電脳遊名人
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第八章

  合宿三日目の昼、歳のころは三十ぐらいの男性が旅館にやってき
た。通りかかった肇に「愛知大学の合宿はここですか」と尋ねてき
たので「そうです」と答えていると、いきなり後ろで「ちわっ!」
と叫ぶ者がいる。振り向くと二年の浅間であった。
  「先輩ごぶさたしております」という浅間の言葉にOBだとわか
り、あわてて「ちわっ」とあいさつした。ずいぶん間抜けなタイミ
ングだった。浅間の目が肇を責めている。
  週末ということもあり、仕事を終えた後、こちらへ来たのであろ
う。
  本多というそのOBは温厚な紳士に見えたが、幹部以下三年・二
年は目に見えて緊張している。その気配がぴりぴりと一年にまで伝
わってきて、おかげで肇たちもわけのわからぬまま緊張を強いられ
たのだ。
  あいさつに関する肇の失敗談はたちまち一年生の間に広まり、以
後少しでもOBくさい人物が現われた場合は、とりあえず叫んでみ
るという方法が採用された。おかげでこの期間、多くの宿泊客が度
肝を抜かれることになり旅館にはかなりの迷惑をかけたようだ。
  OBの接待は二年の仕事だが、さすがに奴隷経験が一年長いだけ
に彼らの応対は慣れたものだ。
  肇と深尾が洗面所でおしぼりを用意していると、水木がお茶を取
りに来た。
  「おい、午後の練習はOBが見てるからいつも以上に気合いを入
れろよ」
  興味をもった深尾が「あのう、本多さんはどんな先輩だったので
すか」と聞くと、水木は「俺もよくは知らないが、えれえ怖かった
そうだ」と言った。
  何でも、今の幹部が一年の時の幹部だそうで、それなら「怖い」
というのは当然のことであり、水木の答えは何ら答えになっていな
いなと思った。
  一年生にとって幹部は無条件に「怖い」存在だからだ。
  まさにOBとは、現役の部員、特に一年生にとっては謎の人だっ
た。ただ一つ確実なのは、OBが来ると練習がきつくなるというこ
とだ。
  おかげで午後の練習は血を吐くような熾烈なものとなった。幹部
もOBの手前、(指導に)全力を尽くすからだ。
  それでも合宿の折り返し地点に近づき、肇たちも体力的に余裕が
出てきたようだ。
  食欲からもそれは言えた。
  もう「食べられない、食べられる」というレベルを越えて、果て
しなく腹が減っているのだ。さすがに昼間はそうでもないが、夕食
から就眠中にかけては、疲労を回復して筋肉を作るために体がエネ
ルギーを欲するのだろう。寝ていても、ものを食べている夢を見る
ほどだった。
  朝食には必ず生卵が出たが、後片付けの時に決まって一個か二個
は余っていた。肇はいつも、それをポケットに忍び込ませて部屋に
持ち帰り、暇を見つけては飲んでいた。
  古釘で殻に穴を開け、チューチューと飲むのだ。
  「よくそんな気持ちの悪いことができるな」と都築が言った。
  「蛋白質を摂取して筋肉に変えるんだよ」と肇。
  もっとも都築も自宅の近くのディスカウントストアでまとめ買い
してきたリポビタンDスーパーを愛飲していた。いつも彼は、一番
きつい午後練習の前にこいつを飲むのだった。これは一種のドーピ
ングだろう。
  高御堂は合宿が終わるまで髭を剃らないと誓いを立てていたし、
三浦は煙草を断っていた。市川は成田山の御守りを首から下げ、二
年の中には合宿終了までパンツを替えないという恐ろしい誓いを立
てている者さえいた。誰もが何らかのジンクスを持っていたのだ。
  苦しい時の神頼みとは、よく言ったもので、何かに頼って、それ
を心のよりどころにしているわけだ。
  この翌年からは、ゲータレードとかXL1とかのスポーツ飲料が
少林寺部内で爆発的に流行るのだが(これを流行らせたのは、また
しても雑誌ポパイ、ああ、あのころは総ての若者がポパイに踊らさ
れていたのだ)、まだこの年には発売されてなかった。
  食欲の次は睡眠だ。
  二年と三年は、隙を見つけては眠ることができるが、忙しい一年
はそうはいかない。
  勢い、幹部室の外で待機しているときなどに、いつでも起きれる
ように立ったまま、壁にもたれてうとうとすることになる。
