THE SUMMER KNOWS (EAST WIND)

ART FARMER (1976/5/12,13)

THE SUMMER KNOWS


【パーソネル】

ART FARMER (flh) CEDER WALTON (p) SAM JONES (b) BILLY HIGGINS (ds)
【収録曲】

THE SUMMER KNOWS / MANHA DO CARNAVAL / ALFIE
WHEN I FALL IN LOVE / DITTY / I SHOULD CARE

【解説】

 和菓子と言えば “饅頭” です。 ナボナがお菓子のホームラン王なら、饅頭は和菓子のネブカドネザル王だと思います。…って、何だかさほどメジャーではない王様の名前が出てきましたが、和菓子の王様が饅頭であるという提唱は、満場一致で採択されるに違いありません。いや、世の中には饅頭よりも羊羹のほうが好きな人もいるし、落雁こそがキング・オブ・和菓子の地位に相応しいと考える人もいるだろうから、いくら饅頭だからって、満場一致というのはちょっとオーバーではないか?…という気もするんですが、例えばですね。 “饅頭こそが和菓子の王様だと思っている人の集い” …といった集会で採決を取れば、満場一致で饅頭が王様に選出される可能性がないとは言い切れません。かように饅頭というのは饅頭好きの人たちの間では絶大な支持を得ているわけでありますが、僕はですね、さほど饅頭が好きというわけではありません。だって、甘いしー。

  ところでどうして “饅頭” というのは “饅頭” と書いて “まんじゅう” と読むんですかね?普通に考えたら “饅頭” というのは “まんとう” とか、 “まんあたま” とか、 “まんがしら” とか、 “うなぎあたま” としか読めないような気がするんですが…、という問題が前回からの引継ぎ事項となっておりました。 “ういろうネタ” でこれと言ったオチを思い付かずに、連載形式にして逃げたわけですが、いや、さすがに “饅頭と厨子王” というタイトルは自分でも恥ずかしくなってきたので、使わないでおこうと思うんですけどね。 “饅頭という苦渋の選択” 。 これで行こう!…と思うんですが、饅頭の甘さと苦渋の苦さとのコントラストが絶妙であると思います。…というのがこのタイトルを選択した理由なんですけどね。で、そもそもどうして “饅頭” と書いて “まんじゅう” と読むのかと言うと、 “温州みかん” と書いて “うんしゅう” と読んだり、 “外郎” と書いて “ういろう” と読んだりするのと同様、中国人が考えたことでありますので、日本の僕たちにはどうすることも出来ないんですよね。…ということなんだろうなと思っていたんですが、 “饅頭” の場合は若干事情が違っておりました。中国にも饅頭というのがあって、それは一体どのような饅頭なのかと言うと、恐らく中華まんのようなものだと思うんですが、中国の人たちはですね、饅頭のことを “まんとう” と読んでいるんですよね。何だかこう、もの凄く素直な読み方なんですが、中国の人たちがごく普通に “まんとう” と読んでいるのに、どうして我々日本人は “まんじゅう” などという無理な読み方をするようになったんでしょうか?

 まんじゅうの漢字 「饅頭」 は、漢語 「饅頭 (まんとう) 」 の借用語で、 「頭」 を 「じゅう」 と唐音読みして 「まんじゅう」 となった。…って、いや、調べてみたらただそれだけの話で、面白くも何ともなかったんですが、漢字の読み方には漢音や呉音の他に、唐音読みという系統もあったんですな。僕は中国の歴史にはめっぽう弱いので、漢と呉と唐とでは、時代的に何が一体どういう順序になるのかまったく検討がつかないんですが、漢字と言うのは恐らく、漢字というくらいだから漢の時代に日本にやって来たものだと思うんですよね。でなければ、漢字と言うのは呉字 (ごじ) とか唐字 (とうじ) とか、そういう名前になっていたと思うんですが、呉字だと何だか誤字ばかりになっちゃいそうだし、唐字だと冬至の日に中風除けのカボチャを食べなければならないしで、何かと面倒なことになりそうなので、漢字という名前に落ち着いたのは日本の歴史にとってはいいことだったと思うんですけどね。 ただここで少し話がややこしいのは、唐の時代に遣唐使の健闘によってもたらされた漢字の読み方は “唐音” ではなくて “漢音” なんだそうでありまして、 “唐音” というのは鎌倉時代になってから禅宗なんかと一緒に入ってきたものなんですな。ただ、このカマクラ風の漢字の読みというのはキャバクラほどにも大衆には普及しなくて、どちらかというと特殊な印象を与えるものが少なくありません。

