電脳遊名人
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第九章

  二台の乗用車のトランクに、二十五人分の昼食と着替えを積め込
むのは至難の技だった。
  「後ろの席には荷物を積むなよ、怪我人が乗るかも知れんからな」
と幹部は恐ろしいことを平然と言った。
  荷物を積み終わって額の汗を拭うと、時刻は十時を過ぎていた。
  愛大少林寺の面々は、旅館前の駐車場に散らばって、思い思いに
ウォーミングアップを行なっている。
  準幹部は駐車場の日陰の部分でアキレス腱を延ばしていた。二年
生はその反対側で軽くジャンプしたり、その場で足踏みをしたりし
ている。そんな具合に学年ごとに何となく集まって、体を動かしな
がらも口数は少なく緊張感が漂っている。
  合宿四日目の練習は「マラソン大会」と称される海までの長距離
ランニングなのだ。
  全員が道着の下に海水パンツを着用し、海水浴の態勢を整えてい
るが、何事によらずシゴキのネタとなる愛大少林寺のこと、そう簡
単に楽しませてもらえるはずがない。
  コースを知っているのは幹部だけ。ゴールの浜を知っているのも
幹部だけだ。ただ、おおよそ二十キロのコースを走らねばならない
ということだけが明らかにされていて、その試練の果てに昼食が待
っているのだ。
  当然、その距離は自分のペースではなく先頭を走る幹部のペース
(いつものハイペースだ)に無理矢理合わせて走る。おまけにあの
小部旗を守りながら、なおかつ気合いを途切らすことの許されない
地獄のランニングなのである。
  幹部たちは先ほどから部屋に閉じ篭り、コースのどこでサポート
隊の車を待機させようかといった打ち合わせに余念がない。
  ウォーミングアップを続ける一年部員たちは、この先の二時間近
いランニングを考えて暗澹たる気持ちになっていた。
  もっとも恐れているだけではなかった。同時にそれを気合いに転
ずるべく、必死で精神を集中させている。さらにリラックスしよう
と冗談を飛ばしたりして努力していたが、その冗談も少し湿りがち
だった。
  深尾は携行するタオルに思いきり水を染み込ませている。走りな
がらこっそりと水分を補給するためだ。
  肇は長めのタオルを用意した。腕の振りが疲れた際、首に掛けた
タオルを掴んで少しでも腕を楽にしようというわけだ。どうせ現地
で腕立て伏せなどが待っているに違いない。
  他にも、足のマメの部分に念入りにテーピングを施したり、痛め
ている関節にあらかじめ薬を擦り込んでおいたりと、一年の全員が
自分の体に対してできうるすべての手を打った。
  これらは全部二年生が教えてくれたことだ。そのノウハウの数々
が、彼ら二年生の過去一年間の苦労を雄弁に物語っていた。
  体力・経験とも豊富な三年生は余裕の表情だ。なにしろマラソン
大会の日は、午前・午後の練習の替わりに、走るだけでいいとも言
えるからだ。
  肇は道着の帯を少しきつめに締め直し、運動靴の紐も締め直した。
  二年生たちは全員鉢巻きで統一し、完走を目指していた。
  幹部の松浦がカメラを持ってふらりと出てきた。
  「写真を撮るぞう」
  学年別の記念写真だ。
  準幹部は全員が胸の前で腕を組んで、まるで寮歌を歌うかのよう
に不敵なポーズで撮った。余裕である。
  人数で劣る二年生は、全員が拳を大空に突き上げた瞬間をパチリ。
気合いが入っている。
  一年生たちは部旗を支える高御堂と肇を中心にして「七人の侍」
のポスターのポーズをとった。やけくそである。
  松浦はシャッターを押しながら「この中でゴールの栄光の写真に
残れるのは何人かな」と言って、「ふっふっふっ」と笑った。
  幹部達が次々と旅館から出てきて、車の準備が整った頃には、太
陽はほとんど真上に来ていた。
  気温は三十度を超え、日陰のほとんどなくなった景色は光で白っ
ぽくにじんで見える。
  整列する部員達の前にやってきた小島は、全員の顔を一通り見渡
すと号令をかけた。
  「出発!」
 「おう!」
  全員が気合いで答えて、走り出した小島の後ろから二列縦隊で続
いた。
  「愛大!」
  「おう!」
  「愛大!」
  「おう!」
  気合いが響いた。
  先発隊とサポート隊の車が発進した。
  幹部たちはVサインを示しながら、「がんばれよ!」と叫んで肇
たちを追い抜いていった。
  午前十時半、長距離ラン「マラソン大会」の開始だった。
                           
