エニアグラム上級者理論           


        性格をスペクトル分解する

1 7つのフルイ

                             
 
土壌全体の性質を知る一つの方法があります。例えば、土の中に、
どんな砂があり、どのような大きさの石があるのか調べたい時です。

その場合、いろいろな大きさの目を持つ「フルイ」にかければ良い
のです。最初に粗い目のフルイにかけると、大きな石だけが残りま
す。次は少し細かい目を持つフルイにかけ、次々と違うフルイにか
けます。すると、その土に含まれている石や砂の分布や割合が分か
り、土壌全体の性質が分かります。  

 人の性格(気質)も、同じように考えればよいのであり、人間全
体の性格を知りたければ、ある種のフルイにかければ、ある性質の
分布や割合が分かるようになります。

 当会では、7つの基本理論があり、それがフルイの役目をします。
なお、正確には、9つに選り別けられるツールを持っています。
ですかに、判定者によって違うタイプが出る確率は少ないと言える
でしょう。 
 
 しかしながら、フルイがおかしなもので、間違ったフルイだとしたら、
正確に選り別けられません。仮に、三日月型とか星型のフルイなら
ば、大きな石も小さな砂も通過してしまいます。

この場合、フルイにかけたつもりかもしれませんが、実は全てのも
のがゴチャ混ぜになっているでしょう。 
 
                
 
2 客観的な基準を決めないと、タイプ判定できない
                      
 当会には、7つの理論がありますが、どうやら、他の会派ではフ
ルイに相当するような理論がないに等しいのではと考えられます。
性格タイプ(気質)を調べる方法がなければ、9タイプに分類する
ことなど不可能です。

 また、フルイが、「客観的な基準」でなければ意味を成しません。
自己申告とか主観的な判断で、タイプ判定したものでは、フルイの
役目を果たせません。

 他の会派では、タイプ判定が同じ研究仲間でもマチマチなので、
「タイプ判定には拘泥しないように」と注意し合っていると伝え聞い
ています。

 これでは、タイプ判定が主観的で、恣意的にもなってしまう恐れ
があります。タイプチェックをする場合も、他の会派では、自分の
子ども時代の頃のことを思い出して、チェック項目をチェックする
ようになっています。まさに、「主観的な自分」でしかありません。
これでは、正しいタイプを判定するなどできません。


3 7色のフルイにかける
                 
 つぎに、太陽の光をプリズムを通して見たなら、私たちの目には
7色の虹色に別けて見ることができます。太陽の光は一色ではない
のですが、通常、私たちの目には無色透明みたいに見えます。 

 結論的に言うなら、このプリズムこそが、当会の持つフルイであり、
基本理論なのです。性格(気質)というものも、目でとらえることは
できませんから、いわば無色透明と言えるかもしれません。しかし、
性格の色分けをするプリズムがあれば、明らかに9色に別けて把握
できます。
        
 太陽光をプリズムで分解できますが、このような方法を「スペクトル
分解」と呼んでいます。性格というものも、スペクトル分解すれば、
より明確になるはずではないでしょうか。それを以下の図に示してい
ます。
 
                     

 
  4 性格の連続性
                           
 上図にあるように、「性格」を「色」とたとえて考えたならば、理解
しやすくなります。例えば、タイプ7を、3つのタイプに別けたり、5
つのタイプに別けることができます。それを色で表すと、

または
となります。
 もっと細かく7つに別けることもできます。


〔タイプ7〕     |   〔タイプ6〕    |   〔タイプ5〕
 
 
 こ のように、性格を「色」として考えると、幾つにも細分化できます。
また、細分化できるのは、「連続性がある」からと言えるでしょう。連
続性がなければ、細分化はできません。

 従って、「性格タイプは、円周上の立っている位置によって違うので、
少し位置がズレるだけで性格が違ってきます」という説明になります。
エニアグラム図の読み方を、このように解読しなければ、連続性のある
性格を説明できないのではないでしょうか。

 人間の性格はさまざまで、その多様性を考えるならば、9つのタイプ
に別けるだけでは不十分です。基本的に、9つのタイプに別けられるこ
とと、この多様性を同時にうまく説明できる理論が要ります。つまり、
当会のような解き方でないと、現実の人間を説明できないと考えられま
す。