 例えば “” という字は呉音では “ギョウ” と読みます。 ちなみに呉音の “呉” というのは揚子江下流の地域を示す言葉なんだそうで、僧侶によって朝鮮半島経由で日本にもたらされた読み方なんだそうです。 “行列” と書いて “ぎょうれつ” と読む。これが呉音です。漢音だと “行進” のように “コウ” と発音することになるんですが、これが唐音だと “アン” になるというのだから、これは普通ではちょっと読めませんよね。 “行灯 (あんどん) ” とか “行脚 (あんぎゃ) ” といった読み方がその例です。 で、問題の “” という字は呉音では “” 、漢音では “トウ” 、そして唐音では “ジュウ” となるんですが、 “饅頭” を敢えてマイナーな唐音で “まんじゅう” と読ませるということは、饅頭が鎌倉時代になって禅宗との絡みで日本にもたらされたのではないか?…という推測がなされるんですが、ということで、続いては饅頭の歴史について調べてみたいと思うんですけどね。

 君は “肉まん” と “あんまん” とでは、どちらが好きかな?僕はですね、断然 “肉まん” 派であります。世の中には “罪を憎んで、人を憎まん” という言葉がありますが、僕は罪や人は憎んでも、肉まんは憎まん。…と、それくらい肉まんのことを愛しております。どうして僕があんまんよりも肉まんのほうが好きなのかというと、あんまんというのは、ただ甘いだけですからね。それに比べて肉まんのほうは肉の味がするし、タケノコの味もするし、肉まんの具の味もするしで、バラエティに富んでますからね。そもそも歴史的に見ても、中華まんというのは肉まんである。…ということになっているようですが、世界で初めて饅頭を考案したのはですね、かの有名な諸葛孔明なんだそうですな。泣いて馬謖を斬った、あの諸葛孔明であります。当時の中国では川の氾濫を防ぐため、川の神サマに人身御供として人間の頭を捧げたりしていたんですが、そんな野蛮な風習はアカン。…というので、羊や豚の肉を小麦粉でくるんだものを人の頭に見立てて、神サマに供えることにしたんだそうでありまして。いや、そんな子供だましのやり方で川の神サマが納得したのか?…というのは甚だ疑問なんですが、ま、パチモンでも一応、中身は肉なんだしぃ。…というので、それなりに効果はあったのかも知れませんね。で、この話から饅頭に “頭” という字が使われている理由も明らかになったんですが、では “饅” のほうはどこから来たのかと言うと、でもまあ、蛮人の頭ならそのまま供えてもいいよね?…という人種差別的な発想から、最初は “蛮頭 (まんとう) ” と呼ばれていたんだそうでありまして。 “蛮” と書いて “まん” と読むというのは日本人にはあまり馴染みがないんですが、漢字の本場である中国人がそう決めてしまった以上、日本人の僕にはどうすることも出来ないわけでありまして。 で、最初のうちはお供え物として川の中に “蛮頭” を投げ入れていたんですが、そのうちに “蛮頭” を蒸して食べたらけっこう美味しいんじゃないか?…と考える人が出てきて、でも “蛮頭” では何だかアレルギーで蕁麻疹が出たり、食中毒で下痢になったりするような気がするしぃ。…というので、同じ “まんとう” という読みで “饅頭” という字を当てるようになった模様であります。

