IT’S TIME FOR DAVE PIKE (RIVERSIDE)

 DAVE PIKE (1961/1/30,2/9)

IT'S TIME FOR DAVE PIKE


【パーソネル】

DAVE PIKE (vib) BARRY HARRIS (p)
REGGIE WORKMAN (b) BILLY HIGGINS (ds)

【収録曲】

CHERYL / ON GREEN DOLPHIN STREET / IT'S TIME / HOT HOUSE
FORWARD / SOLOR / LITTLE GIRL BLUE / TENDIN' TO BUSINESS

【解説】

 お正月でしたなぁ。お正月と言えば、コタツを囲んで、お雑煮を食べながら、カルタをしてた、もぉぉぉぉ〜のぉぉぉぉ〜でぇ〜すぅ♪…と、その昔、“はっぴいえんど”が歌っておりましたが、お雑煮に関しては前回このコーナーで取り上げましたので、今日はカルタについて考えてみたいと思います。カルタ。漢字で「歌留多」と書いたりもしますが、元をただせばポルトガル語の“Carta”という言葉から来ております。えーと、僕のカルタに関する知識は、そんだけ。で、ポルトガル伝来ということは、その姫始めは、いや、その事始めはキリスト教伝来とか鉄砲伝来とかザビエルとか南蛮人とか、そういった時代のことでありましょう。西暦で言うと1540年代頃ですかね?鉄砲伝来、以後予算(1543)増えるとか、キリスト教伝来、以後欲求(1549)不満とか、学生時代によく語呂合わせで覚えたものでありますが、カルタはそんな時代にカステラやら天麩羅やらと一緒にこの国にやってきたわけであります。あとバッテラなんかもそうですかね?ちなみにバッテラというのは小舟を意味するポルトガル語なんだそうですが、昔のサバ寿司というのは今のような四角いものではなく、舟の形の木枠に入れて押し寿司化していたんだそうです。いや、何故サバを舟の形に押し固めたりしたのか?そんなことして、いったい何が嬉しいのか?…という問題については今ひとつよくわからんのですけどね。普通に四角い形でイイぢゃん?…という気もするんですが、ポルトガル人が何を思ったか「バッテラ」などという名前を付けたもんだから、やむを得ず小舟の形に押し固めていたのかも知れませんね。あ、でも、ちょっと調べてみたら、バッテラという名前は昭和20年頃に大阪人が勝手に付けた名前のようでありまして、南蛮人にはあまり罪がないかも知れませんね。疑ったりして、すまんこってす。。。

 で、一方のカルタ。これはどういう意味なのかというと、「紙」という意味なんだそうです。英語のカードとか、ドイツ語のカルテなんかと出所は同じなんだそうです。なるほど、カルタは確かにカード状ですもんね。で、南蛮からやってきたカルタというのは、どちらかというとトランプのようなものだったと思われるんですが、ちなみにトランプというのは完全なる和製英語であって、本場ではカードと称するんだよ。…ということは誰でも知っていることでありまして、その昔、学研の「学習」か何かにそんな話が載っていたような気がします。では「トランプ」というのは何かというと、これは「切り札」のことらしいです。カードゲームをやってる外人がしきりに「でぃす・いず・あ・とらんぷ」だとか、「れでぃ・いず・あ・とらんぷ」などと言っているのを聞いて、「ほぉ。これは“トランプ”という遊技なんだぁ。」と誤解しちゃったのが語源であると言われております。オーストラリアの原住民に「あのピョンピョン跳び跳ねる生き物は何という名前であるか?」と訪ねて、その現地民が「かんがるー。」(注:「知らん。」の意)と答え、「ほぉ、あれは“カンガルー”という生き物なんだぁ。」と誤解しちゃったという話と似たようなものなのであります。この話も学研の「学習」か何かで読んだことがあるような気がするんですが、実にタメになりますなぁ、「学習」。で、その南蛮伝来のカルタでありますが、トランプのようなものなのでこれは当然「博打」の道具として用いられることになりまして、やがてお上のほうから禁止令が出されるわけでありますね。んで、19世紀の初頭になると、法の目を逃れるために南蛮渡来のカルタに日本古来の遊技を取り入れて「うんすんカルタ」というものが作られるようになるわけです。この辺のいきさつは、かつて禁酒法が制定されたシカゴにおいてアル・カポネが闇酒場で大儲けをしたという話や、「いもや」というオモチャ屋さんが店の前に置いてあったインベーダーを、禁止令が出されるやいなや倉庫のほうに隠して「闇インベーダー屋」を開設したという歴史と対比すると興味深いものがございます。あるいは、お上が“ぼかし”を入れることを強要すれば、闇で裏ビデオが高値で取引されるとか、世の中というのはいつの時代でも要領のいい奴が得するようになっておりまして。いや、吉村家のオヤジは裏ビデオの販売で捕まっちゃいましたけどね。

