幹事クリタのコーカイ日誌2009

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5月6日 ● 「いつまでも仲良しで」という幻想。

 小学校6年生の時、僕はクラスに本当に仲の良い友達が数人いました。僕は「これが親友というやつだ」と思い、永遠に友情は続くものだと信じていました。しかし、それが幻想だったと気づくのにあまり時間はかかりませんでした。  

別に喧嘩をしたわけではありません。ただ少しずつ疎遠になっていったというか、思春期になってそれぞれにやりたいことや好きなことができていき、それが成長するということなんですが、自然と歩む道が分かれていっただけのことです。

 ただ当時の僕にはそれはとてもショッキングな出来事で、どうしてあれほど仲が良くて、永遠に続く友情だと思っていたものがこんなに脆いのかと、そのこと自体に驚きおののいていました。中学でも高校でも大学でも、もちろん僕は親友と呼べるような友達ができましたが、どれもこれも次のステージに上がるたびに疎遠になっていきます。社会人になってからようやくそれにも慣れましたが、その頃からこれは僕だけのことなのか、誰でもそうなのかが疑問でした。

 世の中には子どもの頃からの付き合いの友達とすっかりオヤジになってからも相変わらずつるんで遊んでいる人がたくさんいます。残念ながら僕にはそんな友達はいません。僕は先に書いたように、違う場所にいくたびにそこで親しい友達ができてしまうので、以前の友達とはどうしても会う回数が減ってしまい、みんな「親友」から「昔の友達」にと変わってしまいます。

 状況としては異性との付き合いにも似ています。女の子と仲良くなって、僕は必ずこの付き合いは永遠だと思います。永遠の愛なんだと思い込むのです。しかし、残念なことに長くても数年、短ければ数ヶ月で「永遠」だったはずの愛は壊れてしまいます。残るのは「昔の彼女」だけ。

 男友達と彼女では違うでしょ、と思う人も多いでしょうが、僕の中ではあまり差がありません。多分僕は人と付き合う時に、どこかで線を引いていて、ごく一部のスペシャルな人だけを特別扱いしてしまうところがあるような気がします。その線を越えた人は僕の中では「全肯定」なのです。だから調子よく付き合っている時は本当にうまくいくのですが、どこかでその歯車が狂うと「全肯定」しているだけにかえって修正ができなくて、自壊してダメになってしまうのです。

 本当は他人を「全肯定」して全てを受け入れるなんて無理に決まっています。ある程度は距離を取って付き合うのが本来の賢いやり方なんでしょう。ただ、それでは僕は面白くないんですよね。人と付き合うなら相手が友達であれ彼女であり、しっかり気持ちが入らないと付き合っている意味がないと思ってしまうのです。ちょうど前に書いたように酒を飲むならへべれけになるまで酔わなければ意味がないと思っている人と同じです。僕は酒で自分が壊れるのがイヤなので飲み過ぎないようにいつも気を遣っていますが、こと人付き合いとなると、壊れるまでとことん、という派なんです。

 そして酒もいつか切れてしまい後には二日酔いだけが残るように、僕の人付き合いも永遠には続くことはなく、二日酔いのような後味の悪いものだけが残ります。本当に残念で哀しいことですが。