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第五章 「激殺!邪道拳」
夜になっても蝉の声が聞こえてくる。蝉の声自体が室温を二三度上
げているようにも感じられた。
開け放した窓の前に小型の扇風機を置いて、少しでも外気を取り入
れてようとしているが、外気自体が三十度を越えた熱帯夜である。た
いして涼しくはなるまい。しかも下宿の部屋割そのものが、二十帖ほ
どの大広間をベニヤ板で無理矢理六部屋に分けてあるため、迷路のよ
うに風が通りにくく、人の熱がこもりやすかった。そのくせ冬場には
隙間風が入ってくるのだから不思議であった。
空気が抜けにくいかわりに音は通りやすく、例えば部屋でビールの
栓を抜くと、たちどころに各部屋から学生達が「ちょっと辞書を借り
たいのですが」とか「先輩、行政法で教えて欲しいことが・・・」と
か言いながら現われて、「あっ、ビールですか」「まあ飲んでいけよ」
「ごっつぁんです」といった展開になる。辞書を借りにくるのにコッ
プ持参もなかろうと思うのだが、この下宿にはそれほどプライバシー
というものが存在しなかったということである。
とにかく豊橋の夏は暑かった。今も腕から出た汗が肘を伝って、座
り机に向かってあぐらをかいた腿の上に滴っていく。
部屋中に蚊取線香の煙がもうもうと漂っている。いや漂うというよ
りむしろ充満しているといった方が適当だろう。蚊だけではなく人間
までもがくらくらときそうであった。それでも蚊に刺されるよりはま
しだった。下宿の庭は薮蚊の基地となっていて、特に新陳代
謝が激しく二酸化炭素を大量に吐き出している肇は夜毎その集中攻撃
にさらされていたのだ。
毎朝、目を覚ますと部屋のあちこちに蚊取り線香にやられた薮蚊の
死体が墜落していた。
肇はケント紙の上に置いた折り込み広告をずらしながら一心不乱に
ペンを動かしていた。マンガを描いているのだ。折り込み広告は、手
の汗がケント紙に染み込んで墨汁の乗りが悪くなるのを防ぐためのも
のだ。
鉛筆の下描きにガラスペンで輪郭線を入れていく時が一番楽しかっ
た。下描きに命を入れてるような気がする。
現在描いているマンガは、「暗黒の美神〜シスターダークネス」と
いう十六ページの短編SFホラーだった。
多くのマンガ家同様、手塚治虫の模写から始めた肇なのだが、現在
の絵のタッチはむしろ板橋しゅうほうとか寺沢武一などのようにアメ
リカンコミックス志向の強いものになっていた。当然、大きめのコマ
運びで、ぎっしりと背景を描き込んだものになっている。
一部のマンガ家を除いて、大半の日本のプロは手塚治虫の呪縛から
抜け出ることができなかった。ルーツを辿ると、そのすべてが手塚か
彼の弟子にぶつかることになっている。
劇画ではそれが、さいとうたかおと白土三平にかわるだけだ。だか
ら絵に関する限り、肇は日本のマンガを模倣することはやめていた。
マンガはやはり絵だと思っていた。単に物語を語るなら、それは小
説でも構わない。マンガで語るのは、マンガでなければならない、何
かがあるはずだからだ。そしてそれが絵だと思っていた。だからこそ、
肇は人真似の絵がらをきっぱりとやめたのだった。
絵がらのオリジナリティということでは、肇は「さよならニッポン」
という連作を描いた大友克洋に注目していたが、どうせ遠からず「大
友そっくり」の絵を描く新人が出てくるんだろうなと思っていた。
絵がらには著作権がないからだ。肇は、プロである寺沢とか板橋の
作品の中にさえ、フランク・フラゼッタ、ロジャー・ディーンやボリ
ス・ヴァレイホーの構図のパクリを見つけていた。
絵がらでは手塚治虫から遠ざかろう遠ざかろうとしていた肇だが、
ストーリーテリングに関する限りは、終始一貫して手塚信者だった。
なにしろ、手塚治虫のSF的アイデアはすべてオリジナルなのだ。か
なり小説を読み込んで、映画も見まくっている肇には、多くのマンガ
の元ネタが見えてしまうが、手塚治虫の作品にはまったく元ネタが存
在せず、むしろ元ネタにされる方だった。
今、肇が描いている作品も、タッチは海外志向だが、そのストーリ