 一方、平安時代から我が国で行われていた遊戯に「貝合わせ」というのがございます。どういう遊びなのかは寡聞にして知りませんが、おそらく、非常にいやらしい遊びではないかと思われます。例えば『大奥・マル秘貝合わせ♪』とかぁ。で、この「貝合わせ」カルタというカードゲームが合わさって、なんやかんやで現在の「いろはカルタ」の原型が出来上がったのではないかと思われますが、「いろはカルタ」というのは“いろは四十八文字”が頭につく諺やら格言を集めてカルタにしたものですよね。別名「犬棒カルタ」と言ったりもするんですが、これはモロチン、いや、もちろん、「犬も歩けば棒にあたる」という有名なフレーズから取られた名称であるわけです。ちなみにこの「犬棒」は江戸に固有のものでありまして、上方カルタではおなじ“いろは四十八文字”でも、まったく違う格言が選ばれているんですよね。例えば上方カルタの“い”は「石の上にも三年」となっております。通称「石三カルタ」ですな。で、東の「論より証拠」に対して、西は「論語読みの論語知らず」だったりして、その差異は民族学的に見て非常に興味深いものでありますが、それは置いといてと。で、江戸カルタのほうで選ばれている格言の意味について書かれたサイトがありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。 ここ です。

 カルタの絵も書かれおりまして、その溢れる絵心には思わず脱帽。。。といった感じなんですが、「犬も歩けば棒にあたる」の解釈が2通りあるところが興味深いですな。 この諺は元来、あまり余計なところを出歩くと、思わぬ災難にあったりするよ。…という戒めだったんですが、それが最近では「広く社会に出れば、思わぬ幸運が訪れるものである。」という、まったく反対の意味で使われることが多くなってまいりました。果たして「棒にあたる」というのがイイことなのか?…という疑問がないわけでもないんですが、ま、ある種のあまり貞操でないギャルにとって、「棒にあたる」というのはこの上ないヨロコビである…という気がしないでもありません。ま、せいぜい頑張って「棒」にあたってくださいね。で、その下の「論より証拠」の絵は何なんすかね?「貴様、丑の刻参りでワシを呪い殺そうとしたな?」と詰め寄って、相手が「いえ、決してそのようなことは。。。」とシラを切ろうとしたので、懐からおもむろに証拠の品であるワラ人形を取り出して、「論より証拠じゃあ!」とミエを切っているのでありましょうか?これはもう、潔く罪を認めるしかありませんね。で、“いろは四十八文字”のつく格言を集めようとすると、どうしても無理が生じるものでありまして、例えば『あんぱんまん五十音表』なんかでも “よ” のところでは思いあまって「ようかんマダム」などというワケのわからんキャラをでっちあげ、急場を凌いでおりました。「いろはカルタ」の場合は早くも “へ” のところで行き詰まって、思いあまって「屁をひって尻つぼめる」などというワケのわからん諺を持ち出してきております。「しくじってしまってからでは、取り返しがつかないというたとえ。」ということでありますが、しかしこの絵、「しくじって、取り返しのつかないことをしてしまったなぁ。。。」と反省しているようにはとても見えないんですけどねぇ。。。その下の「年寄りの冷や水」のイラストも今ひとつピンときませんなぁ。この諺でいう「冷や水」というのは、「寒い冬に年寄りが冷たい水をかぶって冷水摩擦などをしようとすると、心臓麻痺で死んじゃうよ。 」…というような戒めの意味だとばかり思っていたんですが、この絵のように多少冷たい水を飲んだところで、それほど大した問題にはならないような気がするんですけどねぇ。。。ま、腹が冷えて下痢にはなっちゃうかも知れませんけどね。そして下痢になって「漏らして尻つぼめる」ということになれば、それこそ取り返しがつかないような気がするので、やはり年寄りが冷や水を飲むのはヤメておいたほうがイイなぁ。。。と、今さらながら先人の知恵には深く感心した次第でございます。

