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いきいき ぽかぽか 西小の子

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〒501-0562 岐阜県揖斐郡大野町松山15-1

学校紹介校区の様子・学校沿革など(西郡(さいぐん)村志、大野町史より抜粋)

西小学校の地区の昔を探る

時代 主 な で き ご と
3000年以上前 川の土砂が流れて平地ができたものと考えられています。
弥生時代 中之元や瀬古から弥生式土器や石器が発掘されているため、この頃から人が住んでいたと思われます。
大和時代 各地に古墳ができます。松山や牛洞には13基の古墳があるようです。
奈良時代 646年(大化2年)に土地を条里に分け、田畑を人々に分け与えました。このときの分け方が牛洞地区の南に今でも残っています。
平安時代 西小の地域を「明見郷」と呼んでいたようです。
905年(延喜5年)、瀬古に陽勝寺が建立されます。
1167年(仁安2年)中之元に徳林寺が建立されます。建物の中にある孔雀文磬は鎌倉時代に作られました。
鎌倉時代 大野郡(今の大野町)を2つに分け、六里より西を西郡と言うようになります。
1205年(元久2年)、志名に西郡神社が建立されます。
吾妻鏡に、1232年(貞永元年)の11月にこのあたりで飢饉が起きたので年貢を免除してほしいと言うことが記載されています。
1244年(寛元2年)に牛洞に長念寺が建立されます。
1289年(正応2年)に中之元八幡神社が建立されます。
室町時代 1449年(文安4年)に牛洞が醍醐三宝院(京都のお寺)の所領となります。
1495年(明応4年)西郡合戦がおこります。
安土桃山時代 岐阜県出身の剣豪、衣斐丹石が1532〜55年まで牛洞にすんでいました。
丹石流(念流の一派、短い刀を用いて相手に肉薄するのが特徴、今では失伝)をあみだし、織田秀信(信長の孫)や加藤清正(熊本藩主)など教えたとされています。
太閤検地が行われた際、牛洞村を豊臣秀吉の直轄地としました。この頃に今の地区に当たる村が出来ました。(牛洞村・松山村・志名村・辻村・沢村・瀬古村・中之元村)
1596年(慶長元年)、辻村に本伝寺が建立されます。
江戸時代 瀬古村や志名村、松山村が幕領になります。宗門改や五人組などで、各村の人口や様子がわかります。
1666年(寛文6年)、志名に常光寺が建立されます。
1681年(天和元年)、中之元に願成寺が建立されます。
1749年(寛延2年)、牛洞に陣屋ができる。
1830年頃、中之元で火事があったといわれています。
1860年(万延元年)に三水川の工事が行われます。
明治時代 1889年(明治22年)に辻村・沢村が瀬古村と、志名村は松山村と合併します。
1891年(明治24年)に濃尾大地震が起こりました。村内の大部分の家屋は倒壊しましたが、人災はほとんど無かったそうです。
1897年(明治30年)に揖斐郡と同時に周りの村が集まって西郡(さいぐん)村ができます。西郡村が今の西小学校の校区になります。
昭和時代 1954年(昭和29年)、近隣の村と合併し、大野町となります。

 

牛洞地区

 西北に山があり、その山麓沿いに民家が建ちます。また、山には古墳が各所に散在しています。

 牛洞という名は、昔、牛を飼育していたから牛洞と名付けた(文武天皇4年・700年に全国各地に牛を飼育したことによる)という説と、牛は大きいことを表す言葉で、大きい洞であるから牛洞と名付けたれたと言われています。地形的に見ると大きくくぼんだところ(洞)から名付けられたようです。(揖斐郡の地名より抜粋)

 牛洞には雨乞い踊りが伝えられています。南の水田は川の水で稲を栽培してましたが、山沿いの水田は雨水での栽培だったため、干ばつの時には鉦・太鼓・ホラ貝を吹き、雨乞いを行いました。