  歩道に立っている電信柱を二本過ぎるごとに、旗手を交代して走
り続けた。
  さすがにいつもより多少はペースを落としていたが、二十分も走
っていると、部旗のはためく音よりも、自分の気合いの声よりも、
息づかいの方が大きく聞こえていた。
  先回りしたサポート隊の車から、幹部が七キロ地点と書いた紙を
差し出している。思わず気合いが小さくなった。
  あと十三キロもあるのだ。
  「気合いを入れろ!」と二年生が叫んで、一年のけつを叩いた。
こうすることによって彼ら自身をも鼓舞しているのだ。
  (もうだめだ、もう遅れる)と思いながら、さらに何分か走り続
けた。
  自分が遅れると旗手の負担が増えて、一年全体が次々と倒れてし
まう。昨年の夏合宿では、一人残った朽木が最後まで旗を守ったと
いうことだ。
  それでも肇は遅れていく。一メートル、二メートルと遅れては、
気合いを出して何とか再び追いついていく、そしてまたじりじりと
遅れていくのだ。
  市川も遅れた。残った一年が旗を守りながらどんどん前へ進んで
いく。
  三年の近藤が隣を併走しながら、「がんばれ、追いつけ」と励ま
してくれた。
  (申し訳ない)と思った。
  やがて五十メーターほど遅れたところで、「最後まで投げるなよ」
と言い残して、近藤は集団に戻っていった。
  ダッシュで追いかけて行くのだ。
  恐るべきタフネス・・・。
  遠ざかる近藤の背中を見ながら(彼らに追いつけるのはいったい
何年後なのだろう)と思った。
  いや、そもそも追いつけるのだろうか。
  肇は自分の弱さを恥じた。その途端、足が止まってしまう。大き
く大きく深呼吸をして息を整えようとしたとき、腹筋が妙な具合に
震えると胃の中のものが喉元に込み上げてきた。
  思わず身体を二つに折ると側溝に吐いた。朝食と胃液が出て、多
少体が軽くなる。それでも心臓がパンクしそうだ。
  道路の端に腰を降ろすと目の前が暗くなった。自分の呼吸を六十
ほど数えたところで立ち上がった。
  息を整え、今度は自分のペースで走り出した。走りながら少しで
もペースを上げようとした。
  もう止まるまい、と思った。追いつくことはできないが、歩いて
しまえば差は広がるばかりだからだ。

  左手に海岸、右手には畑が広がっている。その中を肇が走る細い
サイクリング道路と車道が二本並んで延びていた。
  「はっ、はっ」という自分の息づかいの他には、波の音と蝉の声
だけが聞こえてくる。
  何とのどかな光景なのだろう。
  合宿初日以来、走りながら景色を見るのは初めてだったと気づい
た。
  三十メーターほど前を市川が走っていた。さらにその百メーター
前を高御堂が走っている。
  二人の姿は、かげろうのゆらめきの中で時計の様に規則正しく動
いていた。
  見つめる肇もまた機械の様に正確に足を出していく。
  すでに心臓と肺は走りのリズムを取り戻していた。それが景色を
見る余裕を生んだのだろう。逆に今では腿が上がらなくなっていた。
まるで他人の足のようだ。結局、持久力は心臓の筋肉の方が足より
強いということなのだ。
  それでも足は止まることなく機械的に駆けている。
  前へ。
  前へ。
  前へ。
  ああ、俺の頭の中は何と真白なんだろう。
  周囲を通り過ぎる景色がまさに景色だけの意味しか持たず、それ
に何の意味を与えることもなく、自分自身は何も考えず、ただただ
足を出している。こんな感覚は初めてだ。
  そう思うと、肇にはこの真白な瞬間が極めて貴重なものにさえ感
じられた。先輩からも、同輩からも、日常からも、未来や将来から
さえも切り離されたこの感覚は、とことんの苦痛の果てにだけ許さ
れた麻薬のような境地なのかもしれなかった。