 ということで、カルタの話はおしまい。

 ということで、「先日、名古屋で仕入れてきたCDシリーズ」です。いや、今日(1月6日)こそはハローキティに会えるスキー場ヘブンスそのはらに行こうと思っていたんですが、昨日の夜からまた雪がチラチラしておりましたので、結局のところヤメにしちゃいました。実に実りのない年末年始休暇であったわけでありますが、祝・あきらジャズまつり出場記念 ということで、今日はデイブ・パイクのアルバムを紹介してみたいと思います。パイクと言えばいつも書いているとおり、ビル・エバンスと共演した『パイクス・ピーク』というアルバムが唯一無二の人気盤でありまして、後期のいわゆるデイブ・パイク・セットというグループでの活動は個人的にはあまり評価しておりません。そんなパイクの実に興味深いアルバムを発見したんですが、リバーサイド盤の『イッツ・タイム・フォー・デイブ・パイク』というのがソレなんですけどね。1961年の録音ということは、パイクは若干22歳。もう、バリバリの“やんぐ”でありまして、んでまた共演者がイイんですよね。バリー・ハリス、レジー・ワークマン、ビリー・ヒギンズのトリオをバックにしたシンプルなカルテット編成で、バップ曲やスタンダードを演奏する…とくれば、パイクのルーツを探る意味でも貴重なセッションであると言えるのではないでしょうかね?で、ジャケットを飾るパイクのポートレートもさすがは22歳だけあって、とっても若々しいのであります。あきらジャズまつりに来ていた彼は、ただのオッサンでしたけどね。ということで、そんなパイクの若かりし頃の演奏にじっくりと耳を傾けてみることに致しましょう。

 1曲目の「チェリル」は、どっかで聴いたことのあるような曲やな?…と思ったら、パーカーのナンバーなんですな。いかにもビ・バップらしいメカニカルなメロディのナンバーでありまして、イントロなしでいきなりヴァイブとピアノのユニゾンでテーマが演奏されます。 で、そのままパイクのソロに入っていきますが、「パイク=モーダルな新主流派風のプレイをするおっさん」という僕のイメージとは裏腹に、「オーソドックスなバップをプレイする青年」といった感じの演奏となっておりまして、ちょっぴり意外な気がしました。ま、うなり声のほうは相変わらずでありまして、あれは何も中年になって無意識のうちに声が出ちゃってるわけではなく、若い頃からずっと唸り続けていたんですな。しかしヴァイブ奏者というのはどうして唸る人が多いんですかね?電気仕掛けの回転式ヴィヴラート装置が何か演奏者に悪影響を与え、脳に何らかの異変がおこっちゃうんでしょうかね?それともただ単に気持ちがよくて思わず声が出ちゃってるだけなんでしょうかね?昔のヴァイブ奏者は声を出すことを「はしたない。」と考えて、枕を口にくわえたりして堪えたものなんですが、最近の若いヴァイブ奏者ときたら、もう。。。で、続くバリー・ハリスのソロは円熟の境地に達しておりますな。彼の師匠に当たるバド・パウエルは「唸るピアニスト」として有名なんですが、ハリスはだいじゃぶです。まだアタマもしっかりしてます。この人がピアノを弾くと、何かこう「張り」のようが生まれますよね。パンツのゴムを極限まで伸ばした時の緊張感とでもいいましょうか、いや、あまり無理に伸ばし過ぎちゃうと弾性の限界を超えて、「びよびよ」になっちゃうので注意が必要なんですが、ハリスのプレイはそうなるに至る直前のギリギリの美学。そういったものを感じさせますよね。いや、自分でも何を言ってるのかよくわかりませんが、ハリスのソロの後、レジー・ワークマン@スーパー勤務(レジ担当)のピチカート・ソロがあって、テーマに戻って、おしまい。ま、全体的には「まあまあかな?」といったところですかね?