 神明神社にあるご神木の杉の木は高さ30m以上、樹齢600年と言われています。
 また、牛洞陣屋址は町の史跡です。

松山地区

 西に山を控え、民家は北側に松山、南側に志名の2つから成り立っています。西の山中には古墳が残されています。

 地名の由来は、西の山に松の木が多かったことによるとも言われていますが、はっきりしません。

 松山地区には「八之坪」という地名があり、これは奈良時代、条里の坪付名が残っています。
 また、江戸時代には、幕府の領地となりました。

 常光寺にあるシロモクレンは高さ約7m、樹齢200年と言われています。

辻・沢地区

 辻は志名から、沢は清水から分かれてできたとされています。天正10年(1584年)には辻沢村と言いました。

 地名の由来は辻は岐阜街道の辻(2つの道路が交差してできたところ)、沢は昔湿地があったとされていることからと思われます。

 古くから寺社が建ち(905年:陽勝寺)、昔から人が住んでいたことが分かります。

瀬古地区

 松山の南東にあり、以前から東瀬古村と西瀬古村に分かれていました。現在は、辻・沢・東瀬古・西瀬古から成り立っています。

 瀬古とは、東海地方に見られる、集落の小単位に付けられており、道路沿いの集落という意味や、勢子(狩猟団の労働員)からおこったもといわれています。

中之元地区

 瀬古の南に位置し、開けた土地です。弥生式土器等が発見されていることから、およそ2000年前から人が暮らしていたことが分かります。本村と田中、中之元南団地に分かれています。

 中之元の地名は、室町時代後半に中野や中ノ本、中本などと記載されており、ここから中之元の地名ができたとされています。由来は分かっていません。

 八幡神社には、古くから中之元神楽があります。およそ380年ほど前に始まったとされています。今は悪魔払いの神楽舞いが残っています。


学校沿革

       
年  月 主 な で き ご と
江戸時代 各集落で、手習師匠がいて習字、読書、算術などを教えていたとされている。
明治 6年 3月 中之元、瀬古、辻、沢の4ヵ村が併合し、中之元村の願成寺を仮校舎として『勉旃舎(べんせんしゃ)』を開校する。
志名、松山の2ヵ村が併合し、松山村の普存庵を仮校舎として『森々舎(しんしんしゃ)』を創設する。
牛洞村は明教坊を仮校舎として『篤弼舎』を創設する。後、校名を『暘谷(ようだに)学校』を改称する。
明治10年 6月 『森々舎』を廃止し、『弁旃舎』と合併して瀬古村に『勉旃学校』を新設する。
『暘谷学校』は『牛洞小学校』と改称する。
明治19年 8月 学制の施行により、『勉旃学校』は『瀬古尋常小学校』に、『牛洞小学校』は『牛洞尋常小学校』と改称する。
明治28年 『瀬古尋常小学校』と『牛洞尋常小学校』と合併して、『松山尋常小学校』と改称する。
明治31年 4月 郡制の施行により、中之元村、瀬古村、松山村、牛洞村の4ヵ村が合併して西郡村となり、校名を『西郡尋常小学校』と改称する。(写真は2代目校長:上田護一)











                 
明治39年 4月 小学校に西郡農業補習学校を附設する。
大正 2年 5月 校舎、棟増築落成する。
大正14年12月 校舎増築落成する。
大正15年 4月 高等科を併設し、校名を『西郡尋常高等小学校』と称する。
当時の西郡尋常小学校の様子

授業の様子
昭和16年 4月 『西郡国民学校』と改称する。
昭和22年 4月 6・3制により、『揖斐郡西郡村立西郡小学校』と改称する。
昭和27年 4月 郡内で初めての用水路利用のプールが完成する。
昭和29年 4月 町村合併により、『大野町立西小学校』と改称する。
昭和33年 6月 給食室を新設する。
昭和34年 9月
雨天体育館を新設する。
昭和39年 3月 創立90周年記念式典を挙行。校歌制定及び児童図書を充実する。
昭和42年 3月 校庭に教材用として岩石園をPTAの寄贈により造園する。
昭和47年 5月 FBCで「岐阜県大賞」を受賞する。
昭和47年 8月 プール竣工し、プール開きを行う。
昭和47年12月
鉄筋コンクリート造2階建ての校舎竣工する。
昭和53年11月 全日本健康優良校として表彰される。(県1位)
昭和55年 3月 校舎新増築工事(3階建)竣工する。
昭和55年10月 西小学校交通少年団を結成する。
平成 3年 4月 学校用田畑600uが町より供与を受ける。
平成 4年 3月 屋内運動場竣工。飼育小屋完成。
平成 5年 3月 プール竣工
平成13年 3月 大型水槽を設置し、ヒラメの養殖を始める。
平成15年 3月 校舎耐震工事を行う。
平成18年 3月 ヒラメの養殖を終える。
平成19年 4月 特別支援学級を設置する。
平成25年11月 町指定研究発表会を行う。

information

岐阜県揖斐郡大野町立西小学校

〒501-0562
岐阜県揖斐郡大野町松山15-1
TEL.0585-32-0359
FAX.0585-34-3925