 その中国の肉饅頭をですね、日本に輸入したのは林浄因という人だと言われています。この人は1349年に禅宗の僧と一緒に中国からやって来たんだそうですが、1349年というと、えーと、室町幕府が出来て 10年ちょっと…といった時期ですかね? カマクラ風の唐音読みがキャバクラ嬢にウケる “旬” の時期はとうに過ぎたとはいえ、時代から取り残されたおじさん達が、今、唐音がナウい!…とか言って、粋がって使っていた可能性は非常に高いと言えるでしょう。かくして “饅頭” は日本に来て “まんじゅう” と呼ばれるようになったんですが、林クンはですね、 “饅頭” を禅僧が食べるお茶菓子にしようと考えていたんだそうです。 が、坊主が食うのに “肉まん” というのはちょっとまずいんぢゃないか?…というので、中に小豆のアンコを入れた坊主向けの “饅頭” が考案されて、現在に至るというわけでありますな。 で、最近では一口に饅頭と言っても色々な種類の饅頭がありますよね。一口に饅頭と言っても “一口饅頭” もあれば “薄皮饅頭” もあるし、 “もみじ饅頭” もあれば、 “かえる饅頭” だってあります。そういえば “かえる饅頭” のことを “かえまん” という略称で呼ぶことに、カエルのカオル君はだんこ反対しているようでありますが、 “もみじ饅頭” のことを “もみまん” と呼ぶ略称はけっこう浸透しているようでありまして、広島では “もみまんソフト” という、もみじ饅頭フレーバーのソフトクリームも売りに出されているそうです。 とまあそんなことで、続いては “羊羹” なんですが、キング・オブ・和菓子の地位こそ饅頭に譲ったものの、羊羹というのも和菓子の代表選手であることは間違いありません。羊羹はいいですよね。 “洋館で羊羹をよう噛んで食べる。” …という極め付けのギャグがあるところが羊羹の強みなんですが、ま、羊羹をよう噛んで食べてみたところで、ニチャニチャと歯に引っ付くだけで、あまり得られるものは多くないような気がするんですけど。

  “羊羹” と言うのはですね、元々は中国の料理で、羊の羹 (あつもの) なんだそうですね。“羹” (あつもの) というのはどういうものなのかというと、熱いものであるわけなんですが、 “羹 (あつもの) に懲りて、膾 (なます) を吹く” という諺もありますよね。熱いものを食べて口の中を火傷した人が、用心して冷たい膾 (なます) までフーフーして食べている様を詠んだものなんですが、 “羊羹” とはすなわち、羊の肉を煮てゼラチンで固めたものであったと。それが日本に伝わる際にですね、 “肉食はいかん→小豆のアンコで代用” という饅頭の時とまったく同じ経緯をたどって、今日の和菓子としての “羊羹” が誕生したわけですが、なるほど。羊の羹であれば、確かによう噛んで食べたほうがいいかも知れませんね。ちなみに羊の肉を使わない坊主向け和式羊羹の初期のものは小豆と小麦粉を蒸して作る “蒸し羊羹” だったそうで、そこから “外郎(ういろう)” が派生したりもしておりますが、 1589年に和歌山の駿河屋岡本善右衛門によって、はじめて “練り羊羹” がつくられたんだそうです。これは寒天に餡を加えて練り固めたものなんですが、 “練り羊羹” から寒天を減らして水分を多くすると “水羊羹” になるんだそうです。いや、 “水羊羹” はいいですよね。僕はあまり “羊羹” が好きではないんですが、 “水羊羹” というのはけっこう好きです。お中元に貰っても、それほど迷惑ではないかな?…という気がするんですが、いや、どうせ貰うのなら “寒天ゼリー” のほうが嬉しいんですけどね。 で、 “寒天ゼリー” と言えば、 こんな名前のお菓子 もあるんですな。独立行政法人・農畜産業振興機構ともあろうものが、公の場でこのような単語をホームページの見出しにデカデカと書いてもいいのか?…と、ちょっと心配になるんですが、ま、これも規制緩和の一環ということなのかも知れませんね。

 とまあそんなことで、再び饅頭に話を戻しますが、名古屋近辺で割りと普通に売られている和菓子にですね、 “鬼まんじゅう” というのがあるんですけどね。饅頭と言っても中にアンコが入っているわけではなく、形がまんじゅう型をしているわけでもなく、まったく饅頭らしくない食べ物なんですが、おそらく蒸したサツマイモを角切りにして、小麦粉で固めて作るんだと思うんですけどね。見た目としては、 こんな感じ であります。僕はこれを見るといつも、 “生でサツマイモを齧ったら気持ち悪くなって、思わず吐いてしまったゲロを3日間ほど放置した状態” みたいやな。…と思ってしまうんですが、名古屋フェアみたいなところで “鬼まんじゅう” を見掛けたら、是非とも一度買ってみてくださいね。 とまあそんなことで、今日のところはおしまい。

