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第七章
「暑そうだな」と都築が言った。
まだ朝の六時半だというのに、日差しが強い。小部旗を立て、旅
館の前に整列した部員たちは、すでに鼻の頭に汗をかいていた。
合宿初日の最初の練習ということもあり、全員の横顔に緊張が漂
っているのがわかった。
「幹部さんがみえられました!」という中原の声が聞こえた。彼
は今朝の幹部接待についている。
早朝ランニングのリーダーは誰であろうか、おそらく走りに強い
小島副将あたりだろうなと思っていると、旅館の玄関ががらりと開
き、案の定、短パンにスニーカーという軽装の小島が走り出て「お
早うございます!」という怒号の挨拶に迎えられている。
(今朝のペースはきついぞ)と肇は覚悟を決めた。
小島は手に昨夜の深尾の作品を持っていた。
「ただいまより早朝練習を始めます。まず柔軟体操。屈伸!」
全員で気合いを入れながら屈伸を開始する。
さらに伸脚、アキレス腱、ジャンプと、五分ほど全員で柔軟体操を
して体をほぐしたが、それでも体は半分眠っている。
小島が叫んだ。
「行くぞ!」
「おう!」と全員が気合いで応えて走り出した。
「愛大!」
「おう!」
「愛大!」
「おう!」と気合いをかけながら早朝の街を駆けていく。静かな
街頭に肇たちの気合いがわんわんと響いた。
犬を連れた親子連れがびっくりしたように振り返る。
前日にコースを検討してあったのだろう、小島は道に迷うことも
なく、予想通りのハイペースで飛ばしていく。一年は小部旗を掲揚
して走っていた。先頭を小島が走り、その後から二列になってつい
ていくのだ。
部旗はかなりの重さなので、電柱二本の間隔をだいたいの目安と
して、次の者が手を叩いて合図をすると同時に旗手が交代すること
になっていた。そして後続の一年は、翻る旗が電柱や立ち木にから
まないよう注意をはらうのだ。
狭い歩道をこうやって走るのは、通行人にはかなり迷惑なことで
あろうと感じた。
部旗をバトンタッチする時が一番危なかった。足元がおろそかに
なり、凸凹があると転倒の危険もある。逆に足元に気をとられてい
ると交通標識の低いものに頭をぶつけることがある。深尾は6月に
この事故をやってしまい四針ほど頭を縫って白いハゲが残っていた。
通常なら別に気にならないのだが、五厘刈りだとよく目だった。
部旗に気をとられて気合いが小さくなると、後ろから二年生にど
やされた。肉体プラス精神の苦痛である。
(く、苦しい)
まだ醒めかけの心臓がどきどきと悲鳴を上げる。
街中に響き渡る気合いの声に、職場に向かう勤め人が好奇に満ち
た目を向けてくる。
人どおりのある町中を通り抜けるとやや走りやすくなった。周り
には畑が広がりだし、その所々に朝早くから野良仕事に精を出す老
人たちの姿が見える。
時ならぬ気合いに、何事かしらんと顔を上げた老婆が、近づいて
くる肇たちに目を丸くした。
青々とした頭の若い坊主たちを先頭にした集団が、少林寺の旗を
立て、しかも道着の胸には卍のマーク・・・。
肇は、通り過ぎざま、老婆が深々と頭を垂れて合掌するのを見た。
(そんなにありがたく見えたのだろうか)と思った。それでも、
余りの苦しさに笑うこともできなかった。
十五分ほどで海岸に着いた。宿から四キロ前後だろうか。砂とい
うより砂利のような海岸だ。
「調息!」という号令で、部員たちは大きな円陣を組んで深呼吸
をした。
肇の呼吸がほとんど回復しないうちに、冷酷にも「五列縦隊!」
と号令がかかる。ダッシュだ。
「ダッシュ五本!」
五人一組でダッシュをやらされた。組の中でのどんじりを集めて
さらにダッシュ。そのどんじりにまたペナルティのダッシュが課せ
られる。
肇はすべてのダッシュにエントリーさせられた。走るのは苦手な
のだ。
(くそっ、情けない)と思った。こうやって人よりたくさん走ら
されれば、いずれは追い付いていくのである。
次に待っていたのは基本練習だった。
少林寺とか空手とかの打撃系格闘技が、海岸というロケーション
でやることはただ一つ。映画や劇画でおなじみの千本突き・千本蹴