ーは手塚の「空気の底」「ザ・クレーター」などの短編集に通じるS
Fマインドだった。
主人公の男は荒涼たる惑星の上を彷徨う遭難者だ。粗末な衣服と僅
かの食料しかなく、必然的に絵においては彼の筋肉を描き込む必要が
あった。おかげで肇は自分を鏡に映して、何枚もデッサンをとった。
ダビッド社のデッサン用テキストまで買っていた。むしろそ
ういう絵が描きたいがためのストーリーであるといってもよかった。
また、今回は人物などを立体としてリアルに表現するため、影を強
調したかった。そのため舞台となる惑星は、日差しの強い灼熱の星と
し、意図的に黒と白のコントラストのきつい、くっきりとした画面構
成を狙った。
ストーリーは次のようなものだ。
宇宙で遭難した男は、惑星上にある人類の中継ステーションまで旅
をする。その途中、原住民に追われた美女と出会う。このあたり高校
時代に読んだC・L・ムーアの「ノースウェスト・スミス」の影響だ。
松本零士のイラスト入りの早川SF文庫である。
原住民は、その女を殺すよう忠告するが、主人公はとりあわない。
やがて一夜の契りの後、女は死んでしまうのだが、実はその時、男の
肉体には卵が産み付けられているのだ。
翌日、仮死状態となった男の体は変形を始め、やがて双子の娘が生
まれる。娘たちは男の体を食って急速に成長し、男の旅を続ける。中
継ステーションについた娘たちは、そこの二人の駐在員を見てにっこ
り笑って舌舐めずりをしてエンドマークとなる。AIPのB級SF映
画だとこのエンドマークがどろりと溶けて「?」マークになるところ
だろう。
これは狩人蜂が獲物を仮死状態にして卵を産み付けることにヒント
を獲たホラー色の濃いSFだった。
十六枚という枚数も、アメリカのコミック雑誌に掲載されている作
品の長さから割り出したものだった。
この制作は集中できた。合宿までの不安感を紛らわしたかったのか
もしれない。何しろ夏合宿は何年かに一度は必ず脱走者が出るぞ、言
われるほど過酷だと聞かされていたからだ。
生まれて初めての応募先は「だっくす」というマンガ雑誌を想定し
ていた。同人誌に毛の生えた程度の雑誌だが、それでも一応全国誌だ
った。肇には雑誌が異端であればあるほど浮上のチャンスが高いよう
に思えたからだ。
マンガに関するかぎり、肇は本当の一匹狼だった。
大半のマンガ家が同人誌から出発しているが、肇は一切関わらなか
った。確かに地元の同人誌などを手にする機会は多かったが、どうし
てもなじめないものがあったのだ。
原因の一つは、同人の多くがまったくプロへの意欲を持っていない
ということだ。
絵は描き慣れているが、その絵は既存のマンガ家の亜流に過ぎず、
大半の作者についてどのマンガ家の信者か指摘することができた。ス
トーリーテリングに感しても、まったくお寒い限りだ。九割以上が有
名作品の下手なパロディで、中には同じ同人の作品をパロデ
ィ化したものさえあった。すべて内部で完結していて、外に溢れるエ
ネルギーが感じられないのだ。
数少ないオリジナルストーリーは決まって「ボーイ・ミーツ・ガー
ル」の女々しいラブコメディで、恋愛と縁のない肇は、お前ら恋愛以
外に考えることないんか、と腹立たしくなったほどだ。
厳しく言えば(プロごっこ、出版ごっこ)なのだ。
その反動で、肇の絵はますます海外志向になり、ストーリーはダイ
ナミックなものになった。
しかし、まだうまくはない。絵がこなれていないからだ。一枚につ
き二日はかけた。つたない技術でも時間をかければ何とかなると思っ
ていたし、事実何とかなった。
スクリーントーンは高かったので、二十パーセントと八十パーセン
トのものをちびちびと使用していたが、今回の作品ではあまり使わず
にすみそうだ。
ペンはGぺん、かぶらペン、硝子ペンの三種類と、手製の竹ペンを
ベタ塗りに使用し、場合によってはからす口とロットリングを使用し
ていた。
(あと三枚か)
残りページのコマ割はすべて終了していた。あとはストーリーの起
伏にあわせて、各コマ内の影を考えねばならない。
下書きノートのコマに鉛筆で仮想光線の向きを色々と矢印で引いて
みた。
