NEW YORK IS NOW! (BLUE NOTE)

ORNETTE COLEMAN (1968/4/29,5/7)

NEW YORK IS NOW!


【パーソネル】

ORNETTE COLEMAN (as,tp) DEWEY REDMAN (ts)
JIMMY GARRISON (b) ELVIN JONES (ds)

【収録曲】

THE GARDEN OF SOULS / TOY DANCE / BROAD WAY BLUES
ROUND TRIP / WE NOW INTERRUPT FOR A COMMERCIAL

【解説】

 あなたが今、このページを読んでいるのは何年の何月何日ですか? 僕はそのことが気になって仕方がありません。 というのもですね、このページが公開されるのは 2006年6月4日の予定なんですが、その2日後には地球的規模で大変なことが起きるかも知れないと言われているんですよね。 6月4日の2日後と言うと、2006年6月6日ということになるんですが、勘のいい人ならもう気付いたかも知れません。 そう、 『ヨハネの黙示録』 で獣の数字とされた “666” という数字になるのがこの日なんですが、ま、 “6” という数字が3つ並ぶこと自体はそれほど珍しくもないんですけどね。 例えば “6時6分6秒” という時間は1日に必ず2回、朝と夕方に訪れることになるんですが、ではこの時間が人類に災いを及ぼすことになるのかと言うと、残念ながらそれを完全に否定することは出来ません。例えば、ここにある1人の小学生がいるとしましょう。その名前をここでは仮に “たかし” としておきますが、たかし君の家は小学校まで歩いて25分かかるところにあります。そして、夏休みのラジオ体操は小学校のグラウンドで行なわれることになっております。 そんなある日のこと、たかし君が目を覚まして、ふとデジタルの目覚まし時計に目をやると、ちょうど “6時6分6秒” であったと。あかんやん!遅刻やん! これを災いと言わずして、何を災いと呼べばいいのでありましょうか?

 そして、2学期。 ある日、たかし君は宿題の算数のプリントと、体育の授業に使う赤白帽と、検便とをトリプルで忘れて来てしまいました。罰として放課後に校庭を走らされたり、居残り学習をさせられたりして、学校を出たのが 5時40分過ぎになってしまいました。 で、家にたどり着いてふとデジタルの目覚まし時計に目をやると、ちょうど “6時6分6秒” であったと。しまった! 「トムとジェリー」 の1本目を見損ねた! これを災いと言わずして、何を災いと呼べばいいのでありましょうか? …とまあ、 “6時6分6秒” という時間は1人の少年にこれほどまでの試練を与えることになるんですが、ま、たとえそれが “6時7分12秒” だったとしても遅刻は遅刻だし、 「トムとジェリー」 の1本目を見損ねることにも変わりはないんですけどね。そもそも、たかし君が寝坊したり、忘れ物をしたのが悪いのであって、自業自得という気もするんですが、いや、 “666” という数字は実に恐ろしいものでありますなぁ。。。 で、 2006年6月6日。 この数字の並びは、そう頻繁にやって来るわけではありません。 次に “6” がゾロ目になるのは 2066年6月6日だから、60年に一度ということになりますよね。 2066年6月6日では “6666” で、 “6” が1個多すぎるから駄目。…ということになれば、 3006年6月6日まで待たなければなりません。 1000年に一度ということになれば、これはもう、たかし君がラジオ体操に遅刻するのとは比べ物にならないような災いに見舞われたとしても、誰も文句は言えないところでありまして。

