毛布の下
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 壁のあちこちにスプレーで描かれた落書きがあった。週末の夜などに入り込む暴走族などが残していくのだろう。「ひろみ命」とか「夜露死苦」などの落書きに混じり、ストリート系のポップな文字で「LOVE」だとか描かれたものも目につく。

 二階が入院用の病棟になっていた。薄暗く狭い階段を上がると、そこが廊下の一番端だった。無計画な増築のせいか、廊下を見通すと少しうねって蛇行しているのがわかる。真夏の熱気で延びた鉄道線路のようでもある。

 私はゆっくりと廊下を歩いた。そして半開きになったドアから左右の病室を覗いていく。心の中の何かに響く部屋を探しながら。

 廊下の一番端で、私は足を止めた。その部屋だけドアが閉まっている。病棟の西の端だ。まちがいなく、あの夏の病院と「奇妙な相似」を感じさせる病室だった。

 ドアを開けると、私はゆっくりと、いや恐る恐るといった方がいいだろう、視線を室内に走らせた。

 すべての備品を撤去された病室はがらんとした印象だった。壁から吸引用の空気弁が突き出し、ナースコール用のボタンが付いたままのコードがだらりと垂れ下がっていた。酸素テントなどのためにベッドを囲むように用意されたカーテンレールは、数カ所を残して天井から垂れ下がり今にも落ちそうになっている。

 埃とコンクリートの粉にまみれたフロアに目を移すと、ひびの走る壁際に「毛布」があった。不思議なことに「当然」という気がした。あのときとまったく同じ雰囲気、同じ条件であるならば、あるのが「必然」という気もした。そんな思いを抱くことに何の疑問も感じないなんて、まるで夢の続きのようじゃないか、と私は苦笑した。苦笑というよりも、無理矢理、顔をゆがめて笑い顔を作っただけというのが正直なところだ。

 毛布は、あのときとまったく同じような形で床に落ちている。やはりあのときと同じように元の色がわからないほどの汚れようだ。毛布の下の膨らみは、頭を窓側に向けた子供が、苦悶に身をよじっているように見える。足下のその毛布を数センチ持ち上げれば、もつれあったまま息絶えた二本の足が出てきそうだった。

 建物の外から、蝉時雨の音が小さく聞こえてくる。耳に痛いほどの静けさであった。

 (毛布の下を確認するのだ。あの夢に決着をつけるのだ)

 自分の中で、その思いが言葉となり、蝉時雨と一緒に頭の中をわんわんと駆けめぐった。固く握りしめた拳の中が、にじんできた汗でじっとりと濡れてきた。

 

 引っ越しを翌日に控えた昼下がり、僕は一人でここへ来た。伸介は中学受験用の模擬試験を受けに出かけていた。この模試を受けているのはクラスでも伸介を含めて二人だけだ。伸介自身は死ぬほど嫌がっていた。試験が厭なのではなく、ガリ勉君と言われるのが厭なのだ。ただでさえ眼鏡をかけていてガリ勉君と呼ばれているのに、模試まで受けているとすれば、それは「完璧なガリ勉君」なのだ。

 稔は自分の家の引っ越しの手伝いで外へ出られないと言っていた。僕の引っ越しはなぜかほとんど準備がいらないらしく、ふらふらと近所を出歩く余裕があったのだ。

 一人で幽霊屋敷の前に立つと、いつも以上に言い様のない恐怖と嫌悪が襲ってくる。でも、僕はあの毛布の下を「見なければならない」のだ。不思議に、そんな気がした。

 足音を忍ばせて中に入り、診察室の横を通って廊下の奥の階段ホールまで来たとき、頭の上で床を踏みしめるミシリという小さな音がした。

 僕は足を止め息を殺した。誰か、僕以外の誰かが、この家の中にいる。

 自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。二階には、あの殺人鬼がナイフを構え、おちんちんをちょん切ろうとして僕を待ちかまえているかも知れない。何故か頭にそんな考えが浮かんで僕は目を閉じた。

 すると今度は、二階から小さな声が聞こえてきた。子供の声のようだ。

 背筋が、すっと冷えた。

 僕たち以外の探検隊が、ここを発見したのだろうか、それとも…。

 僕は震える足をつねって気合いを入れると、一歩一歩、足音を殺して歩き出した。そっと階段を上ると、声は毛布とは反対側の部屋から聞こえてきた。しくしくとすすり泣くような声だ。それと、もう一つの別の声。そっとそっと入口に近づいた。