  ゴールの海水浴場に着いたのは一時半だった。
  直前にゴールしていた市川が苦しそうに立っている。それでも倒
れ込んだりしないのは、愛知大学の少林寺拳法部がそういった甘え
たポーズ(つまり、脱落したけど最後まで走り通しました、という
ようなポーズだ)を嫌う団体だからだ。
  走り通すのは当然で、みんなに着いていけなかったのはやはり恥
ずかしいことである。
  立ち止ると、全身から一斉に汗が吹き出した。
  浜では、すでにゴールした一年生連中が砂浜に座って休んでいる。
やはり平然と座っているが、よく見ると表情は燃え尽きていた。指
の先まで完全に疲れているのだ。もしここにアグネス・ラムが現わ
れて「うふふ」と笑いかけてきたとしても、誰も笑い返すことがで
きなかったに違いない。
  手渡された缶ジュースの冷たさが感動的で、肇はしばらくその缶
を頬に当てていた。その後一息で飲み干したが、水分がどんどん体
に吸収されていくのがわかった。
  松浦が「さて記念撮影といくかな」と言ってカメラを出した。
  先頭と共にゴールした栄光組は、誇らしげなVサインで写真に映
った。
  肇を含む全体の四分の一が脱落組だった。
  脱落組は砂浜に横たわり、その横で栄光組が合掌している写真を
撮った。まさに戦死である。
  (ああ情けない)
  昼食は握り飯とお茶だ。さらにスイカが出たが、このスイカの甘
さは、疲れた体には実に美味だった。
  腹がふくれてようやく周囲を見る余裕ができた。
  夏休みも終わりに近づていて、海の波は高かったが、それでも家
族連れやカップル、若者のグループなどで、浜べは眩しいほど色鮮
やかだった。
  「こんな世界があったんだな」という三浦の言葉が印象的だ。そ
ういえば合宿に入ってからはテレビも見なければ新聞も読んでいな
かった。完全に俗世との交流がなかったのだ。
  高御堂は「裟婆の空気は久しぶりだ」と言ったが、知らない人が
聞いたら務所帰りだと思ったに違いない。
  以前のようにカップルをうらやましい、と思う元気もなかった。
  一年全員が「あしたのジョー」のように真白に燃え尽きていたか
らだ。
  それでも昼食の後、さらに一時間の基本練習があった。みんな覚
悟していたので、特にへたばるということもなかった。わざわざこ
ういった場所まで来て、千本突き蹴りをやらずに帰るわけがない。
つまりこれは約束事のようなものだ。
  肇は左の膝に少し違和感を感じながら練習をした。
  道着を着替えて電車で宿へ帰った後も、膝の違和感はなくならな
かった。