  鎮魂行の最中に船を漕ぎかける奴もいた。
  特に午前の練習前の鎮魂行は睡魔との戦いで、瞑目しているわず
か一分強の間に夢を見ることすらあったのだ。
  このとんでもない合宿の様子を見て「本当に鬼のような先輩たち
だねえ」と旅館の女中さんたちは目を丸くしていた。そして時々一
年生にこっそりとみかんやジュースなどを差し入れしてくれたのだ。
  特に可愛らしい顔の深尾が同情と人気を集めていた。
  「もてるなあ」と三浦がからかう度に、深尾はいつも憮然とした
表情で「あまり嬉しくない」とこぼした。
  残念なことに女中さんたちは母のような年令の方ばかりで、淡い
恋など芽生えようもなかったのだ。
  (青春小説とは全然違うわい)と思った。

  この夜は演芸大会が行なわれた。OBが差し入れたビール券が使
用されたのだ。
  大会に先立って、いつものように二年から注意を受けた。
  「いいか、芸とはいえ気合いを入れてやれよ」と水木が言った。
  たかが芸に「気合い」も何もなかろうと思うのだが、そこが体育
会なのだ。
  「各自、必ず一つは芸をすること」という言葉に一年生全員が腕
を組んで考え込んだ。
  第一、そんな芸達者ばかりが揃うはずがない。聞けば、一・二年
は必ず芸をしなければならないという有無を言わせぬ決まりなのだ。
  これはもう試練である。
  肇は無芸であった。いや大半の人間がこの種の「芸」とは無縁の
はずだ。それを無理強いするところに問題がある。
  とはいえやらねばならない。それも「気合い」を入れて。
  どうしたものかと頭を抱えていると、高御堂が肇に助け船を出し
た。
  「俺と一緒にピンクレディをやらないか」
  「えっ」と肇は聞き返した。
  高御堂とピンクレディというアイドルの組み合わせが、ぴんとこ
なかった。彼の風貌にはおしゃれで華やかなアイドルより、「苦節
十年北から南、日本全国地方を周り、ついに咲きます演歌の花が、」
という方がしっくりくる。
  第一、彼と「芸能」という言葉があまりにそぐわない。むし
ろ「興行」のほうがあいそうだ。
  歌謡曲にしても、彼には「唐獅子牡丹」とか「網走番外地」とい
った、いわゆる筋ものというか盃ものといおうか、つまりやくざっ
ぽいものがぴったりしそうだったからだ。
  驚いた肇の顔を見て、高御堂は「俺だって好きでやるわけじゃな
い。これが体育会の宿命なんだ」とニヒルに笑って見せた。
  「そうだな」
  二人は部屋の隅に行くと、口で「ちゃんちゃん」と伴奏を入れな
がら「振り」を合わせた。
  「カルメン77」だった。
  我ながら情けない姿だ。五厘の頭で、しかも短パンから毛むくじ
ゃらの足を出して踊るのだから。
  肇は心の中で両親に詫びた。ついでに弟にも詫びた。
  肇をだしにして箔をつけようとする弟の姿が目に浮かんだ。
  「俺の兄貴は大学でなあ・・・」、ピンクレディをやってるんだと
は言えないだろうなと思った。
  意外にも、高御堂は歌の振りをよく知っていた。
  「違う!ここは腰をツイストさせるんだ」とか「かかとは上げる」
とかの注意を受けながら、肇もなんとか「振り」をマスターしてい
った。
  肇は心の中に浮かんだ疑問を消すことができずに、レッスンが一
段落したところで思わず、「なあ、お前、本当はピンクのファンな
んだろう」と聞くと、高御堂は「そこらのガキと一緒にするな」と
言って烈火のごとく怒った。音楽に関する会話の中で、高御堂はい
つも歌謡曲を軽蔑し、キング・クリムゾンとかイエスだとかプログ
レッシブ・ロックを崇拝していたからだ。そのためハード系を好む
肇がディープ・パープルとかレインボウ、キッスなどと言うと、ま
るで「困ったぼうやだ」とでも言いたげな表情で苦笑するのであっ
た。
  さて一方、都築は二人と反対の隅で壁に向かい腕を組んだまま
「ぶつぶつ」と何かをつぶやいている。いったい何を考えているの
だろうか。
  旅館の大広間を借りて、いよいよ演芸大会が始まった。
  心底リラックスしているのは四年生だけである。
  三年はまだビールに気を奪われるだけの余裕があったが、二年は
一年がしくじらないよう気を配っていて、ビールどころではなさそ
うだ。
