毛布の下
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 ここにもあの時と同様の病院の廃墟があった。ただ、あの空き地の病院が、小さな開業医でベッド数も二部屋で四台だったのに比べ、ここはベッド数二十の中病院であることが違っていた。鉄筋二階建ての建物は増築に増築を重ねて、コンクリートの色もちぐはぐな見ようによってはグロテスクなものだ。よく調べれば違法な点もかなり発見できるだろう。

屋根には友愛会病院という赤いネオン看板が数カ所割れて傾いたまま残っていた。管財人からは乱脈経営で潰れたと聞いていた。

エントランスの自動ドアは閉まっていたが、一枚残らずガラスが割られているので、中へ入るのは容易だった。床を踏む度に、風で吹き込まれた枯れ葉と散乱したガラスの破片が騒々しい音を立てる。

 いつもはクライアントと一緒に来ていたから、この廃墟に入るのは今日が初めてだった。今日はこの病院の中を見るためにやってきたといっても間違いではない。夢の答えがみつかるかもしれない。きっとどこかの病室に、あの時と同じ毛布が、夢と同じ毛布があるという気がした。

 年甲斐もなく胸がどきどきとした。あの時と同じだ。

 

 夏休みに入ると僕たちは毎日一緒に遊んだ。伸介は麦藁帽子、稔は野球帽を被っていた。僕も伸介と同じような麦藁帽子(しかも、あろうことかピンクのリボンがついているんだ、「こんな女の子みたいな色いやだよ」と僕は猛反対したんだけど、母さんは気に入っているんだ、ちぇっ、)を被っていた。夏になれば必ず子供達はどちらかを被らされたが、活動的な子供には野球帽の方が人気があった。だってドラマやマンガの中の主人公は必ず野球帽で、麦藁帽子を被っているのは小さな子とか、育ちのいい子と決まっていたからだ。そして物語の中の育ちのいい「おぼっちゃん」は、いつもなよなよしていて嘲笑の的として描かれていた。

 僕たちは、じきに引っ越しで分かれ別れになることがわかっていたから、残りの日数を数えては必死に遊んでいたのだった。しかし、空き地の探検はそう頻繁にはできなかった。何しろ秘密を守るのが大変だったからだ。ある時などは、さあ空き地に入ろうというその瞬間にクラスの女子たちに出くわしたこともあった。

 「稔君」という声に僕たちが振り向くと、妙子とちび娘が立っていたのだ。ちび娘は、大人っぽい顔立ちで絵里子と言ったが、仲間には「エリーって呼んでね」、なんて言うバカヤローで、男子の中ではちび娘と呼ばれていたが、それでも顔は美人だったので妙子と同じくらい人気はあった。

 僕たちはまずいところを見られたという意識があり、稔は大慌てで背後にそびえる黒川日劇の看板を指さし、看板を見てたんだよな俺達、といった雰囲気で、「すごかったんだぜ、この映画。なあ?」と伸介に同意を求めた。

 ちび娘と妙子は看板を見上げると、顔をしかめて、「最っ低、」と言った。

 運悪く、看板の映画は、ピエロ・パウロ・パゾリーニの「ソドムの市」だった。

 「違う、違うんだ、」と伸介は声にならないつぶやきを漏らした。

 妙子は僕らを見つめて、くすっと笑うと、「男の子っていいなあ」と言った。そして、稔を一瞥すると小さくため息をついた。

 「稔君、新学期は向こうの学校でしょ」

 「うん」

 「手紙書かなきゃだめだよ」

 「うん」

 妙子はちょっと寂しそうに笑うと、ちび娘に「行こう」と言って背を向けた。

 「やばかったね」という伸介に「ああ」と応えながらも、稔はずっと妙子の後ろ姿を見送っていた。今まで見たことのない表情だった。

 

 さて、初めて病院の中に入ったのは、四回目の探検の時だ。空き地の他の部分はほとんど調べ尽くし、発見できる宝はすべて発見しつくしていた。といっても紙でできた大半のものはぼろぼろだったし、ブリキでできた大半のものは真っ赤に錆びていた。最初の日に発見したショーヤの保存状態は奇跡のようなものだったのだ。

 いよいよ病院探検というその朝、僕たちは空き地の中で、何年も前に打ち込まれた木の杭を的にして石投げの練習をした。杭は病院の庭の部分に立っていて、どうやら昔、整地か何かの時に打たれたものらしかった。腐るのを防ぐためか、杭の頭にはどれも空き缶が被せてあった。その赤錆びた空き缶の上に的になる石を置いて、五メーターぐらい離れて別の石で狙うのだ。幽霊の攻撃に対して石が効くとは思えなかったが、他に武器がない僕たちは石投げの練習でもしなければ勇気が湧かないのだった。