  六日目、ついに合宿打ち上げの日が来た。
  早朝ランニングの合掌する婆さんは、ついに十人を越えていた。
しかし、残念なことにお布施はもらえなかった。
  ランニングから戻った時、肇の膝が曲がりにくくなった。水が溜
まっているのだ。無理に曲げると、ぎゅるるる、と関節の間を水が
動くのが感じられた。それにすごく痛い。しかし、一人だけ弱音を
吐くわけにはいかなかった。故障は肇だけではないからだ。
  深尾は腰がおかしくなっていたし、都築は股関節が痛んでいた。
高御堂の手は直っていないし、市川もやはり膝をやられていた。
  さらに連日の柔法技の練習で腕が腫れ上がっていた。少林寺拳法
の柔法は関節を痛めるのではなく神経を短絡させるような痛みが特
徴だ。回数を繰り返すと腕の筋肉の内側から腫れてくる。どれくら
い腫れるかというと腕時計のベルトがきつくなるくらいだ。
  とにかく一年の一人でも弱音を吐けば、全員が総崩れになりそう
だった。
  誰もが歯をくいしばった。泣いても笑っても練習は後二回、合わ
せて五時間だけなのだ。
  午前中の練習では基本の後、演武の練習が行なわれた。
  午後の打ち上げ練習で演武大会が行なわれることになったのだ。
  「優秀組には賞品もあるぞ」と言った上で、幹部が組を決めてい
った。
  一年は三年と、二年は二年どうしで組を作った。肇は三年の近藤
と組んだ。
  「膝はどうだ」と近藤が聞いた。
  「何とか保ちます」と肇。
  打ち上げ目前で見学になっては、きっと後悔するだろうと思った。
一年全員がそう思っていたようだ。
  近藤は演武内容を決めていった。
  演武とは、技の流れを構成して演じることである。近藤は肇のた
めに二・三級技、自分のために初段の技を入れて構成した。
  合掌礼の後、左右に別れて近藤からの攻撃で天王拳の攻防を二つ、
肇からの攻撃で龍華拳の投げ技・龍王拳の抜き技から三合拳の攻防
が続いて、最後は龍華拳の投げ技で肇が決められて締めくくること
になった。
  一番の課題は、近藤の速度に肇がどれだけついていけるかという
ことだった。
  何度も何度も繰り返すうち、乱捕りだけでは得られない攻防のめ
りはりが解かってきた。
  「いいか、俺のこの二連攻は、タンタン、ではなく、タタン、と
行くんだ。だからお前の受けはタタ、そして反撃をするわけだから
タン。わかる?つまりタタンに対してタタタンといくわけだ」
  言葉ではやはりよくわからない。
  打ち上げ日だけあって、学年を越えて全員がこの演武大会に燃え
ていた。
  昼食後の自由時間にも一年と三年の組は旅館の庭で練習をした。
  都築と笠松の組はスピードを生かして、流れの核に白蘭拳の攻防
をすえていた。
  三浦と夏川の組は龍華拳のかなり高度な投げ技を練習している。
  二年の組はチームワークを生かしたスピーディーな演武を組んで
いた。
  幹部達は、そんな部員を眺めながら、「気合い入っとるがや」と
少しうれしそうだった。
  いよいよ午後の練習が始まった。今日だけは幹部も体育館まで自
分の足で走ってきた。
  打ち上げ恒例の幹部全員基本が終わり、十分の休憩の後、演武大
会が始まった。
  道場中央に白いビニールテープで仕切った演武場が作られた。そ
の対角線の位置に審判役の幹部が座り、さらにその周囲を囲むよう
にして部員が座った。当然正面には採点用のノートを手にした幹部
たちが座る。
  一年生が交代で時間計測係となった。通常の演武は一分三十秒か
ら二分の間で行なわれる。
  道場正面には賞品の酒やジュースが置かれていた。
  「演武大会を始めます」と宣言した後、大塚が言った。
  「第一組、笠松・都築組!」