 勇気を振り絞って、恐る恐るのぞいた部屋の中には、意外にも稔がいた。いっぺんに緊張が解けた。大きく息を吐いて声をかけようとした時、稔と一緒に妙子がいるのに気づいた。何となく見てはいけないようなものを見つめているような気がして、僕は扉の陰から二人をうかがった。妙子は声を殺して泣いていた。その妙子の肩に手を置いて、稔が困ったような顔をしていた。

 「手紙書くよ、必ず」

 妙子が小さくこくんとうなずいた。

 「クラスじゃなくて、おまえに書く」

 妙子は顔を上げた。

 「高校で一緒になろう」

 再びうなずく妙子。

 「約束よ」

 そういうと妙子は肩に置かれた稔の手をとり、そっと自分の胸の膨らみにあてた。涙に濡れた頬が恥じらいで赤く染まっていく。

 驚いた表情の稔は、その柔らかさを確かめるようにぎこちなく手を動かした。そして、そっとその手を離すと妙子の頬を伝う涙を拭いた。そして「約束する」と言った。真剣な顔だった。稔の真剣な顔は初めて見た。強気な妙子の泣き顔も初めて見た。始めてみる大人の顔をした二人だった。

 取り残されたんだと感じた。

 (だって僕は大人になれないから…)

 もう稔たちとは遊べないんだ。ため息をついてズボンのポケットに手を入れると、右手が何かに触った。ピー玉だった。僕は半ズボンのポケットの中でビー玉をぎゅっと握りしめた。そしてそれを取り出すと光にかざしてその中を覗いた。いくつもの白い泡が、緑色のガラスの中に星のように浮かんでいる。僕はそれを部屋の入り口に置き、そっと二人の方に弾いた。ころころと小さな音をたて、ビー玉は二人の足下に転がっていく。

 僕は背中を向け、ドアの影にうずくまって目を閉じた。

 (さようなら…、)

 ビー玉に気づいた二人のけげんそうな気配がした。

 「俺、落としたかな」と稔が自分のポケットを探っている。

 「俺のはちゃんとある、伸介か」

 「何だか気味が悪い」とすがりつく妙子。

 稔が部屋から出てくるとあたりを見回した。

 「だれもいないよ」といって妙子を招いた。

 二人は廊下へ出てくると、手をつないで一階へおりていった。二人の足音がどんどん遠ざかる。もう僕に気づきすらしなかった。

 二人が玄関を出るまで、僕は身動きもせずうずくまっていた。

 目を開けると僕は一人で取り残されていた。前にもこんなことがあったような気がした。

二人がいた部屋を見ると、そこには射し込む光の中でゆっくりと埃のちりが動いているだけで、そこで二人の子供が交わした約束も、その子供達がいた気配すらも残ってはいなかった。今のは本当にあったことなのだろうか。窓際の床の上で、転がしたビー玉が、弱い光を受けて輝いていた。僕はそれを拾うと、毛布の部屋へ行った。毛布の下を見なければならなかったのだ。見ればそれが最後になりそうな気がした。でも見なければならないんだよ。どこかから、そんな声が聞こえてきた。

 毛布の部屋はドアを閉めてあった。二度目の探検の時、その恐ろしい部屋は僕たちの手で封印したのだ。そのドアをゆっくりと開いた。この部屋だけはすごく暗く感じられた。それに空気が急に冷たく湿り気を帯びたようにも思われた。

 毛布は何かの落とした陰のように部屋の奥で黒々と拡がっていた。そして、あの不思議な盛り上がり…。

 僕は毛布の前に立って、しばらくそれを見つめていた。そして大きく息を吸い込むと、水に潜るように息を止めてかがんだ。

 毛布に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。その下から、数匹の小さな虫が慌てて這い出てくると、壁際に走ってその隙間に消えた。

 毛布の下に隠されたものを見たとたん、僕の目は涙で一杯になり、鼻の奥が「つん」と痛くなった。やはり見てはいけなかった。でも見なければならなかったものがあった。泣きながら瞼を閉じると、暗闇の中、どんどん、どんどん僕の意識は落ちていく。

 「みんなさようなら」

 右手の中のビー玉の感覚だけが残った。