りだ。
海に向かって一列に並び、小島副将の気合いに合わせて突き・蹴
りを出す。
小島は「精神注入棒」を肩にして全員の間を回り、一年の型を矯
正していた。
手を抜いて蹴りの低くなった部員の前へ来ると、蹴り足の前に棒
を差し出し、「棒に触らんよう蹴れ」と言った。そうするためには
腿を高く上げねばならないからだ。
驚いたことに、合宿を通じて、この棒はこういう使用しかされず、
ついに部員の尻に振り下ろされることはなかったのだ。
行きと同じコースを走って帰ってくると、時間はちょうど七時半。
準幹部と二年は部屋に引き上げたが、一年生は朝食準備と幹部接待
で休む間もない。
朝食はなかなかうまかった。すでに一汗かいて体が目を覚まして
いるからだろう。
食べ終わって三十分も経たないうちに、先発隊の市川と都築が胴
や救急箱などの入った信玄袋を担いで出発した。一人で二つ運ぶこ
とになる。当然彼らは歩きであった。
その後ろ姿を見送って、中原は「まるでシェルパだな」と言った。
午前中も九時を過ぎると、ますます暑くなった。蝉の声が聞こえ
てくる。高校の頃は、寝ころんで本でも読みながら、アンニュイに
満ちた時を楽しんでいたのに・・・、と思った。
目の前に汗をかいたカルピスのグラスが浮かんでくる。そんなこ
とを考えてはいけないのだった。つらくなるだけだ。
九時半かっきりに部員たちは体育館へ出発した。当然、小部旗を
押し立ててである。
もっとも先頭に立つのは準幹部であるから、ペースは配分してい
る。このあと午前・午後の練習は五時間も残っているからだ。
走りだすと、すぐに汗が吹き出してきた。日差しが坊主頭にちく
ちくと刺さる。
三・六キロと聞いていたが、もっとあるように感じられた。特に
大半の一年生は体育館の場所を知らないのだからよけいに遠く感じ
た。
のどかな田園風景も、走っているつらさで(いい気なもんだがや)
と妙にひねくれた感想を抱いてしまう。
小学校や公民館といったそれらしい建物が近づくたびに、(着い
たかな)と思うのだが、その期待を裏切って、先頭の準幹部は通り
過ぎていく。
三十分ほど走って先発隊に追いついたところが練習場所として借
りている体育館だった。
二年と三年が一息入れている間に、一年は汗を滴らせながら道場
の準備を整えた。正面に旗を張り、胴を並べ、おしぼりを準備する。
準備をしながら、これは遠いぞ、と肇はうんざりしていた。
すべての準備が整った十時ちょうどに、幹部が車でやってきた。
鎮魂行の後、基本練習が始まった。ランニングで消耗している肇
は早くも顎が出そうだ。部員たちの足元にぼたぼたと汗が落ち、た
ちまち染みが広がった。
よくここまで汗が出るものだ、と思った。スリップして転倒する
のを防ぐため、突き蹴り前進の前に、一年生が床を拭いて回った。
前半が終わり休憩に入ったが、部員たちの並んで座った跡に、汗
は人数分の長い染みを作った。
後半は筋力トレーニングが中心になった。これまたきつい。それ
でも心臓に負担はかからないので、肇は多少エネルギーを回復でき
たのだった。
みっちり二時間の練習が終わると、幹部はさっと車で引き上げた。
肇たちは再び部旗を押し立てて宿へ走った。
走っていても、周囲を見る余裕などなかった。気合いを入れなが
ら、部旗と前を走る仲間の背中だけを見つめて、自分の頭の中が真
白になっていくのを感じた。
「吸う、吸う、吐く、吐く、吸う、吸う、吐く、吐く・・・」
ああ、まさに行だ。どこかで読んだ「千日回峯」という密教の行
を思い出した。
昼食はあまり食べられなかった。幹部の給仕のせいばかりではな
い。午後から再び練習だと思うとそれだけでげんなりしたのだ。
まだ初日だと思ってさらにげんなりした。
全員が無口である。
野球などのボールゲームならリーグ優勝とか色々な目標があるだ
ろうが、少林寺の練習は基本的に修業であり勝敗とは縁のないもの
だ。まさに練習の目的は精神力とか一致団結とかの抽象的なものに
しかなりえない。そんな抽象物に対してここまでがんばってしまう
のだから、俺達ってすごく真面目なのかも知れないと思えた。
