな人というのはいるもので、クライアントによっては自分たちがお盆休みに入るからと言って、その直前にオリエンをして、お盆明けにプレゼン、などというケースがたまにあります。こうなると敵はのんびり休んでいるにも関わらずこちらは必死にプランを作らなければなりません。お盆休みもなにもあったもんじゃない、ってことになります。

 もっとも流通関係のクライアントだと、本人達がお盆や年末年始に休めないものだから、こちらにもいつもと同じように仕事してよ、という要求をされることがあります。これはこれで向こうが働いているだけに文句が言いづらいところがあってイヤですね。それに流通の人たちは時期をずらして休んでいたりするけど、こちらは時期をずらしたら他のクライアントからは「なんで休んでるの?」なんて嫌味を言われたりするし。結構そのあたりが因果な商売だと思います。
●政治家は今こそ理想を。(98/8/14)
 世の中とにかく景気回復不況で困った失業率を何とかしろ、の大合唱。政治家はひたすら国民迎合の政策を打ち出し選挙目当てのごますりばかりですが、果たしてそんなことで良いのでしょうか?最近の風潮は理想を口にすると、青臭いだのカッコつけだの書生論だのと言われてバカにされてしまいますが、今の日本は明治維新、第二次大戦後に続く大混迷期、大改革期です。こんな乱世には実務家ばかりではなく、大きく高く理想を掲げられる強力な思想的リーダーが必要だと思われます。

 今回の混乱の発端、すなわち維新や終戦に当たるのは90年代初頭に起きた冷戦構造とバブル経済の崩壊でしょう。あれから約8年。明治政府が維新の混乱を収めるのは明治10年の西南戦争後。そして終戦から戦後体制が確立するのは、終戦後10年目の「55年体制」。どちらも新しい体制が築き上げられるには10年の時間が必要でした。今回の平成の大混迷にも同じだけの時間が必要だとすると、後2年ほどはかかることになります。逆に言えば、この2年くらいの間に不良債権問題や赤字国債問題などの目処をつけ、景気を回復基調にしなければならないわけです。

 しかし維新や戦後には強力なリーダーシップを発揮して、日本を引っ張った人たちがいました。また当時のリーダーたちは国民に安易に迎合せず、自分たちの理想とする日本を築くために体を張って頑張りました。しかし振り返って今の日本には、そういうリーダーがいるのでしょうか?国民に理想を語り、そのための痛みなら我慢しろと説ける政治家がいるのでしょうか?先の見えない時代だからこそ、理想を、ロマンを語り、国民に改革への熱気を伝えられる政治家が必要なはずです。その気概がない人物が首相の座にいる日本は、果たして3度目の大変革を乗り切れるのか、かなり不安な気がします。
●小錦にフェアプレー賞。(98/8/13)
 ウイスキーのコマーシャルでコミカルな演技を見せているサリーこと元大関小錦・佐ノ山親方が、ユネスコ国際フェアプレー賞トロフィー受賞者に選ばれました。このトロフィーはフェアプレー賞の中でも最高賞だそうで、過去に日本人で受賞しているのは、1968年度銅メダルを取ったメキシコ五輪サッカー代表と、1977年度バレーボールワールドカップにおける応援を評価された日本人観衆(これって一体誰が受け取ったんだろう?)の2組だけで、個人としては初の受賞だということです。思わず、たったそれだけ?という気もするくらい少ないですよね。それだけに今回の小錦の受賞は大変な名誉なんでしょう。

 振り返れば小錦くらい毀誉褒貶の激しかった力士もありません。いや、力士に限らず全てのスポーツマンを通して考えても、良きにつけ悪しきにつけ、これほど何かと話題になった人はほんの一握りしかいないでしょう。デビューした頃は「昭和の黒船」と呼ばれて恐れられるとともに、閉塞状況を打ち破るような一種の爽快感も伴って登場しました。横綱昇進問題を巡るゴタゴタの時には、「相撲は喧嘩だ」「横綱になれないのは人種差別だ」などの発言で(本当に小錦がそう言ったかどうかは別問題として)、伝統にこだわる相撲界を揺るがしただけでなく、多くの日本人の心の襞を刺激しました。そして大関陥落後は判官贔屓からか逆に相撲界でも一、二を競う人気力士として多くのファンに愛されながら相撲をとり続け、そして引退。今のコマーシャルもそのイメージの延長線上にあります。

