電脳遊名人
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エピローグ   自転車の夏

  「栗山君!」と階下からおばさんが呼んだ。
   夏休みも終わりに近い土曜日の午後だった。今日はバイトがな
い。
  「はい!」と答えて部屋の戸を開け、首を突き出して階段を見下
ろすと、「変な手紙が来てるのよ」とおばさんが階下でA4くらい
の茶封筒を振っていた。封筒は二つある。
  (何だろう。ちょっとやばいのかもしれない)と思った。
  やばいというのはどういうことかというと、自宅から通学してい
る友人が、エッチな本の通販の宛先に肇の下宿を利用したりするこ
とがあったからだ。当然、肇自身のものもある。
  受け取った封筒を見ると、住所はこの下宿だが、宛名はゴア様と
なっていた。
  「あっ、これは自分のペンネームです。マンガの・・・」
  肇は、リチャード・コーベンのアングラ時代のペンネームを使っ
ていたのだ。ちなみにゴアとは血ノリとか痂とかいう意味があり、
いかにもアングラなペンネームである。
  けげんそうなおばさんを残して、部屋に帰ると急いで封を切った。
  どちらの封筒からも出てきたのはマンガの同人誌だった。一つは
横浜、もう一つは博多からだ。どちらも全国を対象とした同人誌ら
しい。
  心当りがないなあ、と思って同封してあった手紙を読み始めた。
  「貴殿の(ぱふ)に載った原稿を見て・・・」  (おお、ということ
は選に残ったか?)と思ったが、どうやら入選ではなく選外佳作と
いうお情のコーナーに一ページだけ紹介が入っていたらしい。ちな
みにこの月から「だっくす」は「ぱふ」と誌名を変えることになっ
ていた。
  とにかく「プロを目指しているなら、お前も参加せい」というこ
とらしい。それにさりげなく「女の子の同人も多い」と書いてある。
  (なかなか痛い所を突いてくるなあ)と肇は苦笑いした。
  とりあえず(ぱふ)を買ってこなければ。選外佳作でも寸評ぐら
いは載っておろう。自分の作品が、プロからどう評価されているか
見たかった。
  階段を駆け降りて、玄関の靴を三秒で履くと、肇は愛車「出前号」
を引き出して走り出した。合宿で痛めた膝は、もう完全に治ってい
る。
  駅前の本屋を目指して全速力でペダルを漕いだ。
  晩夏の日差しがじりじりと頭を焼く。髪はようやく二分刈りぐら
いにまで伸びていた。
  東海道線に架かる跨線橋が見えてきた。自転車用に斜路にはなっ
ているが、歩道橋なみの急斜面だ。いつもは半分ほど登ったところ
で自転車を降りて押していた。
  肇はサドルから腰を浮かすと、ペダルを踏んだ。
  ぐいぐいと加速する。
  (今日こそ上まで行ってやる)
  「出前号」は勢いをつけて斜路を駆け上がった。半分まで登って
勢いが落ちそうになったところで立ち上がり、一歩一歩踏み締める
ようにペダルを踏み、じりじりと登る。
  スポーツサイクルならギアを落とすところだが、あいにく「出前
号」は実用自転車だ。もともと変速ギアなどない。
  ぎしぎしと悲鳴を上げる「出前号」に、肇は心の中で叫んでいた。
  (がんばれ、がんばれ、俺もがんばる)
  ほとんど止まりそうになりながら、ついに前輪が斜路を登りきっ
た。
  (やった!俺は合宿で確実に強くなっている)
  そして、ふいに肇はこの無骨な「出前号」に強い愛着を感じてい
るのに気づいた。
  ああ、こいつは俺なんだ。
  そう思うと何だかこの自転車を褒めてやりたくなった。
  (ようし)
  ペダルに一踏み力を加えると、肇は思い切って体重を後ろにかけ
た。
  その瞬間、「出前号」はその姿に似合わず、ぐいっ、と前輪を持
ち上げると、見事なウィリー走行をやってのけたのだ。
  目の高さで回るスポークにキラキラと陽光が反射して、肇に
は「出前号」が胸を張っているように感じられたのだった。

                                              (終わり)