 でもまあ、西暦なんて所詮はガイジンが勝手に作ったものだしぃ。…という考え方もありますよね。確かに元号で言うとその日は “平成18年6月6日” となって、 “666” という数字は無関係ということになります。たとえ、ガイジンが災いに見舞われることになったとしても、日本人がそれに付き合うだけの義理はありません。 が、よくよく考えてみると “平成” などという元号は、たかだか18年ほど前に官房長官だった小渕恵三クンが勝手に作り出したものです。そんな歴史の浅いもので日本国の将来を占うというのはどだい無理な話でありまして、ここはやはり “神武天皇即位紀元” で考えなければならないと思うんですよね。神武天皇即位紀元というのはその名の通り、神武天皇が即位した年を元年とする暦であるわけですが、いちいち “神武天皇即位紀元” と言わなければならないのは長ったらしくて面倒なので、通称 “神武紀元皇紀” だとか、 “神武暦” だとか、ただ単に “皇紀” とか呼ばれていたりします。 日本史の授業と言うのは幕末までがクライマックスでありまして、明治とか、大正とか、昭和の時代に入ると途端にヤル気がなくなるものなんですが、にも関わらず終盤まできちんと授業を真面目に聞いていた人は、皇紀2600年を祝う提灯行列が行なわれた。…という話を覚えているかも知れません。 神武天皇が即位したのは西暦で言うと紀元前660年なので、皇紀2600年は西暦1940年 (昭和15年) ということになります。皇紀2500年ならともかく、皇紀2600年というのはやや中途半端な気もするんですが、日中戦争が膠着する中で、国民の戦意高揚のために提灯を持って行列などさせたのでありましょうな。

 で、戦前ならともかく、この平成の時代に今更 “皇紀” なんて。…と思う人がいるかも知れませんが、皇紀の考え方は今の時代にもしっかり受け継がれております。例えば、閏年というのがありますよね。閏年が4年に1度あるというのは子供でも知っています。ちょっと出来の悪い子供でもそれくらいの知識はあるんですが、もう少し賢い子供になると、閏年というのは西暦で4で割り切れる数字の年にあるんだよね。…ということも知っていたりします。が、実はあれ、西暦ではなくて皇紀によって定められているらしいんですよね。 神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス。但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス。…と、明治三十一年勅令第九十号 (閏年ニ関スル件) によって定められたのが今でも生きているわけなんですが、ま、西暦2000年は皇紀なら2660年ということになって、どちらも4を以て整数し得へき年であるので、実用上、西暦で考えても問題はないんですけど。 ということで西暦の 2006年6月6日でありますが、これを皇紀に直すと 660を足して、皇紀 2666年6月6日ということになります。 いや、これは恐ろしいことになってしまいました。 西暦と皇紀という、まったく成り立ちが異なる2つの暦において、図らずも偶然に “666” という獣の数字が現れてしまいました。しかも皇紀のほうは “666” の前に更に “66” という数字が付いております。 “66666” で、“6” が2個も多すぎるから駄目。…と楽観的に考えることも出来ますが、 “666” が 66倍にパワーアップした超・獣の数字と悲観的に捉えることも出来ます。ガイジンは “666” の等倍で大丈夫なのに、皇紀を用いている日本人はその 66倍。 これはもう、たかし君は 66日間連続でラジオ体操に遅刻することになるかも知れません。 40日ちょっとの夏休みが終わって2学期が始まっているのに、まだラジオ体操に遅刻し続けることになって、いや、これは大変な事態でありますなぁ。。。

 …といった “2006年6月6日脅威説” を声高に主張したりする人が世の中にはいたりするんですが、いや、学研の 『ムー』 の総力特集にそんな記事が載っていたんですよね。総力を挙げて人類の危機に警鐘を鳴らしてくれて、有難いと言うより他ありませんが、そもそもどうして “666” が獣の数字などと呼ばれているんですかね? ここはどうしても 『ヨハネの黙示録』 について言及しないわけにはいきませんが、 “666” が獣の数字だと決め付けておいてこれに言及しないようでは、記者としては減給モノですからね。 ま、僕は別にどこからも原稿料を貰っているわけではないので、ここで急に話を転じて、とまあそれはともかくとして、僕は “666” よりも断然 “69” のほうが好きなんですけどね。…という方向に話を持っていったとしても、誰からも文句を言われる筋合いはないんですが、本日は大変お日柄もよろしいようですので、簡単に 『ヨハネの黙示録』 について触れておきましょう。

 『ヨハネの黙示録』 は新約聖書の最後の書であり、新約の中で唯一預言書的性格を持つ書である。…ということなんですが、なるほど、預言の所なんですな。予言と預言というのは似ているようで否なるものなんですが、鞘インゲンと股インキンというのも、似ているようで違うものですからね。で、この『ヨハネの黙示録』 は人類滅亡について記されたものだと言われているわけですが、ノストラダムスの大予言との絡みでもよく語られましたよね。 “1999年7月” を何とか乗り越えたと思ったら今度は 2006年6月6日でありまして、なかなか心の休まる時がありませんが、ヨハネ君は黙示録の13章でこのように述べております。