 誰にも似ていないあの独特のシルエットとともに、小錦はずっと日本人の心に住み着き、いつもどこかに引っ掻き傷を作ってくれます。なぜか彼のやることなすこと全てが、日本人のアイデンティティを揺さぶるのです。小錦は日本人にとって合わせ鏡のような存在。彼を見ていることによって、日本人とは、日本の文化とは、どういうものなのだろうか、とついつい考えてしまいます。そんな小錦の「日本人」としての受賞。千代の富士は「国民栄誉賞」で、小錦は「ユネスコ国際フェアプレー賞」。その差に、いろいろな意味を見出して考えてしまうあたり、すでにまた小錦の術中にはまっているのかも知れません。
●3人の「超高校級」登場。(98/8/12)
 11日の甲子園では今大会話題の3人の超高校級選手が揃って登場し、それぞれ期待通りの活躍をしました。第1試合豊田大谷のスラッガー古木は、先制の2点タイムリー打を放ちました。古木についてはすでに去年の夏、2年生の時点でその将来性をここで論じました。今年はもっと成長して甲子園に戻ってくるかと思っていましたが、残念ながら3年生になってからはどうも打撃爆発とまではいっていないようです。予選でも1本のホームランも打てませんでしたし。それでも大舞台でのチャンスにきちんと結果を出すあたりは、さすがプロ注目の逸材です。

 第2試合は今大会ダントツの優勝候補・横浜のエース松坂が、エラー絡みの失点はあったものの軽く完投勝利を飾りました。150km近い速球を投げる松坂は間違いなく今秋のドラフトの目玉ですが、心配は甲子園優勝投手はプロで大成しないというジンクス。もし横浜の春夏連覇などということになると、投げすぎて21世紀の日本プロ野球界を支えるはずの投手が潰れてしまわないか心配です。

 そして第3試合。今大会ナンバーワン左腕と言われる鹿児島実業・杉内がなんとあの帝京・芝草(現日本ハム)以来のノーヒットノーランを達成してしまいました。松坂や沖縄水産のエース新垣などの陰に隠れていましたが、これで一気に杉内もメジャーの仲間入りです。この杉内が2回戦では横浜と対戦するのですから、これはまさに注目の一戦、大会前半最大の山場です。強打の横浜もそうそう簡単に打てるとは思えませんから、松坂と杉内の緊迫した投手戦になるのではないでしょうか。

 それにしても期待の選手がプレッシャーに負けず期待通りに活躍するとは、今年の高校生はなかなかメンタル面もタフにできているようです。こういう個性的な選手が多い多士済々の大会は楽しみが多いです。もっとも超高校級選手ばかりではなく、普通の選手の珍プレー好プレーでも高校野球はなぜか面白いんですけどね。
百人一首をどれだけ覚えていますか?(98/8/11)
 「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」という天智天皇の歌からはじまる「小倉百人一首」。高校生の頃に古文の授業で覚えさせられたなぁ、という懐かしい思い出が甦る方も多いことでしょう。僕の高校でも冬休みの宿題で百首全部暗記してくること、というのがありまして、お正月休みなのに「春過ぎて〜」だの「秋風に〜」だのと季節感もなにもなく丸暗記したものでした。当時はこんな古い歌を覚えて何の役に立つんだ、と憤ってみたりもしましたが、こうして大人になってみると、やはり何の役にも立っていないことがよくわかります(笑)。

 普通はかるた大会にでも出場するんじゃない限り、百人一首の知識など役に立つことなどないはずなのですが、実はこのたび仕事で思いっきり役に立ってしまいました。新聞広告の企画で百人一首のパロディを作らなければならなくなり(まあ「ならなく」したのは自分なんですが)、しかも全然時間がなかったので、約8時間で百首作ってしまったのです。一首作るのに5分かかっていないあたりが、僕の仕事のいい加減さ(笑)を示していますが、ただ高校時代に古文の授業で先生にいじめられた成果が20年後に花開いた(?)とは言えるような気がします。やはり古文の基礎的な教養と、百人一首のそれぞれの歌を曲がりなりにも理解しているという知識なしには、一首5分弱で元の歌をパロディすることはできなかったでしょう。無用と思われた知識と教養が、思わぬところで役に立つものだと、我ながら感心してしまいました。

 もっとも、本来こういう古典文学の知識や教養というものは、「役に立つかどうか」というプラグマティズムの観点からのみ語ってはいけないとは思っています。古典に限らず学問というものは、例え役に立たなくても知的な好奇心・探求心・興味をかき立てられる楽しみであるという側面を持っています。百人一首なら、千数百年前の人も、現代人と同じように恋の悩みや喜び、仕事の苦しみ、家族や親しい人への情愛、自然の美しさへの感動などを感じていたんだなぁ、と素直に読んで共感できれば良いのです。

 高校時代は「ひさかたの光のどけき春の日にしづごころなく花の散るらむ」(紀友則)という歌が好きでしたが、改めて今回読んでみると「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」(光孝天皇)が心にしみました。高校時代の方がストレスが溜まっていてのんびりした歌に惹かれたのでしょうかね。


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