 ひとしきり石投げに興じた後、稔が「さあ行くか」と言った。

 伸介は親に頼んで用意してもらった水筒を斜めにかけ、麦わら帽子の紐を締め直した。稔は、額の汗を拭うと野球帽のひさしを後ろにしてかぶった。

 ポケットに投げるのに手頃な石をいくつか詰め込むと、僕たちは門をくぐり病院の入り口に立った。木造二階建ての建物だが、玄関の壁だけはコンクリートにタイルを貼ったものだった。ガラスの割れた引戸の横には診察券を入れるために駅のような小窓が作ってある。そこからのぞき込むと、乾燥してひび割れた雨戸の裂け目や窓の鎧戸の隙間から午前中の柔らかい光が幾筋も射し込み、内部は意外なほど明るかった。時折、遠くから車のクラクションなどが聞こえてくる。周囲は蝉の声がうるさく、幽霊など出そうにない雰囲気だ。

 玄関の戸はすりガラスで加藤外科という金色の文字が書いてあったが、いたるところが割れていた。そのガラスの割れ目から手を入れて鍵をあけることができた。内部に入ると、光の筋の中をキラキラと埃が舞い、しんと静まりかえった室内は、開業当時のままであろうと思えた。

 広い土間にはしわくちゃに変形して白く黴の生えた紳士靴が一足。たった今脱ぎ捨てたかのように片方だけ横になって転がっていた。土間からあがったところには、緑色の地に金色で加藤外科と書かれたビニールのスリッパが五足並べてある。待合室には茶色いビニールのソファーがあった。その横には籐で編んだマガジンラックがあり、黄色くなった新聞と雑誌が残っている。いずれも分厚く埃をかぶっていた。壁には黄色くなったポスターが「インフルエンザ」の予防注射を呼びかけている。

あまりの埃に「靴のままの方がいいみたいだな」と言いながら伸介が土間からあがった。

僕たちは誰が言いだしたわけでもないのに、自然と忍び足で歩いていた。

待合室の隣の診察室に入った。鎧戸の隙間から入る陽光が、机と床に縞模様を描いている。机も本棚も空っぽだったが、机の上に喉を見るときの金属のへらがひとつだけ置いてあった。そして埃のつもった診察用の寝台は、シーツがはずされ黒いビニールがむき出しだった。ガラス戸棚の中は空っぽで、黄ばんだ壁にはカレンダーやポスターをはずした跡が白く残っていた。

 診察室を出て廊下に出ると、奥はまた土間になっていて裏口のガラスドアが見えた。入院患者お見舞い用の入り口であろう。二階まで吹き抜けになっていて、外国映画に出てくるような階段がカーブを描いて上へ続いていた。

 階段は木製で、よく磨かれた手すりが柔らかな半円カーブを描いていた。手すりの一番下には、疑宝珠のような飾りがついている。僕たちはぎしぎしと音を立てる階段を踏みしめて二階の入院病棟へ上がった。階段の中央は、長年に渡って人が歩いた跡でなめらかにすり減り、少しへこんでいた。

 階段を上がりきると小さな踊り場があり、短い廊下が続いている。廊下の先が窓になり、明るい日差しが差し込んでいた。廊下の両側に一部屋ずつの病室があった。開け放たれた入り口は教室のような木のドアになっていて、横の壁には、名札を下げる釘が打ってあった。

 板敷きの床の上には寝台が二つ置いてあった。庭に面した窓は、千切れかけたカーテンが覆っているだけで、夏の日差しに照らされた木々の緑がのぞいている。寝台以外は何も残されていず、がらんとしていた。廊下を挟んだ反対側の部屋をのぞいてみた。

 こちらは時々誰かが入り込んでいたのか、先ほどの部屋とは対照的にゴミやくずが床のあちこちに散らばり、窓も割れていた。寝台は二つとも壁際に寄せられている。その反対側の壁は、吹き込んだ雨や小便か何かの黒ずんだ染みが壁紙に染み込み、黄色く黴が生えていた。壁紙はいたるところでぶよぶよと浮き上がり、剥がれかけては垂れ下がり、ケロイドのようなありさまだ。