アップのシーンで、どうしても描いたキャラクターの後ろから光を
当て、逆行にしたくなった。
肇は立ち上がると、手鏡を持って電灯の下へ立った。
鏡をのぞきながら角度を替えてみる。
小さくうなずくと机に向かい、ざっと顔をスケッチしてみた。おお
まかな頭蓋骨を描き、皮にあたる輪郭線を描いてみる。
影のトーンはおおよそ二種類必要だろう。真影の部分が黒ベタ、地
面からの照り帰しで半影になる部分が濃淡二種類、あと輪郭近くのハ
イライトはホワイトで充分だ。バックは場合によっては放射状の効果
線を入れてもよいと思った。
肇の技量ではなかなか難しい。それでもやってやれないことはない。
少なくとも、そういった努力の積み重ねで、高校時代から比べると飛
躍的に上達はしていたのだ。
だが、こういった努力がいったい本当に実るときが来るのだろうか。
表に出ることなく埋もれてしまうのが大半なのに、何故こんな努力
をしなければならないのだろうか。
(考えないことだ)と思った。
人間は時として損得に関する思考を停止して、突っ走らなければな
らない時がある。そんなことを考えるようになっていた。
*
高校時代の友人たちと会うのは四カ月ぶりだった。浪人しているか
ら、卒業以来一年と四カ月なのだが、水野も滝も桜井も、つまり肇と
一緒にマンガを描いていた三人はそろって浪人し予備校まで同期生だ
った。だから四カ月ぶりなのだ。
四人は夏休みを利用して、下宿している桜井の元に集合していた。
肇にとっては合宿の一週間前にあたる。
桜井の下宿で焼肉をやりながらビールと酒を飲んでいた。もう十時
を回っている。
テレビでは戦争映画をやっていた。終戦記念日が近いせいだろう、
東宝の八・一五シリーズの一つだった。
肇の持参したマンガ原稿を見ながら、「まだやっているんだな」と
桜井が感心したように言った。
「栗山は凝りだすと、とことんだから」と水野。
「しかし、上達したね」と滝が感心して言った。
三人がマンガを描くのをやめていると聞いて、肇は少し寂しかった。
彼らがマンガを描き始めたのは高校二年の時だった。たまたま読ん
だ「COM」という雑誌のバックナンバーに触発され、四人でSFマ
ンガのリレー競作を始めたのがそもそものきっかけだ。しかし、「C
OM」自体はその時すでに廃刊になっている。
四人とも、その時までペンと墨汁という道具を使用した本格的なマ
ンガを描いたことがなかったが、全員美術クラスを選択していて美術
的センスは悪いほうではなかった。マンガの付き合いの前から一緒に
展覧会などに行ったり、栄町や伏見の画廊を冷やかしたりす
る仲間であった。おかげで初めてにしてはかなりのものが描けたので
ある。それがまた励みになる。だからまた描く、その繰り返しだった。
なにしろ滝などは県芸大への進学を本気で考えていたほどだから、
緻密な絵を描かせればプロも逃げ出しそうだった。
百三十枚ほど描いたが、四人の絵はどんどん変わっていった。うま
くなると同時に個性化が進んだのだ。
高校三年になって合作はやめた。それでも受験準備の合間を縫って
四人は描き続けた。肇の場合だけは描く合間に受験の準備をした。
特に肇は、このころから「キネマ旬報」を読み始め、絵を描かない
時はシナリオを書くようになっていたのである。おそらくストーリー
テリングが好きなのであろう。文章に自信があれば小説を書いていた
に違いない。
浪人するのは当然だった。このころの受験に対する身の入れかたの
違いが四人の進学先にくっきりと現われている。
水野は地元私大の雄・南山大学へ進み、おしゃれなキャンパスライ
フと有利な就職はもう保証されたも同然である。
滝は公立の愛知教育大学へ進み、教員の世界とそこでの出世は保証
されたも同然である。
桜井は補欠とはいうものの国立一期校(当時は試験が一期と二期に
分れていた)へ滑り込み、関係者を驚愕させた強運の持ち主であった。
肇は一浪後、昨年合格していた愛知大学のみに再び合格する。縁が
あったのであろう。しかし、地味ながらも愛知大学はこのころ急速に
偏差値を上げつつあり、昨年合格した第一希望の文学部史学科には受