食事後三十分で、もう「シェルパ」たちが出発した。今ではこの
「シェルパ」は役得であることがわかった。体育館までの一時間、
先輩の目から自由になり、おまけにランニングがさぼれるのだ。
昼食後のわずかの時間で、一週間分のシェルパ勤務のシフト表が
作られたぐらいだ。
午後は三時間の練習だ。ランニングで体育館に着いた段階で、一
年の大半がばてていた。前半の基本は、まさに気合いのみ、今にも
倒れそうな気がした。これに比べれば、通常の練習は天国であった
と思えた。
幹部は精神注入棒で床を叩いて気合いを入れる。入部以来、一番
つらかった。
まさに強制されねば絶対にこなせない練習である。
後半の柔法練習でようやく回復した。少なくとも宿へ帰れる程度
には回復したのだ。
夕食はついに食べられなかった。少し食べたのだが、後から全部
吐いてしまった。
あれだけ汗をかいてもちゃんと小便が出た。珈琲のような色で、
これが血尿というやつだった。
(ああ青春小説と同じだわい)と思った。
さすがに二年・三年は体ができているのだろう。どんぶりで何杯
もお代わりをしている。
夕食後、準幹部が幹部室に呼ばれた。部屋の外に準幹部たちの
「はい!はい!」という気合いの入った返事が聞こえてくる。
次は二年生が準幹部に呼ばれて同様の事が行なわれた。「括入れ」
であった。
二年生は戻ってくると一年を正座させた。
「お前たち、今日は苦しかったろう」と水木。
「はい!」
「苦しいだろうが、苦しい顔を見せるな。気合いを入れろ。気合
いが抜けると事故のもとだ」
浅間が言った。
「明日以降、OBがちょくちょく顔を出す。とにかく弱った顔は
見せぬよう」
「それから」と朽木が言った。
「合宿には夜襲というのがある。夜間特別練習のことだ。まず二
日目から三日目が危ない。幹部に付いている奴は十分注意して、気
配を感じたときはすみやかに報告するよう。以上」
その後、幹部接待が十一時まで続いて就眠となった。
なまっていた体にいきなりの全力練習で、疲労は激しかった。全
員が死んだように眠った。死ねばもっと楽だろうとも思えたが、あ
いにく人間の体は以外とタフにできているものだ。
翌日も六時になると全員がぱっちりと目を覚ました。緊張してい
れば大抵のことができるのである。
二日目は、目覚めると同時に全身の筋肉がきしんだ。全員が「う
ーむ」とか、「痛てえ」などと苦しげにうめきながら身を起こした。
早朝練習のランニングでは、またもや婆さんに合掌をされた。驚
いたことに婆さんは二人に増えている。遠くから肇達を見つけると、
昨日の婆さんが「あれ、あれ」とでも言うように、もう一人の婆さ
んに話しかけ、二人で顔を合わせて何やらうなずくと揃って合掌し
たのだ。明日はお布施をいただけるかもしれんと思った。
幹部も今朝は二人走っている。この婆さんの「朝の合掌」を見る
ために出てきたのだ。
ランニングは身体の目覚めていない朝が一番きつい。肇は走りな
がら、心底「逃げたい」と思う瞬間があった。走るのをやめること
ができるなら怪我をしてもいいとまで思った。
通りを車が走ってくるとき、ふらりと歩道からよろめき出るだけ
でいいのだ。
結局、肇は毎朝その誘惑と戦いながら走ることになった。
この二日めの昼から飯がまた食えるようになった。合宿のリズム
に体が馴れ始めたのだ。
同時に、気合いである程度肉体の限界を越えることができるとい
う気がしてきた。
例えば、「だめだ、だめだ」と思ってだらだらとやるよりは、気
合いを入れて、動と静、めりはりを効かした方が疲労が少ないよう
に感じるのだ。
二日目の夜だった。
「失礼いたします」と言って肇は幹部の部屋に入った。
「おう栗山、整体やってくれ」と坂本が言った。
整体術は少林寺の学科にも入っている。早い話がマッサージとか
カイロプラクティックのようなもので、これを上手にやってもらう
と本当に気持ち良くて、眠ってしまうほどだ。逆に真剣に施すほう
は、大いに疲れてしまう。
一年生は練習以外にこういう仕事もあるのだった。
肇はうつぶせになった坂本の上にまたがり整体を行なった。この
坂本という幹部は、後輩いびりが上手だった。どんなように上手か