  「おう!」と気合いを上げて、二人が中央へ進み出た。
  合掌礼のあと、いきなり、ぱぱぱん、と打撃の音を立てて天王拳
・地王拳の攻防が始まった。
  (お!)と思った。
  都築がうまくなっているのだ。気持ちのよいめりはりがついてい
る。
  各組の演武が進むにつれて、一年生がみなうまくなっているのに
気づいた。動きから完全に固さが抜けている。
  (俺はどうだろうか)と不安になった。
  「第六組、近藤・栗山組!」
  「おう!」
  肇は近藤と道場中央へ進んだ。
  正面へ礼。
  向き合って互いに礼。
  一呼吸置いて「おう!」と気合いを入れ、近藤は左前中段、肇は
右前中段に構えた。
  近藤が素早く踏み込み上中二連攻、肇はそれを受けて右上段の順
突きを返すが同時に中段蹴りをカウンターで返される・・・。
  緩急をつけて演武は進んでいく。道着の袖と裾が、突き蹴りの風
圧で「ぴしぱし」といい音をたてた。
  最後の投げ技が決まった瞬間、肇は「やった」と思った。ミスな
しで終了したからだ。
  不安だった最後の受け身も無事できた。合宿中に同じ技で深尾が
着地に失敗して腰をやられていた。
  柔道のように畳の上でなく、板の間で練習をする少林寺だからこ
そ受け身は必ず足から着地してショックを殺す高度な技術なのだ。
  最後の礼をして席へ戻るとき、近藤が「いい線いくかもしれん」
と言った。
  全員が演武を終了した。
  幹部は集まって採点を集計している。
  「ほう」とか、「まあ順当」などと言っているのが聞こえてくる。
本命とか対抗と言っているのを聞くと、どうやら「賭け」ていたら
しい。
  「只今より成績を発表する」
  一位は笠松・都築組。
  二位は水木・朽木組。
  近藤・栗山組は三位に入った。
  (奇跡だ)と思った。どうやら構成がよかったらしい。賞品はジ
ュースだった。
  最後の筋力練習は、みんな勢いでやっつけた。残っている体力す
べてをぶつけているのだ。腕立てや屈伸蹴りの一回一回に(終わっ
た、終わった、わっしょい、わっしょい)という、みんなの心の声
が聞こえてくる。
  長い一週間の練習の終わった時に、疲れていればいるほど満足感
は深いに違いない。
  やがて練習は終わった。
  道場に整列した部員たちの前に立ち、主将の大塚は全員の無事を
確認するかのように、ぐるりと顔を見渡すと言った。
  「これで合宿の練習日程をすべて終了します」
  「ありがとうございました」と全員が合掌した。そしてお互いに
合掌したまま、「ありがとうごさいました」、「ありがとうこざい
ました」と言い合った。
  みんなの顔が生き返っている。喜びに溢れていた。心の声が聞こ
えてくる。
  合宿を乗り切ったのだ。
  これでもう明日の朝は走らなくてもいい。
  これでもう家へ帰れる。
  これでゆっくりと飯が食べれる。
  ゆっくりと風呂に入れる。
  髭が剃れる。
  新しいパンツをはける等々。
  旅館までの帰り道は、主将と副将を先頭に歩いて帰った。
  全員が歩調を取って、整然と進む。
  「左、左、左右」
  「左、左、左右」
  「一、一、一二」「おう」
  「一、一、一二」「おう」
  「歩調、歩調、歩調とーれー」
  「一」
  「とーれー」
  「二」
  「とーれー」
  「三」
  「とーれー」
  「四」
  「とーれー」
  「一」「おう」「二」「おう」「三」「おう」「四」「おう」 
  「一二三四、一二三四」
  歩調の声にも気合いが入った。
  「学生歌!」と大塚が叫んだ。
  全員が愛知大学学生歌を歌いながら旅館まで歩いた。いつもより
時間がかかっているはずなのに、あっというまに帰ってきたように
感じた。