 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。

   (中略)

 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ
 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
 ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は “666” である。

 いや、これは衝撃的ですな。僕はこれを見て大きなショックを受けてしまいました。こんなワケのわからん文章だけで、2006年6月6日に人類が危機に陥ると断言しちゃうとは!!…と思わずにはいられませんが、この 『ムー』 の総力特集によると、人類は既に “666” の数字に支配されているんだそうでありまして。 例えばですね、バーコードというのがありますよね。バーコードというのはアレです。バーのコードのことです。…ということくらいしか僕は知らないんですが、ま、詳しいことは ここ を見て貰うとして。 で、ここで注目すべきは他のものに比べてちょっぴり長くなっているレフトガードバーとセンターバーとライトガードバーなんですが、この中くらいの太さのバーが2本並んでいるものは、数字で言うと “6” を示すんだそうです。どのバーコードでもこの3つの部分だけは共通なんですが、つまりすべてのバーコードは “666” に支配されていると。バーコードによる商品管理は、ヨハネの福音書にある “この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。” …という記述と見事なまでに一致しているわけですが、いやあ、馬鹿にしたものでもありませんな、ヨハネ君の預言書というのも。 それだけではありません。 あなたが今、まさしく見ているところのインターネットのサイトがありますよね。ここにも “666” という獣の数字が潜んでおります。例えばこの 『塩サバ通信』 のミライネット版のURLは http://www.mirai.ne.jp/~yinaba/ なんですが、問題はこの “www” の部分です。ちょっと賢い子供であればこれが “World-Wide Web” の略で、世界中に蜘蛛の巣のように張り巡らされたネットワークのことだよね。…ということくらいは知っているわけでありますが、これはあくまでも後付けでありまして、略称が “www” になるように無理矢理考え出したというのが正解なんだそうです。だから略称が “www” になりさえすれば、別に “Wakame Wakige Wakanohana” (ワカメと腋毛と若乃花) でも何でもよかったんですが、では逆に、どうして “www” にそれ程まで拘ったのでありましょうか?

 それを読み解くヒントはですね、 “ゲマトリア数秘術” にあります。 また何だかワケの分からないものが登場しましたが、ま、簡単に言うとアルファベットを数字に置き換えるという秘術らしいんですけどね。 で、この秘術によってアルファベットの “W” を数字に直すと “6” になるんだそうで、いや、どうしてそういうことになるのかはよく分からんのですが、何せ秘術ですからね。僕たちの知らないところで、秘密のうちにそういうことになっちゃったんでしょう。 いずれにせよ、URLに必ず “www” という文字が付くのは “666” という獣の数字による人類支配に他ならないわけでありまして、そもそもコンピュータそのものが危ないという説もあるんですよね。アルファベットの “A・B・C・D・E…” を “6・12・18・24・30…” と6の倍数に置き換えてやると、“COMPUTER” は18+90+78+96+126+120+30+108= “666” となります。 いや、こうなってくるとコンピュータで興味本位に獣姦サイトなどを見ていると、そのうちにカバあたりにガバっと襲われて、そのまま支配されることになっちゃうかも知れません。いや、気をつけなければなりませんな。 いずれにせよ、僕はただ、あなたがこれを読んでいるのが 2006年の 6月4日か 5日であることを祈るしかありません。それならまだ間に合います。 6月6日には朝寝坊をしない。算数のプリントと赤白帽と検便を忘れない。獣姦サイトは見ない。その事に気をつけて、この未曾有の危機を乗り越えようではありませんか。