  それでもよく冷えたビールはうまかった。三日間の練習で体中の
水分が全部入れ替わっているのだろう。ビールは文字どおり五臓六
腑に染み渡った。慢性的に水分が足らない状態の体にビールを一気
に流し込み、(うまい!)と思いながら「ぷはー」と息を吐きだし
た。
  さっそく一年から芸が始まった。
  声帯模写とかもの真似などが主たる芸である。もっとも、みんな
体育会各部の誇る芸達者を見慣れているので、己が芸の拙さを自覚
しながらの演技である。実に盛り上がらない。気合いの空回りだ。
  そんな中で都築が異彩を放った。幹部からテーマをもらい即興で
歌を歌ったのだ。
  幹部の指定した「合宿」というテーマは、哀感に満ちた演歌のメ
ロディにでまかせの歌詞をのせ、一曲にまとめ上げた。
  「一年生」というテーマは、黒っぽいブルースのメロディで一年
の日常を歌い上げ、感動を呼んだ。もっともブルースのルーツを辿
れば黒人奴隷に行き着くわけで、これはまさに現在の都築達の状況
にぴったりなのだ。
  「見事!」
  「あっぱれ!」とやんやのかっさい。
  幹部の坂本が「都築、よかったぞ、もう一度同じ歌を頼む」と言
い、全員が爆笑した。繰り返せる筈がない。
  緊張で冷汗をかいた都築が席に戻ると、高御堂と肇の番だった。
  二人は演武を披露するかのように前へ進み出て、合掌礼をした。
  「一年、高御堂」
  「一年、栗山」
  声を合わせて「ピンクレディをやりまーす」とハモって「構え」
た。
  高御堂にリードされながら、口で伴奏を入れ歌って踊った。
  一年の中で一番ごつい高御堂と二番目にごつい肇のピンクレディ
なのだ。
  やればやるほど「受け」た。
  高御堂は気合いが入っていた。というよりも喜々としてやってい
るのだ。
  「体育会の宿命さ」と言っていたわりには、頬は喜びに紅潮して
いる。陶酔と言ってもよいだろう。
  (やはりファンだったのだ)
  ついに高御堂の弱点を見つけたぞ、と思った。
  この夜こそ、少林寺拳法部にピンクレディ要員の誕生した記念す
べき夜だった。
  思えば当時、ピンクレディの人気は赤丸急上昇中で、大学のサー
クルコンパでは必ず一組のピンクレディ要員がいたのである。
  一方、キャンディーズ要員はどうかというと、これが意外に少な
かった。人気が先月の解散宣言でピークに達したあと、じりじりと
下り坂になっていく上に、芸達者(ないしは恥知らず)を三人必要
とするため、キャンデイーズ芸は後継者を育成することが難しかっ
たのである。
  この夜から始まった肇の試練(高御堂にとっては至福であろう)
は、結局ピンクレデイの解散まで続くことになるのである。
                            *
  合宿が終わった解放感に、みんな浮かれていた。列車の中で先輩
の悪口を言いながらジュースをがばがばと飲み、駅弁をおかずにパ
ンをぱくぱくと食べ、ついでに冷凍みかんをさくさくと食べ、こん
なに食べてもまだ腹が減っていると思った時、これは夢なのだと気
づいた。
  合宿はまだ半分しか終わっていないのだ。見るのは、合宿が終わ
ったという夢と、ものを食べている夢ばかりで、将来とか、政治問
題とかを暗示する夢はおろか、この年頃に相応しい性欲に関する夢
すらまったく現われず、肇は我ながら情けないと感じていた。交尾
期以外の犬や猫が夢を見るとしたら、やはり食い物の夢ばかりなの
ではなかろうか。
  もしここに悪魔が現われ、「今すぐ合宿を終わらせてやる。その
かわり七十年の寿命を六十年にするがいいか」と聞かれたなら、肇
は何の迷いもなく「五十年でもかまいません」と言ったに違いない。
  よくドラマの中で「肉体の傷より深い胸の痛み云々」という台詞
が出てくるが、そんなことを書くシナリオライターたちは、きっと
本当の肉体の苦しみを知らないんだろうなと思った。
  今現在の肉体の苦痛の前には、失恋も孤独も挫折も疎外感も恥も、
ちっぽけなものに過ぎないのだ。そんなメンタルな苦痛は贅沢なの
である。
  「起床!」という叫び声に、一瞬にして覚醒した。まさに陳腐な
表現だか「ばねのように飛び起きた」のだ。
  「夜間特別練習!」と言う声が聞こえる。声の主は廊下らしい。
幹部の声だ。