  この日の夕食が合宿打ち上げコンパになっていた。
  大広間に並んだ膳は、いつもの倍以上の皿数で、最終日の夜にし
て初めて旅らしい食事にお目にかかったわけだ。
  ビールと日本酒が用意されていたが、日本海の幸にはやはり地元
の酒がよく合った。
  OBの姿もなく、今夜は無礼講の趣だ。
  一年生は、無事合宿を乗り切ったという喜びと満足感で内心大い
に盛り上がっている。
  二年生は、もうすぐ準幹部だ、という喜びを噛みしめていた。
  準幹部も、もうすぐ幹部だ、という喜びを噛みしめていた。
  幹部は、たいした怪我人もなしに無事合宿を終了したことに満足
していたようだ。
  一年はビール壜と徳利を持って、幹部・準幹部の席を回った。そ
の合間に芸を披露する。肇と高御堂のピンクレディはまたしてもリ
クエストされた。
  座が盛り上がったころに、合宿の無事終了を祝って旅館から刺し
身が差し入れられた。
  「ありがとうございます。こりゃ来年も来なけりゃな」という大
塚の言葉に、おかみの顔が青ざめた。
  おかみにしてみれば、騒々しい客が今夜限りでようやく消えると
いう嬉しさ余っての差し入れなのだろう。聞くところによれば、今
までの合宿は文化系のサークルが中心で、体育会それも武道系の部
の合宿はこれが初めてだったらしい。
  「男女関係の乱れだけは心配せずにすみましたわ」と称賛された
が、肇たちの年頃の男にとっては、男女関係の乱れほどうらやまし
いものはないのだ。文系サークルっていいじゃないかと思った。
  新入部員歓迎と違い、一年も今回は酒で潰されることはなかった。
むしろ、合宿を乗り切ることによって、ようやく肇たちから「新入」
という言葉がとれ、一人前の「部員」として認められたのだろう。
先輩たちの言葉からもそれはうかがえた。
  肇は幹部の中では「筋力トレーニングの鬼」と言われている松浦
の前に座っていた。
  盃を返しながら松浦が言った。
  「栗山、俺はお前が一番最初に倒れてまうかと思っとったが、よ
う頑張ったな」
  意外な賛辞に思わず嬉しくなった。
  「でも自分は合宿を通じてお荷物になっとったんではないかと反
省しとります」
  「まあ、それでもお前は逃げなかったからな」
  「ありがとうございます」
  実は、と松浦が言った。
  「俺も一年の頃は体力なくてな、お前みたいにどべになってはダ
ッシュや拳立て伏せや屈伸蹴りをやらされとったら、三年の時には
逆にみんなを抜いとったわ」
  「信じられません」と肇。
  「お前もそうなれるぞ、体もでかいし」
  そして「絶対四年間続けろよな」と言った。
  確かに一番つらいと言われる最初の年の夏合宿は済んだのだ。
  「後はどんどん楽になるし、覚えるのが楽しくなるさ」
  そう言った後、「俺達はもう卒業だ」とつぶやいた。幹部達の実
質的な活動は、この合宿が最後なのだ。
  「一年、歌だ、歌うたえー」と誰かが叫んだ。
  一年が、ばらばらっと立ち上がり、学生歌と寮歌を歌った。
  最後の愛知大少林寺拳法部部歌は、全員が立ち上がって肩を組ん
で歌った。

