幹事クリタのコーカイ日誌2017

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9月5日 ● ジャズと体罰。

 ジャズトランペット奏者の日野皓正が中学生をステージ上でビンタをした事件については賛否両論がマスコミやネットで渦巻いています。大まかな経緯としては、日野が指導している中学生がドラムのソロパートで演奏をやめず、それをやめさせるために日野がスティックを取り上げて投げ捨て、それでも素手で叩く中学生を往復ビンタして怒鳴りつけてやめさせたということです。この件について当該の中学生およびその父親は非を認め、指導は適切だったと語っているし、日野は自分たちは親子のような関係だったから問題ない指導だったと言っています。

 この事件の肝は背景や経緯がどうあれ、また日野が世界的なミュージシャンであろうがなかろうが、要は教育現場での体罰を容認するかどうかの一点だと思います。子どもの頃から当たり前のように体罰を受けて育ってきた僕たちのような世代には、実はこの程度の体罰には「慣れ」があって、実感としてはそれほど「ひどい」とは感じられません。子どもの頃には日常的に目にしていたような光景だからです。

 ただ、その実感を素直に信じて、だから「時には体罰もあり」と言うのは間違っていると思います。それはまさに「暴力を受けて育てられると、自分もまた暴力を使って育てる」という負の連鎖を素直に受け継いでいることになるわけで、ここは自分の実感よりも頭で考えた論理を優先すべきではないのかと思うのです。

 体罰は指導力不足以外のなにものでもありません。暴力という恐怖で従わせなければ言うことを聞かせられないのは、指導者が指導者たりえていないからです。日野も中学生の父親も、子どもとの信頼関係が構築されているから問題ないかのように話していますが、当の中学生が本心からそう思っているのかはわかりません。彼は問題を大きくさせたくない大人にそう言わされているだけという可能性も十分あると思います。

 そもそも舞い上がって演奏している中学生を止めるのに暴力的に振る舞う必要はないわけで、もっとソフトに止めることもできたはずです。あのシーンはどう見ても日野が怒りに任せて殴りつけたのですから、子どもの指導者としては完全に失格です。名プレーヤーは名伯楽とは限りません。

 僕が何よりこの事件で違和感を覚えるのは、これがジャズの発表会の現場だったということです。ジャズは黒人が支配と抑圧から解放されるために演奏していた音楽です。自由で楽しく、そして何でもありの音楽ではなかったのかと思うのです。もっとも暴力による抑圧から遠くにあるべきジャズの現場で体罰が起きるというのは、本当に「ジャズじゃないなぁ」と思うのです。


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