幹事クリタのコーカイ日誌2010

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12月10日 ● ジョンが死んだ頃の日本の音楽シーン。

 少し遅れましたけど、ジョン・レノンのことを、と言うか、1980年冬の日本の音楽シーンのことを書こうと思います。

 ジョンが殺されたことを知ったのは、30年前の9日の夕刊か夕方のニュースだったと思います。8日に射殺されたと言っても、時差の関係で日本は9日。今のようにネットでニュースが流れる時代ではありませんから、新聞かテレビしか情報源はありません。ジョンが殺されたことはもちろん大ニュースでしたが、僕の中ではちょっと遠い出来事でした。「ありゃ、殺されちゃったの?」という感じで、ショックで立ちすくむというようなことでは全然ありませんでした。そのまま普通に夕食を取ってバラエティ番組を見ていたと思います。

 ジョンのことは正直忘れていました。そもそもビートルズ世代ではありません。確かに自分で買った3枚目のシングルレコードは『レット・イット・ビー』でした(ちなみに1枚目は『あなた』で2枚目は『イエスタディ・ワンス・モア』)。最近CDで再発された赤盤・青盤も持っていました。しかしそれは当時の10代としては普通というか、ファンではなくても「嗜み」としてのビートルズ体験に過ぎません。

 僕は中学から高校にかけてフォークソングと山口百恵にのめりこんでおり、大学2年生になっていた1980年はそのフォークとアイドルの大きな転換期でした。70年代のフォークソングからニューミュージックへと変わりつつある時期で、歌謡曲でも旧来のフォークでもないロックテイストを取り入れた新しい音楽が台頭していました。オリコンの年間チャートは1位から『ダンシング・オールナイト』『異邦人』『大都会』『ランナウェイ』『順子』『贈る言葉』とフォークロック系が独占。さらにオフコースの『さよなら』、財津和夫『Wake Up』、山下達郎の『RIDE ON TIME』なども我々大学生に熱く支持されていました。もちろんサザンもユーミンも中島みゆきも若く元気でした。

 アイドル界では10月に山口百恵が引退、入れ替わるように松田聖子がデビューしブレイクします。情念の70年代からポップな80年代へと変わる象徴のようなアイドルの女王交代劇。この冬、松田聖子の成功で女性アイドルブームが訪れようとしていました。男性アイドルでも田原俊彦、近藤真彦が相次いでデビューし、ジャニーズの黄金時代を築き始めます。マッチはジョンの死の直後、12月12日にデビューし、瞬く間に歌謡界を席巻します。

 そして大学生の間で話題になっていたのがイエロー・マジック・オーケストラ。1980年はYMOがシングル『ライディーン』、アルバム『増殖』を発表し、国内初のツアーを行い大ブレイクした年でした。もちろん当時の中年以上には全く理解されていませんでしたが、我々20才前後の若者の間では「めちゃくちゃ新しい」音楽、もっとも最先端の音楽として持てはやされていました。YMOは12月に日本武道館で公演をしてその人気は最高潮に達していました。

 ニューミュージック、アイドル、テクノそれぞれが盛り上がり、日本の音楽シーンがどんちゃん騒ぎをしている時に、突如伝えられたジョン・レノンの訃報。40才。19才の僕からしたらもう彼は「古い」音楽の人でした。テクノとビートルズの間に横たわる距離は半端じゃなく遠いと感じていました。もちろんジョンは嫌いじゃないし、むしろ好きな音楽家ではありましたが、誰も彼もがジョンの死に涙したわけでもないのです。こうして思い出すと、百恵の引退とジョンの死で70年代は幕を閉じ、80年代の喧噪が始まったことがわかります。僕の大好きな時代です。




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