 ということで、今日はオーネット・コールマンです。もしかしたら人類が滅亡するかも知れないという危機に直面しているのに、暢気にジャズなど聴いている場合ではない!…と思われるかも知れませんが、今のうちに自分の葬式の時に流してもらう音楽を真剣に考えておいたほうがいいような気もしますしね。 ま、人類が全滅ということになれば葬式どころの話ではないと思うんですが、さすがにそこまではいかないような気もします。ガイジンはどうなっちゃうか分かりませんが、少なくとも日本人は大丈夫です。皇紀を用いている日本では “666” が 66倍になるのではなかったのか?…と思われるかも知れませんが、我が国には強い味方が付いておりました。弥勒菩薩というのがソレなんですが、どうやら “666” の危機を弥勒が救ってくれるらしいんですよね。どうして救ってくれるのかと言うと、 “666” は “6” が3つで “みろく” だから、きっと大丈夫。…という事なんですが、それを信じてここはひとつ、落ち着いてジャズに耳を傾けてみることにしようではありませんか。 ということで今日はオーネット・コールマンなんですが、いや、まったくソソられるものがありませんよね。少なくとも自分の葬式の時に流してもらう音楽としては絶対にチョイスしたくないところなんですが、ちなみに僕が考えているのはいまのところ、

  通夜 : 「ラウンド・ミッドナイト」 (マイルス・デイビス)
  出棺 : 「トゥルース・イズ・マーチング・イン」 (アルバート・アイラー)
  火葬 : 「炎」 (冠二郎)

というラインナップなんですけど。燃えろ燃えろ燃えろ〜♪ の歌声に合わせて昇天出来たら、どんなに幸せなことでありましょうか。 焼香の時に、ショーコー、ショーコー、ショコショコショーコー♪ という 「麻原彰晃の歌」 を流すのもいいかも知れません。 で、自分の葬式の時には流したくないんだけど、とりあえず今日のところは紹介しておかなければならないオーネット・コールマンなんですが、とりあえず 『ニューヨーク・イズ・ナウ!』 なんてのはどうですかね? 内容はともかくとして、アルバム・タイトルがとってもナウくていいと思うんですが、あ、今のヤングはもう、ナウいという言葉を使わないんでしたっけ? 今は、イマいと言うんでしたっけ? ま、それはともかく、新鋭のデューイ・レッドマンを加えたピアノレス・カルテットで、リズム・セクションにジミー・ギャリソンエルビン・ジョーンズというコルトレーンな2人を起用しているところも見逃せませんよね。ちなみにこのアルバムは発売当時 “Vol.1” と銘打たれていたんですが、結局のところ “Vol.2” というのは世の中には出なくて、同日・同メンバーによる 『ラブ・コール』 が実質的には “Vol.2” に相当するようですが、そんなことでまあ、では1曲目から聴いてみることにしましょうか。

 まずはえーと、 「ザ・ガーデン・オブ・ソウルズ」 という曲ですか。僕が持っているCDは輸入盤でありまして、ガイジンというのは平気で曲順をいじったりする人種でありますので、オリジナルでもこの曲順なのかどうかサダカではありませんが、ヘタをすると 『ラブ・コール』 とごっちゃにして、録音順に再構築するといった余計なことまでしかねませんからね。とりあえず、僕の持っている輸入盤が正しいという前提で話を進めますが、この曲はですね、穏やかです。 穏やかにして、たおやかにして、スルツカヤ。…といった感じなんですが、 “フリージャズ=意味不明フレーズの垂れ流し” といったイメージからは少し掛け離れた美学が感じられるような気がします。 何せ、 「ザ・魂の庭」 ですからね。 コールマンのプレイから枯山水のようなワビサビを汲み取るのは、汲み取り車の運転手だけではないと思うんですが、たとえ垂れ流したとしてもちゃんと汲み取ってくれるから大丈夫なわけでありまして。

 アルトとテナーの2管に、時折、ジミー・ギャリソンのアルコが絡むテーマ部は荘厳にしてスピリチュアルでありまして、それがコールマンのソロになると、一転して軽やかなカロヤンアポジカ。…といった感じになっちゃうところが、とっても育毛剤でありますな。雰囲気としてはアレです。 『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』 。 あのシンプルで、プリミティブで、アクティブで、モロ見え恥部な世界がここでも展開されておりまして、いや、すべてをさらけ出してこそ初めて、真の “フリー” と呼べるわけですからね。 フリチンという言葉の真意もここにあるような気がするんですが、スルツカヤのフリチンというのも、なかなかよかったんですけどね。フィギュアスケートはやはり、テクニカル・ルーティンよりもフリー・ルーティン、略してフリチンのほうが見応えがあると思うんですが、えーと、続いてのソロはデューイ・レッドマンでありますか。 こちらはですね、ビール瓶の口に息を吹き込んで、ボーっと鳴らすような濁ったトーンで演奏を開始しておりまして、さすがは新鋭らしく、いきなりフリーなアタックでありますな。その後もテナーを吹きながら唸り声をあげる奏法などを駆使し、これぞまさしくフリー・ジャズと言いたくなるような世界を作り上げていくわけですが、アーチー・シェップにちょっぴり似てないこともないような気がしないでもありません。 とまあそんなことで、最後はまたあのスピリチュアルなテーマに戻って、おしまい。 ま、最初に危惧していたほど、我慢出来ないような苦痛というワケではなかったんですが、ま、普通の人が聴いて楽しいかと言われると、その答えは間違いなく “否” なんですけどね。 フリージャズにしては…という但し書き付きで、まずまず聴きやすい部類ではないかと思うんですけど。