からず、第二志望の法経学部法学科へ入学するというオチまでついた。
とにかく大学生にはなることができ関係者をほっとさせたのである。
まったく別々の学校に進んだ四人だったが、意外なことに全員が体
育会に入っていた。
水野と桜井がヨット部、滝が山岳部、そして肇がご存じ少林寺拳法
部である。
長髪をばっさりと切った肇が一番「受け」た。長髪といっても肩ま
であるわけではないが、それでも一九七五年ごろの高校生はみんな肩
近くまでは伸ばしていたので、いきなり五分刈りというのはかなりシ
ョッキングなのである。肇が最初に床屋で「五分刈り」と言ったとき
も、店の人間は「本当にいいんですか」と何度も聞き返し、五分ほど
鋏みを入れるのに二の足を踏んだぐらいだ。
「似合うぞ、なかなか」と滝。
「怖い」と言ったのは桜井。
水野は「・・・!」と絶句した。
もっとも四カ月で変わったのは肇だけではない。ヨット部の二人は
真黒に焼けているし、山屋の滝はすっかり痩せて、おまけに小汚くな
っていた。
「何でみんな体育会なの」と聞いてみた。
うーん、と考えていた水野が、テレビの戦争映画を指差して、「き
っとあれだ、戦争がないからだよ」と言った。
「俺はね、前々から感じていたんだけど、あと五年早く生まれたか
ったよ」
何故ならば、と水野は続けた。
「七十年安保とかビートルズとかを同時代で体験できただろうから
ね」
(ああ、わかる)と思った。
肇たちの上の世代は、とにかく好むと好まざるとに関わらず、何か
につけ「燃えるもの」があったのだ。「戦う相手」があったのだ。
それは鬼畜米英であり、戦後の生活であり、民主主義であり、安保
でありビートルズであった。
「別に俺は右でも左でもないけど、ああいう祭り騒ぎがないもんな、
もう」と滝。
「今は賭けるものなど本当に何もない、まさに拓郎の歌そのままだ」
と桜井。
「君たちは幸せだ」と、ことあるごとに大人たちは、太平洋戦争や
戦後民主主義のうねりや全共闘の挫折などを語って聞かせるが、その
「挫折」すら、肇から見れば「かっこいいじゃねえか」と思えたし、
ある意味でうらやましかった。少なくとも翻弄されている時は迷うこ
とは少なかろう。
そう、肇たちは試練なき世代、挫折なき世代であり、同時に祭りな
き世代であった。
政治の時代にも数年遅れで届かなかった。学生運動にも魅力がなく、
社会主義そのものがもう「かっこよくなかった」。 第一、肇の周辺
でそういうことをしている人間たちが、魅力の乏しい奴ばかりだった
のだ。
(ああ、だからこそ彼らは政治活動をやってたのかもしれん)とさ
え思った。だいたいなぜあの若さで一つの思想に凝り固まることがで
きるのだろう。自分に自信がないせいなのか肇は一つの思想や宗教に
道を見いだすことなどできなかった。
「共犯幻想すら抱けない、遅れてきた世代ってやつだぜ」と滝。
「五年早ければ、少なくともヒッピーぐらいにはなれたかもしれん、
あのフラワーチルドレンっての」と水野がぼやいた。
みんなは漠然と、「ふやけた時代」に対する危機感を持っていたよ
うだ。
だから体育会なのだった。もしそこに体育会がなければ、きっと自
衛隊かもしれない。多分、右翼にまではなれなかったろう。
肇自身、体育会の縦社会はうんざりだが、それ以上に嫌なのが、批
評ばかりで自分では何も産み出さない、うじうじとした文化系の軟弱
者だった。そういった連中の集まったサークルの中では女子部員をめ
ぐる恋のさやあて程度のことが人生の一大事で、「絶交」だとが「友
情が終わった」だとか大騒ぎ。
そんな愚痴を聞かされたことがあったが、肇は思わず「男になれ!」
と一喝したくなったものだ。もっとも実際には何も言わなかったのだ
が心の中ではあきれていた。
四人は黙々と飲んだ。
奇妙なことに、こういう席につきものの女の話題が出てこない。四
人とも、女に関しては縁が薄そうであった。
一番最初に潰れたのは肇だった。その後、一人また一人と潰れてい
き、最後に潰れたのが滝だった。このころから滝は異様に酒が強かっ
た。だから飲むときはビールとかは早々に切り上げさせ、日本酒とか
ウイスキーをあてがって予算を低く押さえるのがこつである。