 ということで、今日はアート・ファーマーです。 とまあそれはそうと、1級管工事施工監理技師の実地試験でしたなぁ。 “2ちゃんねる” に こんな スレがあったんですが、えー?アンカー引き抜きの計算問題の答え、490ニュートン?僕の計算では100とか200とか、何だか凄くキリのいい数字になったような気がするので、これはもう間違いなく間違っておりますな。ま、ぜんぜん自信が無かった設備図面の間違いを正す問題が、4問中2問くらいは “お情け点” を貰えなくもないかな?…という気がしないでもないので、それだけが救いなんですけどね。が、一番の問題は “施工体験記述” でありまして、それはもう実に素晴らしい施工体験を記述することが出来たんですが、そもそも上水道工事というのはこの試験では “管工事” とは認められないという話もあって、となるとアレですよね。僕の回答は物事の根本から間違っていたということになりますよね。もし、それが原因で落ちたとすれば、うちの会社でやってる仕事が悪い!…ということで、僕に責任はありません。 とか言ってるうちに 模範解答 らしきものが発表されましたが、これを見ているうちに気分が次第にやさぐれてきちゃいました。こういう時にはですね、 『ザ・サマー・ノウズ』 ですよね。この作品はですね、まず第1に選曲がいいです。日本のレコード会社が企画・製作しているだけに、日本人好みの哀愁スタンダードがたんまりと並んでおります。アルバム・タイトルになっている 「思い出の夏」 という曲をファーマー君は知らなかったそうですが、そんなことはお構い無しに無理やり演奏させてしまうところが、とっても強引で素晴らしいと思います。プロデューサーと押し寿司は、それくらい押しが強くないと駄目ですからね。で、このアルバムはですね、何と言ってもジャケットのセンスが抜群ですよね。小石の上に置かれた長いリボンの付いた帽子。そして、桟橋にたたずむ一人の女性の写真。これだけでもう、今年の夏は2人で新島に行ったね♪…という情景が濃厚に伝わってくるわけでありまして、これぞまさしく日本人の考える正しい “思い出の夏” であると言えましょう。…などと思っている人はほとんどいないに違いなくて、何、しゃらくさい企画物を作っとるねん!…と馬鹿にしている人が大半であると思うんですが、でもまあ、アート・ファーマーにフリューゲルホーンでスタンダードを吹かせるというコンセプトや、シダー・ウォルトンサム・ジョーンズビリー・ヒギンズのトリオをバックに据えた人選自体は概ね間違ってはいないような気もするので、とまあそんなことで、では演奏を聴いてみることに致しましょう。

 1曲目はタイトル曲の 「思い出の夏」 なんですが、 「ザ・サマー・ノウズ」「思い出の夏」 と訳した人は偉いと思います。僕だったら 「ザ・夏鼻」 としてしまうところなんですが、センスの違いを感じますよね。いや、 “knows” と “nose” では綴りが違うので、センスというよりも英語力の問題であるような気もするんですが、同名映画の為にミシェル・ルグランが作曲した美しいバラードでありますな。とってもいい映画でしたよね、 『ドラえもん・のび太の海底鬼岩城』 。いや、 『思い出の夏』 のほうは見たことがないので、映画としての出来・不出来は評価のしようがないんですが、曲のほうの出来栄えは素晴らしいと思います。日本人好みのヨーロッパ調というか、いや腐乱素敵…って、何という漢字変換をするんでしょうか。いやフランス的と言い切った方がいいかも知れないリリシズムに富んだ佳曲である。…と、ライナーノートに牧芳雄クンが書いている通りの佳曲でありまして、で、ここでの演奏はですね、まずシダーの弾くピアノのイントロが絶妙であります。エバンスを思わせる透明なリリシズムは新島の澄んだ海の色を彷彿させ、続いて登場するファーマーのフリューゲルホーンの音色は、くすんだ黄昏時の空を色を思わせます。フリューゲルというのは、ま、トランペットとトロンボーンの中間だよね。…といった感じの音がする楽器なんですが、殊にバラードを吹くと味わいが深く、私、フリューゲルの音に弱いの。…というギャルは、ま、それほど多くはないでしょうな。存在自体が思いきりマイナーな楽器ですからね。ちなみに僕は黒板を爪で引っ掻く音に弱いんですが、そうこうしているうちにファーマーのプレイはテーマ演奏からアドリブ・パートへと進んでいくわけでありますが、全体としてはアレですね。時折、倍テンポなども駆使しておりますが、渋系のパフォーマンスと言えるのではないでしょうか。続くシダーのソロは華麗さを感じさせるカレー蕎麦。…といった感じで、時折、加齢臭を感じたりもしますが、ま、1976年の演奏ですからね。シダーもそれだけトシと取ったということなんでしょう。サム・ジョーンズとビリー・ヒギンズの控えめなサポートもいぶし銀の魅力でありまして、とまあそんなことで、ファーマーが再登場して短くソロを取って、テーマに戻って、おしまい。いや、円熟のバラードといった感じでありまして、そんじょそこらの園児ではこの円熟味を出すことは出来ないに違いなくて、中年の渋さを再認識させられた思いでございます。