  血と汗ながしたその数が
             己を磨く石となる
  怒涛波打つ東海の
             潮に薫る義和門拳
  ああ・・・・愛大
             少林寺拳法

  三河の空にこだまする
           愛大男児の意気高し
  千里の道は違えども
           永久に結びし友と友
  ああ・・・・愛大
             少林寺拳法

  深尾は感極まって泣いていた。それを見て都築が泣いた。
  他の一年は泣きはしなかったが、それでも鼻の奥が少し「つん」
とはなっていた。
  肇は思った。
  (この合宿で頑張ったことは、俺達の勲章だ)

  打ち上げコンパの後、幹部達は駅前の繁華街へ繰り出していった。
  準幹部は、一・二年を解放すると、やはり外へ遊びに行った。
  二年生も、土産でも買ってくる、と言って宿を後にした。
  みんな自由の空気を吸いに行ったのだ。
  高御堂が「海を見に行こう」と言いだした。今夜はどこへ行って
も先輩に出くわすだろうから、いっそ「海でも見に行こまい」とい
うわけなのだ。
  旅館の女中に、「出かけてきます」と一言いい残して、一年達は
表へ出た。
  肇と市川は膝をかばって、少し足を引きずっている。
  「深尾、お前、腰の方はだいじょうぶか」と聞くと、「だいじょ
うぶ、杖がある」と行って棒を見せた。
  なんと愛大精神注入棒だ。
  「いいんかよ、そんなもん持ちだして」と都築が驚いて叫んだ。
  「ええって、コンパの後、幹部が捨ててこいって言ったんだから」
  これには全員が驚いた。
  肇は、はっ、と思い当たった。先輩達のとる、体育会特有の右翼
的ポーズは、まさにポーズに過ぎないのではないか、と。第一、精
神注入棒とは言うものの、結局誰も精神注入をされていない。この
棒自体がポーズなのだろう。
  肇は少し嬉しくなった。
  (案外まともじゃねえか)
  「いくぞ」と言って、深尾は棒を杖にして歩きだした。
  いつも早朝に走っていたコースを、こうして夜歩いているという
のは妙な気分だった。景色がまったく違って見える。
  合宿が終わったんだな、ということをしみじみ感じた。
  「こんなところに地蔵があったぜ」と市川が言った。
  見ると、海岸沿いの松の木の根本に小さな地蔵と祠があった。
  「いつも走ってたから気づかなかった」と中原。
  しばらく歩くと、シャッターの閉まった酒屋の表に、ビールの自
動販売機があった。
  「おお」と言って、三浦がその自動販売機に駆け寄り頬ずりをし
た。
  そして「毎朝ここを通るたびに、お前でジュースを買いたくて・・
・」と泣く真似をした。
  笑いながら、全員が三浦につられてジュースやビールを買った。
  三浦はビールの缶を満足そうに見ながら、「これで、この地に思
い残すことはないな」と言った。
  いつもは海岸沿いにもっと先まで走るのだが、今夜はここから浜
に降りた。
  砂利のような砂を踏みしめ、真っ暗な海に真正面から向き合うと、
波の音が大きく迫ってきた。
  「太平洋もいいが、日本海もいいな」と中原が言った。
  「男の海だな」と高御堂。
  三浦はビール缶のプルタブを引っ張ると、
「合宿を無事乗り切った乾杯をしよう」と言った。
  全員が缶をぶつけ合った。
  「合宿の無事終了を祝って」と三浦。
  「俺達の青春に」と高御堂。
  乾杯!
  潮の香を肴に、全員がビールをあおった。
  肇は体の中に、押さえ切れぬエネルギーが高まるのを感じた。大
きく息を吸い込むと、うおー、と叫んだ。
  「俺も」と言って高御堂が叫んだ。
  都築も中原も・・・、全員が叫んだ。
  やがて高御堂が言った。
  「寮歌が歌いたい。昔の青春を気取るわけじゃないが、何となく
寮歌が歌いたい」
  「よかろう、歌おうじゃないか」と肇。
  「そんな古くさいことはごめんだが、お前らにつきあって俺も歌
うわ」と三浦が言った。そして「本来なら夏はビーチボーイズなん
だがしょうがない」と笑った。
  当然、三浦の本心ではない。ムードに酔う自分に照れているのだ。
  いいではないか、今夜だけ俺は酔うぞ、と肇は思った。素晴らし
き青春映画そのものではないか!
  「波の音に負けるなよ」と高御堂が叫んだ。
  「あたりまえだ」と答えて全員が歌った。

  月影砕くる東海に
  秋色深く星辰は
  古哲の愛知偲ばせて
  熱情燃ゆる男の児らの
  詩興は翔りて恋ひ慕う
  魂の故郷さまよはん

  硝煙の香消え失せて
  欧亜の山河に春来れど
  ローマアテネに比ぶべき
  ロゴスの憧憬涸れ果てて
  濁れる黄河の水を汲む
  たたずむ遊子に愁ひ濃し

  享楽の嵐吹き荒び
  怒涛にただよふああ祖国
  何れの日にか美はしき
  理想の彼岸へ至るらん
  汝の救ひは汝なりと
  願ひも悲壮ああ我等

  迷へる羊を導きて
  愛知の白馬にまたがりて
  真善美聖の旗かかげ
  集ふ紅顔騎士五百
  高師が原にいや高し
  気宇と意気地を見よや友

  暗雲晴れて松籟は
  東海の野に飄々乎
  そそぐ緑の月光は
  一掬交はす盃に
  珠玉を燦と沈めたり
  仰げば帰郷る雁一群

  沈潜ここに六星霜
  深淵騒ぎ  龍は
  世界の文化一となし
  宇宙の真を究尽し
  九天の雲天翔けり
  いざやいざいざ高飛せん
  九天の雲天翔けり
  いざやいざいざ高飛せん

  歌い終わると、急に回りが静かに感じられ、波の音と、風に揺れ
る松並木の音が胸に迫った。
  夏が終わろうとしていた。
  (この夜は、一生忘れないだろう)と思った。