  「夜襲」である。
  本来は、夜間特別練習の略で「夜習」なのだろうが、幹部意外の
部員にとっては「夜襲」以外の何物でもない。
  「三分以内に表へ集合!」
  肇は飛び起きざまにすぐ道着の下を着ていたが、驚いたことに、
さらに素早く着替えて表に走る者がいた。道着を着て寝ていたとし
か思えない。
  肇は、道着の上をはおりながら帯を持ち、走りながら着た。
  玄関前では、一番早かったらしい都築が、整列の基準となって右
手を上げ、そこへ部員たちが「わっ」と駆け寄って整列していく。
  幹部が精神注入棒を持って玄関に立って、「後三十秒、二十九、
二十八、・・・」と冷酷なカウントダウンを始めた。
  しかし恐るべし、後十五秒の段階で全員が整列しているではない
か。軍隊経験も何もない、ちょっと古い言い方で表現すれば「戦争
を知らない子供達」である肇たちも、緊張のあまりこういうことが
できてしまうのだ。
  それでも一番早かった都築は、帯が少し長かった。胴へ二回巻く
ところを一回しか巻いていないのだろう。市川は中原の帯をしてい
たし、中原は何と浴衣の帯をしていた。ただ、白帯なので夜目には
なかなかわからない。中原は平然としていたが内心は冷汗だろう。
  「只今より、夜間特別練習を始めます。夜なので気合いは含み気
合いとする。ランニングも気合いは入れないこと」と大塚が言った。
  「出発!」という大塚の号令で、部員達が駆けだした。
  全員が駆け足で近くの公園まで移動する。気合いがないとはいえ、
真夜中に三十人近い人間が立てる足音は意外に大きく街中に響いた。
家の中でこの音だけ聞いた者は、さぞかし不気味であろうと思った。
  公園では基本練習が行なわれた。内容はいつもと同じだが、密度
が違った。恐怖感もあった。
  幹部がぐるぐると部員の間を回り、手の抜きようがなかった。
  「手押し車!」
  二人一組で手押し車をやらされた。それも握拳で・・・。
  スピードが遅いと何度でもやりなおさせられる。かといって大き
なピッチで拳を運べば地面とすれて拳は怪我だらけとなる。そこで
小刻みなピッチで拳を素早く動かす必要があるわけだ。
  手押し車のほかにも、うさぎ飛び、かえる飛び、あひる、フェン
スに向かっての肩車スクワット、屈伸蹴りなどのメニューがやつぎ
ばやに繰り出された。
  まさに体力消耗運動のフルコースである。  それでも、寝起きで
しかも夜中という異様な状況なので、びっくりしている肉体は苦痛
を感じる暇がないのだろう。
  通常からは信じられないようなメニューを何とかこなしている。
当然、幹部の発する恐怖感も理由の一つだ。
  「これで夜間特別練習を終わります」と坂本が言ったときには、
全員が「ほっ」と緊張を解くのが感じられた。
  三十分程かと思ったが、後で時計を見ると一時間近く経っていた。
  「かわりに明朝の練習はなし」と言って幹部たちは部屋へ帰って
いった。
  ぐったりとして部屋へ戻りかけると、水道のところで高御堂が手
を洗っていた。
  「まいったぜ」と言って手を見せた。
  拳頭のマメ以外の場所が切れて血だらけだ。肇も一箇所だけ擦り
傷ができて血がにじんでいるが、高御堂はもう血みどろといった方
がいいぐらい出血している。無茶苦茶に手押し車をやったせいだろ
う。
  「お前は加減を知らんからだ」と肇。
  「最終日まで何とかもつさ」と高御堂は笑った。
  部屋へ戻るといい匂いがした。
  「おお!」と全員の口から声が漏れた。
  見ると、部屋の中央には握り飯を山盛りにした大皿が三つ並んで
いるではないか。
  (こ、これは・・・)
  「幹部の差し入れだ」と水木。
  「夜襲の恒例」と朽木が笑う。
  「うおー」とか「ごっつぁんです」とかの声が飛び交い、たちま
ち握り飯は消えていく。
  「夜襲」には驚かされたが、この空腹に握り飯はありがたかった。
鬼の幹部も粋なことをやるわいと思った。単なる鬼ではないのだ。
  その夜は夢も見ずに寝た。
  合宿はまだ半分しか終わっていないが、逆に折り返しを回ったと
ころとも言えた。つまり半分は乗り切ったのだ。
  握り飯を食っただけで、指折数えた打ち上げまで後わずかという
気になった。我ながら単純である。