 続いて2曲目は 「トイ・ダンス」 という曲です。 「おもちゃの踊り」。 何だか楽しいそうですね。あの、バリバリ保守派というイメージの強いジョン・ルイスでさえ、オーネットの作曲の才能を認めていたと言われておりますが、確かにこの人の作る曲は独特の味があって悪くないと思いますね。ま、それほどよくもないんですが、この 「トイ・ダンス」 は、思わず雨樋だって踊りだしちゃいそうな明るい曲調となっておりまして、雨樋が踊ればつられて甘鯛だって踊りだすかもしれなくて、ちなみに甘鯛というのはですね、粕漬けにすると美味しいですよね。甘糟りり子も確かにそんなことを言っておりましたが、ま、個人的には甘糟りり子よりも、辛酸なめ子のほうが好きなんですけど。 で、明るいテーマに続いて登場するコールマンのソロは、前曲にも増してゴールデン・サークルな気分に満ち溢れておりまして、あのライブ盤に耐えられるだけの精神力があれば、きっとこの作品も大丈夫なのではなかろうかと。 ま、問題はデューイ・レッドマンくんのフリー攻撃に耐えられるかどうかなんですが、ここでの彼のプレイはフリーキーなトーンも控え目で、フレージングもわりとオーソドックスだったりするので、ごく普通のあまり面白くないフリー・ジャズとして、それなりに楽しめるのではなかろうかと。 で、書くのを忘れておりましたが、コールマンとレッドマンの間にはエルビン・ジョーンズのドラム・ソロもフィーチャーされておりまして、いかにもこの人らしい豪快にして繊細なタイコの叩きっぷりを堪能することが出来ます。カツオをたたかせたら板前に負けちゃうかも知れませんが、タイコを叩かせれば、この人の右に出るのはロシア人のミギニデルスキー君くらいだと言われてますからね。そんな得体の知れないロシア人を出さねばならないほど、僕の解説もそろそろ書くことがなくなってきちゃいましたが、そんなことでまあ、テーマに戻って、おしまい。

 3曲目の 「ブロード・ウェイ・ブルース」 も、何だか気分がウキウキしちゃような明るいムードのリフ・ブルースでありまして、曲自体も、ソロ先発のオーネットのプレイもかなり普通っぽい出来となっておりますな。特にアドリブ・パートに入って、エルビン、ちゃんと仕事してるのか?…と言いたくなっちゃうほどリズムが単純化されるところがミソでありまして、何も仕事というのは手間と暇と時間をかけるばかりが能ではないですからね。手を抜けるところでは手を抜いて、休めるところでは休んで、サボれるところではサボって、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに “でくのぼう” と呼ばれ、いつも “うまい棒” をカジっている。そういう人ではまったく何の役にも立たんのですが、ま、ここでもエルビン君は前半こそ手抜きモードながらも、中盤以降ではそれなりにタイコを叩いていますからね。 で、前半はシンプルだったコールマンのソロも、中盤以降は次第に熱を帯びて、徐々にワケが分からなくなってくるんですが、いや、そろそろ聴いているほうとしても次第に苦しくなって来ちゃいましたな。このまま原稿書きを放棄して、線香焚きでもしたいところなんですが、ま、そんなことをしてみたところで部屋の中が線香臭くなるだけで、何がどうなるというわけでもないんですけど。

