幹事クリタのコーカイ日誌2011

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1月21日 ● 幹事は絶滅危惧種。

 改めて言うまでもないことですが、「幹事クリタ」と名乗るくらいに僕は幹事をやる機会が多いです。こういう「幹事体質」なのは遺伝かも知れず、僕の母もそうですし、僕の娘もどうやら幹事体質らしく、よく友達との集まりの手配をしています。

 僕が幹事をやるのは別に幹事が好きだからではなく、人任せにするとイライラするからやっているのが本音です。他人の幹事ぶりを見ていて、やたらと効率が悪かったり、気を遣うべきことができていなかったりすると「何やってるんだ」と気になって仕方ありません。しかも、せっかく苦労してやってくれているのに文句を言っては申し訳ないと我慢しているので余計にストレスが溜まります。だったら自分がやった方が精神衛生に良いわい、と思って結局幹事を引き受けるのです。幹事の面倒臭さよりも見ている苛立ちの方が大きいということです。

 これは実は我が母も娘も同じらしく、揃って「見ていてイライラする」と言います。逆にのんびり屋の息子は少々の幹事の不手際など気にならず(と言うか、気がつかず)「別に良いんじゃない」と泰然としたものです。もっとも今は息子も大学の合唱部の副部長かなんかなので、幹事役が多いみたいですから、好むと好まざるとに関わらず幹事体質は引き継がれているのかも知れませんが。

 そんなわけで僕は自分の精神衛生のために幹事をやっていることも多いので、幹事の苦労については普通の人よりは耐性が高いと思います。もちろん、それでもワガママな人がいたりマイペースの人がいたりすると、まとめるのに苦心しますが、端が思うほどには気に病んではいません。ただこれからの世の中を考えると、僕のような幹事体質の人間は減っていくのではないかと思っています。

 それはまず昔に比べて今の若い世代は明らかに「個」で動く、もしくは小さなグループで動くのが好きなので、大集団をまとめる幹事のニーズがなくなってきています。それに集団に対する帰属意識が低く、お互いに迷惑をかけなければ好き勝手やっていてもOKという了承があるので、幹事があれこれ気を遣って統制する必要もありません。昔のように「右向け右」ではないのです。幹事する機会自体が減っていく上に、幹事のやるべきことも少なくなっていくのでは「幹事体質」の人間は育たないし、育てる意味もあまりありません。

 もちろん一気に世の中がひっくり返って明日から突然「幹事不要」の時代が来るわけではないのですが、すでに僕らが若者だった30年くらい前に比べると、学校や職場、地域社会などで集団行動する機会が少なくなってきていて、幹事の存在意義が薄れてきているのは感じます。このままいけば流行りの言い方の「若者の幹事離れ」が起きることでしょう。幹事の苦労も理解できなくなります。

 なんでそんなことをグダグダ書いているかというと、若い世代ほど「幹事ありがとう」という言葉がなかなか出てこないからです。幹事をやってもらったら、まずは幹事を労うというのが礼儀であり常識だと僕は思っていたのですが、最近ではその常識も忘れられてきています。それは若者が礼儀知らずということよりも、若者に「幹事」が理解されていないし、必要ともされていないからではないかと思うのです。まあ安易な世代論は気をつけた方が良いし、これで若者を責めるつもりもありませんが。

 ただ「幹事」はそろそろ絶滅危惧種に入れておいてもらっても良いでしょうか?想像してごらん、誰も幹事をしない世の中を、です。




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