幹事クリタのコーカイ日誌2012

[ 前日翌日最新今月 ]


 
6月27日 ● ファンは公式な身分なのか?

 うちの娘は熱狂的な「ゆず」のファンです。「ゆずっこ」と言うらしいですが、とにかく明けても暮れてもゆずばかりで、正直家族としては面倒くさくてかないません。で、最近うちの息子は中島みゆきばかり聞いています。クルマの中ではずっとみゆきのCDをかけています。まあ僕も大学時代はかなりみゆきにはまっていたので、息子のことは言えませんが、やはりちょっと面倒くさいです。

 で、その娘と息子の会話。「おにい、そんなにみゆきが好きならファンになれば?」「うーん、俺もファンになっても良いかなぁと思うんだけど、ファンって結構周りからするとメンドくね?」「まあ気持ちはわかる。うちもゆずのファンになるまではそう思ってたから」「だからファンになるかどうか迷うんだよねぇ。ただ好きで聞いている方がいいかなぁって」。

 なんとも不思議な会話です。なんだ、その「ファンになる」って?毎日みゆきの曲聞いているのに、まだファンじゃないのか?ファンというのは、気付けばはまっていたというものではなく、どこかで国境を超えるように自分の意志で「なる」ものなのか?どうも「ファン」という言葉の定義が違うとしか思えません。

 彼らの中の「ファン」というのは、ファンクラブに入って、ファンという「公式」な身分になることを言うようです。それまではどれだけ好きであろうと「非公式」ファン、と言うか、単に好きなだけでファンではないということみたい。そんな「ファン」は、僕から見たら実に形式的で面倒くさいものです。好きならファンでいいじゃん、と思うのですが。

 これって「付き合ってください」という言葉がない間は、どれだけ親密な関係であっても付き合ってないし、彼氏彼女でもない、という考え方と同じです。僕たちの頃はそんな言葉などなくても、定期的にデートしていればそれは付き合っていることになっていたし、お互いに彼氏彼女だと思っていました。さらにはちゃんとしたプロポーズの言葉もなしに結婚するカップルもいました。昔は言葉よりも実態が優先されたのですが、今は言葉がないと実態は認められないようです。

 どれだけ好きであってもファンクラブに入らない間はファンではないと言う考え方は、僕のようにちゃんとしたプロポーズさえなしに結婚した人間としては、とてもついていけません。だって、それは裏返せば形式さえ伴えば実態は伴っていなくても認められるということですからね。「付き合ってください」「はい」という儀式さえクリアすれば、後は月に1回会うだけでも「公式」な彼氏彼女であり、ファンクラブに入ってさえいればCDを買わず曲を知らなくても「公式」なファンであることになるんですから。

 「付き合っていること」「ファンであること」を言葉とか形とかで保証されないと、自分の「好き」という気持ちさえ支えられないのだとしたら、それは結構寂しいことだと思いますが、たぶんこんなことを言っても子どもたちにしてみれば「何を言ってるのかよくわからない」となるんでしょうね。



twitterでもつぶやいています@kanjikurita

gooブログでも読めます「幹事クリタのコーカイブログ」