 そして、当会では「究極の三つのタイプ」と呼んでいますが、ある時
は3つのタイプに分けて説明できます。また、別の時は9つに分けて説
明でき、もっと詳しく細分化して性格分析できます。自在でかつ柔軟な
理論です。これは、全ての人間の性格というものを、連続性のあるもの
と捉えているためと考えています。
      
 なお、当サイトのバックナンバーには、9つのタイプのシンボルカラ
ーを公表しています。


http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/active/page15/15-201~/15-204.htm

    
5 縦並びとしての性格の連続性
                
 言わずと知れたことですが、人間は生物の一員です。すべての生物の
親の親、そのまた親を辿って行くと、地球の最初の生物に行き着きます。
それを「原核生物」と言い、約13億年前までに、出現したと考えられ
ています。バクテリアや藻などの単細胞生物を原核生物とも言いますが、
60兆個の細胞からできている人間に至るまで、DNAは基本的に同じ
です。また、進化の系統樹を理解できれば、時間という縦軸でも連続性
があると分かるでしょう。
                 
   
A        →    B     
  AからBに進化、または変容
  
単細胞生物   →  多細胞生物   
  
(原生動物)   →  (後生動物)      
  
(無性生殖動物) →  (有性生殖動物) 
                   
 
バクテリア・藻類 →  魚類→両生類→爬虫類→
                 →哺乳類(食虫類)→霊長類→ヒト
 


 2003/06/12の新聞には、現代人類の直接の祖先にあたる頭骨の化石
がエチオピアで発見されたと報じられました。化石は16万年前のもの
らしく、新人の起源はアフリカだという説があり、それが一層に有力に
なったわけです。なお、これ以前にもエチオピアで発見された化石があ
り、ルーシーと名付けられています。
 ちなみに、人類共通の祖先として、一人のイブがいたのではないかと
いう考え方があります。それもミトコンドリアDNAという母系遺伝を
辿って判明したことのようです。

 
(注・この考え方に疑問を感じるならば、次の書物を読まれることを
お勧めします。 

 ジョン・リレスフォード著『遺伝子で探る人類史』
 ブライアン・サイクス著『イヴの7人の娘たち』『アダムの呪い』

                    

6 性格の起源をたどる
 
 ところで、当エニアグラム性格学では、タイプ9を「原型タイプ」と
呼び、「おばあさん気質」とも呼んでいます。ルーシーと名付けられた
女性が人類の共通の祖先であることを考えるならば、頷ける呼び名と言
えるでしょう。始まりがあれば、当然に「始祖」がいるのであり、それ
が一女性からはじまったと考えても、なんら不思議ではないと考えてい
ます。

 さて、タイプ9がもっとも安定型であり、環境に調和しやすい協調性
の高い穏やかな気質です。「原型タイプ」らしく、体内時計がよく働い
ており、自然体で生きられ、かつ、本能的な様式をよく保っています。
           
 このように、縦軸としての連続性と、横軸としての連続性があると理
解できたならば、人間以外にも性格タイプがあることを予想せざるを得
ません。つまり、どの段階で9タイプになったのかは分かりませんが、
霊長類や哺乳類までは辿れると考えられます。ヒトが出現して初めて9
つのタイプになったとは考えられません。   
         
 バックナンバーには、「犬と猫と9つのタイプ」というタイトルで、
この考え方を公表しています。

http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/active/page15/15-201~/15-216.htm


 実際、ペットを飼ったことがあれば、性格的な違いをいつも意識さ
せられていると思います。熱帯魚を飼っている人ならば、魚にも性格
があり、きつい攻撃的な魚と臆病で逃げてばかりいるが機敏な魚がい
ることを見ていることでしょう。魚類が9タイプなのか3タイプなの
かまだ判別できませんが、魚の性格も類型化できます。 

 
なお、上記のサイトにも、性格の起源について、少し言及していま
す。参考にしてください。      
          

  さて、エニアグラムは幾つもある性格類型論の一つです。しかし、
「性格の連続性」という考え方を明記しているところは、これまでの
ところ一つもありませんでした。

 また、他の全ての心理学関係にも、このような考え方は見当たらず
皆無です。むろん、他のエニアグラム会派にも、このような考え方は
全くありません。現象面だけを見て、類型化しているに過ぎないと考
えられます。または、単に、行動の仕方を見て、それを類型化して呼
称をつけているだけであると考えています。