マンガ時評vol.31 98/1/25号

一条裕子の声にならない笑い。

 笑いにも様々な種類のものがあります。アバンギャルドなものや、しみじみとしたもの、古典的なもの、不条理なもの。話題になりやすいのは、どうしても新しい笑い、すなわち時代の先端をいくアバンギャルド系や不条理もの。昔なら赤塚不二夫や谷岡やすじ、山上たつひこに江口寿史。ちょっと前なら吉田戦車あたりが、時代を象徴するような爆笑王だったと思います。とにかくドッカーンと笑いが起きるマンガ家は、いつも時代の寵児でした。反対に古典的なしみじみとした笑いや、ちょっとした感覚のズレが微苦笑を呼ぶような作家は、なかなかその時代のトップランナーにはなりません。しかし、その反面息の長い人気を保つものです。以前取り上げた秋月りすは古典(と言うかコンサバ)派の代表格ですし、もう少しワビサビが入りますが、中崎タツヤもじんわりとした笑いで人気を維持し続けています。そして、現在そのタイプのマンガの代表格が、ビッグコミック・スピリッツ誌上に連載されている一条裕子『2組のお友達』です。声をたてずに、でも心の中の襞がひくひくと痙攣を起こすような笑いを誘われる作品です。

 この作者の前作『わさび』もかなりじんわりと笑いがくるギャグマンガでした。いや、この場合「ギャグ」という言葉は相応しくありません。「諧謔」という難しい漢字を使いたくなるような端正で淡々とした感じで、でも決して古くはない不思議な感覚の作品でした。主人公のお手伝い「ふみ」がいるのは、小津安二郎映画のような日常を続ける家庭・帯刀家。どこか登場人物みんなが奇妙にズレていて、そのズレにちょっと意地の悪い人間観察が盛り込まれている、そんな『わさび』の世界は、スピリッツの中でも異彩を放っていて、かなり僕としては好きでした。そして現在連載中の『2組のお友達』はさらにそのズレ方、意地悪さ、不可思議さがパワーアップしています。

 舞台は「お山の分校」。『二十四の瞳』をベースにしていることは、この分校の新任の先生の名前が「大石先生」であることからも明らかです。この分校の最大の謎は、普通の子どもたちと一緒に、なぜか老人たちも生徒として通学していることです。と言うよりも、分校の中心は彼ら老人であり、子どもたちは老人たちに振り回されて右往左往しているようです。最初はとまどっていた大石先生も、すっかり慣れてしまい、今では8才の子どもも82才の老人も、同じように生徒として扱っています。なかなかシュールな設定なりに妙に秩序バランスが保たれているのがこの「お山の分校」なのです。

 この不思議なバランスには、実は意味があります。子どもと老人、彼らは相似形の存在なのです。人間は年を取ると子どもに戻っていきます。子どもが大人になるために身につけた社会性、すなわち「仲良くする」とか「我慢する」とか「相手を思いやる」といった社会人としての最低限のマナーを、年を取るにつれてまた失っていき、老人は子どもと同じような存在に戻っていくからです。この「お山の分校」でも、どちらかと言うと子どもたちの方が老人たちより大人な、社会的な存在だったりします。老人の方が人間としてよりピュアなカタチである、ということを見せてくれるからこそ『2組のお友達』は読み手に不思議な笑いを提供することができるのです。

 『2組のお友達』が単なる笑いを誘うマンガではなく、しみじみとした安らぎや親近感を覚えさせるのは、この老人に対する素直な視線のせいだと思います。決して単なる老人賛歌を唱えているわけではありません。困った老人の性癖もしっかりと描かれています。しかし、意地悪な描き方の裏にも、人間に対する優しさがあるから不快にはなりません。そういう点では、やはり以前に取り上げた西原理恵子にも共通していると思います。人間に対する突き放し方と受け止め方のバランスが同じような感じです。そう言えばさくらももこも近いかな。女性マンガ家独特の感覚なのかも知れませんね。また今度ゆっくり検証してみましょう。