 ということで、続いてはレッドマンのソロなんですが、そろそろソロで外した音を吹きたくなってきちゃったようで、時おりフリーキーなトーンを駆使したりして、斬新にして革新的で、香田晋なプレイを展開しております。いいですよねぇ、 「酒場の金魚」 。 “サカキン” の愛称で知られるナガナワ所長代理の愛唱歌でありますが、最近、僕は 「巡恋歌」 しか歌っていないので、そろそろレパートリーを増やしたいところなんですけどね。 とりあえず車の中で 「クリスマスキャロルの頃には」 を練習したりしているんですが、歌っていると樹木希林の顔が浮かんで来るところがちょっぴりネックではあるんですけど。 それ以前の問題として、難しくてとても物にはならないような気もするんですが、クリスマスキャロルが無理だとすれば、クリスタルキングの 「大都会」 にするとか。…って、あれこそ歌うのがむちゃくちゃ難しそうなんですが、ま、声が低いほうのパートなら何とかなりそうな気もするんですけど。 裏切りの言葉に、故郷を離れ、わずかな望みを、求めさすらう俺なのさ〜♪ と、パンチの人が歌い出して、世界が急に任侠演歌に転じるところが僕は好きでした。 誰かが、あ〜あ〜、果てしない、夢を追い続けぇ〜えええ♪ の部分を担当してくれるなら、チャレンジしてみてもいいんですけどね。 とまあそんなことで、テーマに戻って、おしまい。

 僕の持っているCDでは、ここで 「ブロード・ウェイ・ブルース」 の別テイクということになるんですが、無視して先に進みます。 続いては 「ラウンド・トリップ」 という曲なんですが、ま、いかにもオーネットでコールマンな作風でありますな。テーマに続いて登場するコールマンのソロは相変わらずでありまして、どの曲でも一緒やん。…という気がしないでもないんですが、フリー・ジャズにはコードやモードの縛りがないので、どれも似たような解釈になったとしても別に不思議ではないんですけどね。アイロンや掃除機ならともかく、ジャズの世界ではコードレスというのもちょっと考えものやな。…という気がしないでもないんですが、やはり緊縛プレイにはある程度の縛りが必要だと思うんですよね。フリー (自由) という名のもとにみんながフリチンになってしまっては、露出狂としての立場がなくなってしまうわけでありまして、ま、そういう考え方の人にはあまりオーネットの音楽は合わないのかも知れませんけど。 で、ソロ2番手のデューイ・レッドマンも自由奔放な自分だけの世界に没入しておりまして、もはや僕たちが立ち入れるような透間はどこにも見当たりません。 挙げ句、演奏はコレクティブ・インプロヴィゼーションへと突入するわけでありますが、こうなってくるともう、ワヤですよね。 集団即興演奏の終盤、故意なのかそれとも間違えたのか、レッドマンが 「ブロード・ウェイ・ブルース」 のテーマの出だしを1小節ほど吹いたりしておりますが、あるいはどの曲を演奏していたのか分からなくなっちゃったのかも知れませんね。 で、その時点でレッドマンが離脱してしばらくアルトのソロだけが続いて、「ラウンド・トリップ」 のテーマに戻って、おしまい。

 さ、ラストです。 「ウイ・ナウ・インタラプト・フォー・ア・コマーシャル」 。 「我々はコマーシャルのために今妨害する」 というタイトルが示す通り、これは反商業主義の極みのような音楽でありますな。つまりまあ、分かりやすく言えば、商売にならん。…ということなんですが、もはや嫌がらせとしか思えないようなノイズの固まりのようなサウンドが展開されております。オーネットはどうやら禁断の楽器ヴァイオリンにまで手を出してしまったようで、世の中に耳障りな音というのは数あれど、一番タチが悪いのはオーネットが演奏するヴァイオリンではないかと僕は思っております。その腕前はマスオさんレベルではないかという気がするんですが、ま、この曲の唯一の救いは3分19秒と、演奏時間がさほど長くないところでありまして、これがもし 27分43秒くらいあったとしたら、恐らく生きる希望を無くしてしまうのではなかろうかと。 ま、そんなところで、今日のところは、おしまい。

【総合評価】

 3曲目までが我慢の限度…でありますな、こりゃ。 2曲目まではなかなかいい感じだったんですけどねぇ。。。


INDEX
BACK NEXT