 はい2曲目です。「グリーン・ドルフィン・ストリート」です。パイクのリリカルな無伴奏ヴァイブで幕を開け、やがてイン・テンポになってスインギーな演奏に豚汁、いや、転じるわけでありますが、ま、これはこの曲をやる時の常套手段でありますな。常套と言えば桑名には城東小学校というのがありまして、あまりお笑いのセンスのない子供たちからよく「こんで上等上等、城東小学校。」などと呼ばれておりましたが、所詮、コドモの考えることって、この程度なんですよねぇ。。。ま、「スインギーな演奏に豚汁」よりはマシ?という気がしないでもないんですが、そういえば“いろはカルタ”について調べていたら、『いろはカルタパロディ』というのがあったんですけどね。ヤル○ア研究所の伊○義高という人のサイトのようなんですが、内容があまりにも・・・だったので、前半部で引用する勇気がありませんでした。が、後半部なら恐らく誰もマトモには読んでないと思われますので、おそるおそるその内容を紹介してみると、

 石の上にも三年 → 意志の上に三年
 花より団子 → 端(はな)より談合
 二階から目薬 → 二回から手ぐすね
 仏の顔も三度 → 部長の歌も三度
 下手の長談義 → 下手の長カラオケ
 年寄りの冷や水 → 年寄りのパソコン

・・・・・・。こういう人を上司に持った部下は苦労が絶えないだろうなぁ。。。ということだけを述べておいて、詳しい論評は差し控えたいと思いますが、そういった状況を自覚しているのかどうか、芋の煮えたもご存じないのパロディで、部下の冷めたもご存じないというのもありました。…とまあ、そんなことは別にどうでもいいんですけどね。で、先ほど「常套手段」というようなことを申しましたが、これは『1958マイルス』における同曲の演奏を踏襲しているのではないかと思われます。あれのエバンスのピアノのイントロを、パイクのヴァイブに置き換えたっていう感じぃ?で、マイルスのミュートが出てくるタイミングでバリー・ハリスが登場するわけでありますが、モード的な色彩の強かったマイルスと違い、ここでのハリスは純正ビ・バップです。まだアタマもしっかりしてます。パウエルの場合もそうなんですが、ハリスもこれくらいのミディアム・テンポの演奏をしている時が、一番イイですよね?フレーズが際だつというか、香気を感じさせるというか、好機を逃さないというか、綱紀粛正というか、後期弥生時代というか、工期が遅れて役所から叱られることがないというか、公金を横領して役所から叱られることがないというか、いや、書いていることが次第に本筋から外れてまいりましたが、本筋よりも感じるのは裏筋だとか。とにかく、とってもイイ演奏だと思います。で、続くパイクのソロもイイです。そんだけ。いや、ヴァイブのソロって、何となく説明のしようがないんですよねぇ。。。で、短いベースのピチカート・ソロがあって、テーマに戻って、おしまい。

 はい3曲目です。「イッツ・タイム」です。僕は「イッツ・タイム」というと、どうしても「はっはっはっ♪ほっほっほっ♪」というコーラスの入ったマックス・ローチのインパルス盤がアタマに浮かんでしまうんですが、ほら、例の塩通のトップ・ページのイラストで使われているやつですよね。が、ここで演奏されている「イッツ・タイム」はパイクのオリジナルでありまして、「はっはっはっ♪ほっほっほっ♪」的な世界とは程遠い、実に綺麗なバラードに仕上がっております。いや、パイクは相変わらず「んあ、んあ〜♪」と唸ってはいますけどね。…と、ここまでは書いてあったんですが、それからうだうだしているうちに、約1週間が経過してしまいました。で、昨日(1月12日)から1泊でスキーに行っておりました。ま、その辺の状況はいずれまた書くとして、パイクの「イッツ・タイム」ですな。ハリスのブルージーなピアノのイントロに続いて、パイクのヴァイブで綺麗なメロディのテーマが演奏されます。過度のリリシズムに陥らないあたり、まだパイクも若いなぁ。。。という感じなんですが、その青臭さがまた魅力的だったりします。今ひとつ茹で具合があまいホウレンソウのおひたしは、その青臭さが今ひとつだったりしますけどね。焼肉屋で焼野菜のタマネギを焼いていて、まだ半焼けのような気がするけど、ま、いっかぁ。…とか思って勢いで食べてみたら、やっぱりまだ半焼けだった。。。…という時のタマネギというのも、なんだか生焼けのタマネギ風のエグミがあって、決しておいしいものではございませんが…とか書いてるうちにパイクのソロは終わって、ハリスのソロも終わって、テーマも終わって「ホット・ハウス」が始まりました。タッド・ダメロンの代表作のひとつではございますが、個人的にはこの手の哀愁味を感じさせない曲はあまり好みではありませんで、ま、元気のよい演奏であるな。という印象を述べるに止めておきたいと思います。なんせ今日はスキー帰りで疲れているのであります。