というと、周囲だけでなくいびられている本人さえ思わず笑ってし
まうようないびりで、これは本人が傷つかないだけでなく、練習の
厳しさにちょっとしたゆとりさえ生んでしまうという不思議なもの
だった。
ぽたぽたと落ちそうになる汗をTシャツの袖で拭いながら、うん
うんと気合いを込めていると、「おい、何か歌え」と言われた。
肇は何曲か「ど演歌」を歌った。それしか許されないからだ。
坂本は「栗山、お前、春歌とか軍歌ってあんまり知らんだろう」
と言った。
「はあ、知りません」
「教えてやるから覚えて帰れ」
「ありがとうございます」
「俺の後からついて歌えよ」
「はい」
坂本が歌い始めた。
「あなたのリードで島田も揺れる」
「あなたのリードで島田も揺れる」
「チークダンスの悩ましさ」
「チークダンスの悩ましさ」
「乱れるすその・・・」
言わずと知れた「芸者ワルツ」だ。整体の間、ずっと歌わされた。
「坂本、あんまり変な歌を教えるなよ」と松浦が笑った。
「そんなことないぞ、勉強になったよな」、おい、と同意を求め
られ、肇は、「はいっ、ありがとうございました」と言った。
それ以外に何と言えばいいのだろう。
「栗山、お前はいい咽しているから、しばらく人間ジュークボッ
クスをやっていけ」と小島が言った。
「はっ?」と言う肇に、「まず押し入れに入れ」と指示が飛んだ。
慌ててお仕入れに入ると外から戸を閉められた。押し入れの中は
狭かったが暗やみということもあり、かなり寛いだ姿勢が取れた。
幹部接待等で満足に腰も下ろしていなかったから、これは有り難い
と思った。
「番号を言うから適当に歌えよ」と小島が言った。
「はいっ」と応えると同時に、「Bの五」と声がかかった。
「う、ういーん」とマイクロモーターの擬音を入れた後、「わわ
わわぁー、わわわわぁー」と口で伴奏を入れ、「中の島ブルース」
を歌った。
「次は何を歌う気かな」とか言いながら、今度は松浦が「Aの二」
と言った。
肇はとっさに考えると、今度は「ちゃららんらんらんらんらん」
とアップテンポな伴奏を入れて「青い山脈」を歌った。
幹部の笑い声が聞こえてくる。
暗やみの中で何曲か歌っているうちに、外が静かになった。
幹部が何人か出たり入ったりしていたらしいが、今はしんと静ま
りかえっている。
(早く出してくれないかな)と思いながらも、指示のあるまでは
出ることができない。
(これは困った)
そのうち、柔らかな布団の上にいるだけで眠くなってしまい、少
しうとうとした。
「失礼します!」と言う声に、はっと目を覚ました。二年の水木
と準幹部の笠松の声だ。
(何だろう)と耳を澄ましていると、「実は栗山が、」といきな
り肇の名前が出た。
(俺がどうしたっていうんだ)
「脱走しました」
(!)
幹部の坂本が「何っ?」と叫んだ。
部屋の中に一瞬、重い沈黙が漂った。
肇はどうしようかと思ったが、とりあえず軽挙盲動を慎んでじっ
と息を殺した。
そこへ「ええ湯だった」と、妙にのんびりした声で松浦が入って
きた。
坂本から事情を聞いて「あれっ、栗山、さっきまで押し入れの中
で歌っとったがや」と言った。
坂本は「あの後だれか出してやったか」と聞いた。いや、俺は便
所にいっとったから、とか、お前言ったろ、とかの幹部たちの声が
聞こえた。
「まだ中かもしれんぞ」と小島。
「まさか」と松浦。
「呼んでみろ」、いやいるはずないとか言っているうちに、いき
なり坂本が「栗山っ」と呼んだ。
(助かった)と思って大きな声で「はいっ!」と応えると、部屋
中に大爆笑が起こった。
「す、すまん、も、もう出ていいぞ」と笑いながら小島が言った。
何とも間抜けだなあ、と思いながら押し入れを開けると、さらに
大きな笑いが起きた。
笑い転げる幹部たちの中で、水木と笠松が唖然としたように立っ
ていた。
良く見ると頬が引き攣っている。笑いをこらえていたのだ。
後から聞いた話だが、てっきり脱走と思われて、一年と二年の捜
索隊が国鉄の駅まで行ったそうだ。
逆算すると幹部の部屋で丸々二時間は寝ていたらしい。肇は押し
入れの中で寝ていたことだけは合宿終了まで言わなかった。