 伸介が、「あっ」と小さく叫んだ。

 伸介の目の先には、壁際の床に広がる一枚の毛布があった。一畳ほどの広さを覆っている毛布は何度も水を吸っては黴が生え、夏になると乾燥して、雨が降ればまた湿気を吸い、これ以上はないと言うほど汚れていた。そして「何か」を覆って丸く膨らんでいる。偶然にも、小さな子供がくの字に体を折り曲げ、頭から毛布をかぶって寝ているようにも見える。毛布の端をほんの五センチめくれば、小さな指がのぞきそうだった。

 「死体でも隠していそうじゃないか」と伸介が言った。

 「死体」という言葉に、僕たちはびくっと反応した。僕たちだって今まで死体ぐらいは見たことがある。でもそれは、犬や猫や鳩だった。伸介だけは去年の秋、おばあちゃんのお葬式でおばあちゃんの棺桶を覗いたことがあるが、それにしてもきれいに化粧した眠ったような顔だったということだ。だから、自分たちと同じぐらいの年の子供の死体、それも年月を経て腐ったり骨になったりという死体などは想像の世界でしかなかったのだ。

 「死体だとしたら、もう骨だろうな」と稔がつぶやいた。

 「どんな死に方だったのだろう」

 「親はどうしたんだろう」

 「みなしごだったのかもしれない」

 「さらわれた子かもしれん」

 よしのりちゃん事件の記憶は僕たち子供の間でもまだ鮮明だった。

 「例の殺人鬼かもしれん」と稔が言うと、僕たちは息を飲んだ。

 「でも犯人は捕まってるよ」と伸介が反論した。

 「犯人が白状しなかった事件の被害者かもしれん」

 僕は、まるで自分の肌にその毛布をかけられたように感じた。夏だというのに手と足に寒ぼろが立った。腐った毛布のにおいが鼻の奥に忍び込んでくるような気がした。

 「調べてみるか」と稔が誰にともなく言った。

 「だめだ」と思ったが声にならない。

 幸い、僕たちの誰もその毛布を取りのけようとはしなかった。汚すぎて触る気になれなかったのだ。近くに手頃な棒もなかったし。僕たちの頭の中で死体のイメージはどんどんグロテスクな方向へ広がっていく。

 誰も動こうとしないのを見て、しょうがねえなあ、と首をふりながら、稔は毛布に近づくと、恐る恐る足で、そっ、と押してみた。もう一度ぐいっと踏むと、さっ、と顔色を変え 「うわっ」といって飛び退いた。

 そのとたん僕たちは「わっ」と叫んで部屋から出た。足音を忍ばせるのも忘れ、階段を駆け下りる。玄関で稔が一度転んだが、映画の早回しのような速度で飛び上がり、さらに伸介を追い抜いて表に飛び出した。ようやく足を止めたのは門のところだった。

 「どっ、どうしたんだよ!」と伸介が言った。

 「な、なんだか、ぶよぶよっと、していた」と稔。どうしたことか右手に加藤外科のスリッパを持っている。

 「腐乱死体だ、腐乱死体なんだ」と伸介が興奮して言った。

 僕たちは大慌てで空き地を出た。あまりあわてたので、伸介は半ズボンの端を鉄条網に引っかけて破いてしまったぐらいだ。

 表通りに出たとたん、周りの景色はいつもの日常に変わっていた。

 「大人に知らせた方がいいだろうか」という伸介に、「空き地に入ったことがばれちゃうぜ」と稔が言った。それに、いつもと同じこの景色の中にいると、あの毛布の下に本当に腐乱死体があったかどうか自信がもてなくなった。第一、僕たちはそれを確認もしていないのだ。

 そのくせ、どちらも、もう一度確認に行こうとは言いださない。でも、この明るい夏の光の下にいると、あの慌てふためいた僕らの逃げっぷりがおかしくなり、最初は「へへ」っという照れ笑いが、最後には大笑いに変わっていた。

 「ちぇっ、ズボンまで破いちゃった」と伸介は半ズボンの破れ目をいじっている。

 「持って来ちゃった」と稔は加藤外科のスリッパをかざした。

 稔の転げぶりは、テレビのドタバタ喜劇「ちびっこ大将」もかくやというところだった。

 結局、僕たちはこのことを大人には話さないことにした。ここへ入れなくなっては困るからだ。それに学校は休みに入っていて、先生とも次の出校日までは会わない。

 ただ、なるべくここへは一人では来ないようにしようと約束した。何かあったとき、誰かに助けを求めにいく人間が必要だからだ。つまり、僕たちの間でここはちょっぴり危険な場所だということになったのだ。でもちょっぴり危険な場所ほど面白いものはない。ましてや、ちょっぴり怖ければその面白さは完璧だった。この日、ここは僕たちの聖地となったのだ。