 で、5曲目の「フォワード」はパイクのオリジナルです。オリジナルではありますが、ちゃんとした曲を作るのが面倒で、いきなりアドリブで始めとるだけとちゃうか?…といった気がしないでもないナンバーでございます。で、これは「スイート・ジョージア・ブラウン」のコード進行に基づいたナンバーでございます。いや、根拠はまったくないんですが、聴いていて何となくそんな気がしたので、多分そうではないかと思います。そんな気がしきりにします。ビリー・ヒギンズが急速調のリズムを提示した後、パイクが勢いよく適当なアドリブ・フレーズを叩きだし、そこにレジー・ワークマンのベース・ランニングが絡んで、やがてハリスがピアノでちょっかいを出し始める。そんな感じで演奏が始まって、四者一体のカラミがしばらく続いて、ハリスのソロがあって、ヒギンズとの絡みがあって、おしまい。はい、6曲目です。「ソラー」っす。谷岡ヤスジの漫画に出てくるトリは、空に向かって「ソラー」と叫んだり、朝になったら「アサー」と鳴いたりしておりますが、これはマイルスのオリジナルですね。歌物っぽい、なかなかメロディアスなナンバーでございます。やれば出来るぢゃん、マイルスぅ。…って、誰も「マイルスはやっても出来ない。」というようなことを言ってはいないんですけどね。パイクのスインギーなヴァイブ・ソロがあって、ハリスのブルージーなピアノ・ソロがあって、最後にヒギンズとの絡みがあって…と、構成がどの曲も今ひとつ似たりよったりなのではないか?…という気がしないでもないですが、しょうがないよね?スキー帰りで疲れていることだしぃ。。。で、構成がどの曲も今ひとつ似たりよったりなのではないか?…という意識がパイク本人にも少しはあったのか、続く「リトル・ガール・ブルー」はヴァイブの無伴奏ソロとなっております。考えましたなぁ。ま、その営業努力は大いに賞賛に値するところではございますが、演奏自体は単調で、ちょっぴり今ひとつでございます。ただでさえ眠くてヤル気が皆無だというのに、ヤメて欲しいと思います。おなじみのテーマ・メロディがほとんど出てきませんしね。で、アルバム最後の「テンディン・トゥ・ビジネス」は実にオーソドックスなブルース・ナンバーです。実にオーソドックスなブルース・ナンバーではありますが、作ったのはドン・チェリーです。思わず「マジぃ?」と声に出して、ジャケットにクレジットされた作曲者の名前をマジマジと見直してしまいましたが、やっぱりドン・チェリーと書いてあります。あ、でも、同姓同名の“アカの他人”ということも考えられるしぃ。…と思ったら、原文ライナーにはドン・チェリー(オーネット・コールマンの、なんとか。)…というようなことが書いてありましたので、やっぱりあのドン・チェリーのようでございます。で、演奏のほうは、「まあまあかな?」といったところですかね?

 ということで、後半は睡魔との闘争中につき、とってもテキトーでありましたが、アルバム全体を総括すると「2曲目〜3曲目にかけてが、このアルバムのパイクのピークぅ?」といった感じですかね?で、パイク好きの人よりも、バリー・ハリス好きの人のほうが楽しめるかも?ということを申し述べ、今週はおしまい。


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