 と、適当なことを書いておいて、2曲目は 「マンハ・デ・カルナヴァル」 ですな。ここでは 「カーニバルの朝」 という邦題が採用されておりますが、 「ブラック・オルフェス (黒いオルフェ) 」 という名前でも知られているおなじみのボサノヴァ・ナンバーであります。これも典型的な日本人好みのメロディを持った曲でありまして、で、ここでのファーマーはわりと速めのテンポを採用しているところがポイントでありますな。バラードも2曲続けられると飽きるので、これは賢明な選択だったと思います。アメリカ人だと平気でアルバム全曲がスロー・ナンバーといった暴挙をやってのけるんですが、そこは日本のおじさんが考えることですんで、起承転結とか、朝三暮四とか、天衣無縫とか、複雑骨折とか、その辺りの事情はよくわきまえているわけでありまして。いや、知ってる四字熟語を並べただけで、後の3個はまったく関係なかったような気もするんですが、わりと速いテンポ設定であるため、ソロ先発のファーマーのプレイもかなり熱を帯びていて、直腸音で38度7分くらいはあるんぢゃないですかね? ま、これくらいの体温なら解熱用の下剤を使う必要はないんですが、まったく異質のものを2回連続でブチ込まれるというのはかなりの心構えが必要なので、とりあえずは体温計だけで済んで何よりですよね。で、ソロ2番手のシダーはシングル・トーンの綺麗なタッチを披露しておりまして、なかなかなのではなかろうかと思われます。ということで、テーマに戻って、おしまい。

 3曲目はピート・バカラックの 「アルフィー」 でありますか。アルフィーと言えばアレですよね。 「メリーアン」 ですよね。…という古い話は置いといて、このバカラックの 「アルフィー」 というのは究極の日本人好みナンバーですよね。で、フリューゲルホーンの掠(かす)れたトーンとの相性も抜群でありまして、何ともいい味でありますな、こりゃ。中間部を飾るシダーのピアノも味わい深く、他にはえーと…、あまり書くことはありませんな。ま、強いて言えば、ビリー・ヒギンズのブラッシュ・ワークも絶妙でありますな。…という点を評価してもいいとは思うんですが、この曲に限ってはアドリブがどうのこうのと言うよりも、純粋にテーマ・メロディが素敵っ♪…という聴き方をしておけばいいような気がします。それにしてもアレですよね。アルフィーの 「星空のディスタンス」 という歌の次に出てきたのが 「恋人たちのペイヴメント」 だというのは、 田中康夫の 「なんとなく、クリスタル」 という本の次に出てきたのが 「たまらなく、アーベイン」 だったりするのと同じで、たまらなく失禁状態ですよね。あ、失禁状態というのは失笑を禁じ得ない状態のことを言うんですが、もう笑い過ぎて、ちょっぴり漏らしちゃう。…みたいな。 ということで、4曲目です。 「ホエン・アイ・フォール・イン・ラブ」 。僕の持っているCDの曲名では 「ウェン・アイ・フォール・イン・ラブ」 という表記になっているんですが、個人的には 「恋に落ちた時」 という邦題のほうが好きですね。こちらのほうが何となく、あ、恋に落ちたんやな。…という実感が湧いてきますもんね。シラミとか、ぎょう虫なんかはあまり湧かないほうがいいんですが、実感というのは湧いたほうがいいと思います。 で、この曲の演奏は今までとはちょっと違ったパターンとなっておりまして、イントロ無しで、いきなりファーマーが無伴奏ソロでテーマ部を提示して、そこに途中からリズム・セクションが加わるという、なかなか憎い演出がなされております。いや、憎いですな。あまりの憎さに、ファーマー君には肉まんをあげない!…と、意地悪をしたくなっちゃうほどなんですが、テーマに続いてシダー・ウォルトンが最初にソロを取るところなんかも今までとはパターンを変えてきております。何となく、マイルスが使いそうなパターンやな。…と、ふと思ったんですが、そういえばフリューゲルのトーンというのは、ミュート・トランペットの鋭さがあまりない奴。…みたいな感じがないでもないですよね。で、ここでのシダーのソロは気のせいかハービー・ハンコックを意識しているような感じがないわけでもなくて、で、続くファーマーのソロはマイルスみたいに聴こえないでもなくて、とか言ってるうちにフェード・アウトして演奏が終わってしまって、もしかして吹いている本人、収拾がつかなくなっちゃったんですかね?

 で、5曲目には 「ダティー」 という、あまり馴染みのない曲の名前があるんですが、これはファーマーのオリジナルなんですな。さすがに全曲スタンダードでは変化がなさ過ぎると感じたのか、チェンジ・オブ・ペースの意味でこれを持って来たんでしょうが、正直この演奏だけアルバム全体の中でちょっぴり浮いているような感じがありますな。ま、浮いていると言っても麻原彰晃の空中浮遊ほどではないんですが、あれはちょっと浮いているなどというレベルを遥かに超越して、完全に空を飛んでましたもんね。もっとも空を飛んでいるシーンはアニメだけで、実写版が無かったので今ひとつ信憑性が高くないんですが、しかし麻原彰晃というのはアレですな。 “ショーコー” では仮名漢字変換してくれなかったので一文字ずつ漢字を入力したんですが、訓読みすると “麻原あきらあきら” ですよね。どうしてこんな変な名前を付けたんでしょうか?…という問題はどうでもいいとして、アルバムに変化を付けようとして違ったムードの演奏を入れると浮いちゃうし、かと言って、同じような雰囲気の曲ばかりを入れると流れが平坦になっちゃうし、そこのバランスがなかなか難しいところでありますな。 で、この 「ダティー」 というのは、さほどダーティでない、ややお間抜け調のブルースでありまして、ま、ブルースと言ってもさほどアーシーではなくて、モーダルなムードがあったりするところが、それはそれで、結構アレだったりするんですけどね。で、曲のテーマが変で、ギャル受けしないという点を除けば、演奏自体はこのアルバムの中ではもっともジャズ的なスリルを感じさせるものとなっていて、続くシダーのソロも十分に自己主張が感じられるものとなっていて、悪くないですなー。ということで、ヒギンズのドラム・ソロがあって、テーマに戻って、おしまい。この1曲に、イージー・リスニング・ジャズには徹しきれないファーマーの照れのようなものを感じてしまいましたが、ということで、最後はまたスタンダードに戻って、 「アイ・シュッド・ケア」 ですか。どちらかと言うとピアノ向けというイメージの強い曲なんですが、やはりシダー・ウォルトンをフィーチャーした演奏となっております。小唄風…と呼ぶにはやや気合の入ったピアノ・ソロがしばらく続いて、ここでもテーマの断片は聞かれますが、本格的なメロディの提示はファーマーが入った後ということになります。ファーマー自身は軽く流している感じで、真剣味という点ではアルバムの最後を飾るにはやや物足りないんですが、ま、所詮は企画物だしぃ。…と割り切って、肩の力を抜いてリラックスして、デラックス唐揚げ弁当でも食べながら聴くにはいいんぢゃないですかね? いや、デラックス唐揚げ弁当と言っても副菜の野菜の煮物とかが増えるだけで、唐揚げ自身がデラックスになるわけではないので、個人的にはデラックスでない普通の唐揚げ弁当でいいよな。…という気はするんですけどね。とまあそんなことで、サム・ジョーンズのピチカート・ソロがあったりして、テーマに戻って、おしまい。 ということで、今日のところは以上です。

【総合評価】

 

 やや企画性の高い作品であることは間違いありません。個人的にはファーマーのオリジナルをもっと増やして、スタンダードは 「思い出の夏」 と 「アルフィー」 の2曲くらいでよかったかな?…という気がしないでもないんですが、ギャル受けという観点からすると、ま、これでいいのかも知れませんね。ま、所詮は新島なワケだしー。


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