咽の乾きで目を醒すと時計は二時近かった。肇以外の三人はいびき
をかいて眠っている。
ザーザーとノイズを流し続けるテレビを消すと、缶ジュースでも買
って来るか、と立ち上がった。
トランクスの上からジャージのトレパンをはいて下宿を出た。
町はすっかり燈を落としている。それでも所々明るい窓は、受験生
でもいるのだろうか。
去年までの受験生活を思いだした。一つ一つの窓の向こうにやはり
家族がいて、泣いたり笑ったりしらけたりしているのだろうか、と考
えると不思議な気分になった。
それまで肇はそんなことを思いもしなかったからだ。
大学に入って一人暮らしをはじめたせいかもしれん、と思った。
たしか桜井の下宿から十分ほど歩いたところに、終夜営業の自動販
売機コーナーがあったはずだ。国道沿いで、トラックのドライバーや
営業車のセールスが眠気ざましに珈琲でも飲むコーナーである。
そう思って歩いていくと、深夜というのにけたたましいバイクの音
が聞こえてくる。見ると、その自動販売機コーナーに少年三人と少女
一人がしゃがみこんでいた。
三台の単車が留めてあり、そのうちの一台に乗った少年が、わんわ
んとエンジンを空ぶかしさせているのだ。
マフラーが改造してあるのだろう。とんでもない爆音で、周囲の家
はたまらんだろうなと思った。
他の三人は、「うんこ座り」をしてコーラの缶をくわえながら、エ
ンジンの音に負けないような大声でしゃべっている。
肇はゆっくりと販売機に近づいてコインを入れた。バイクの空ぶか
しがやんでエンジンの音が小さくなった。缶ジュースを買うと、プル
タブを引っ張って缶を開け、ゆっくり飲んだ。
少年たちが会話をやめてじろじろと肇を見た。まるで値踏みでもす
るかのように無遠慮な目だ。
肇も少年たちを見た。第三書館から出ている暴走族本(ぞくぼん)
でしか見たことのなかった実物の暴走族らしい。
珍しかった。
全員がパンチパーマをかけて髪は金色に染めているが、東洋人の顔
にはまったく似合わなくて、どう見ても(孫悟空だな)と思った。
館ひろしや岩城晃一の主演する東映の暴走物映画にリアリティがな
いのは、そのファッションがアメリカの暴走族を手本にしているせい
だと思っていたが、その上に、館ひろしと岩城晃一は利口そうな顔だ
ちをしているからなのだと気づいた。
「何見てんだよ」と「うんこ座り」の一人が言うと、つんっとシン
ナーの匂いがした。コーラの缶の中にシンナーが入っているのだろう。
肇は無視してジュースを飲み干した。
威嚇するようにひときわ大きくエンジンを吹かすと、「シカトして
んじゃねえよ」とバイクの少年が怒鳴った。こいつは白い特攻服を着
ている。夏だというのに首には昔の飛行兵のような白いマフラーだ。
ラリっているのだろう。喋り方が巻き舌になっていて、「シカトして
っじゃ、ねっ、よっ」と聞こえる。
そいつの特攻服を見ながら、(英霊が泣くなあ)、と思った。
「俺達を知らんのか」と特攻服がバイクに貼ったステッカーを指差
した。やたらと画数の多い漢字だらけのステッカーだった。
むっ、とした肇は「知らん。初対面だ」と言った。
四人は一瞬唖然としたが、次の瞬間には残忍な笑いを浮かべた。
このままでは喧嘩になるなと思ったが、驚いたことに心のどこかに
「それもまた良し」と考えている自分がいた。
「ぶるってるんじゃない、この子」と少女。
肇はゆっくりと背中を向けようとした。
「待てやあ」とバイクの少年が降りた。降りると同時にバイクに積
んであった棒状の物を取るのが横目に見えた。
木刀だ。
やばいな。
ゆっくりと立ち去ろうとしたが、早足に近づいてくる足音に、素早
く振り向いてにらみつけた。
(まずい)
無意識の内に、腰を落としたファイティングポーズをとっていた。
木刀の少年は一瞬立ち止り、次の瞬間「てめえ」と木刀を振りか
ぶった。
結果的に攻撃を誘ってしまったのだ。
相手の動きはのろく見えた。左にステップアウトすると木刀は肇の
右側をかすめて空を切り、勢い余ってアスファルトを、かっ、と叩い
た。
木刀を恐れて外へ逃げた肇は、偶然蹴り間合いに入っている。考え
るより早く、木刀を上段に構え直してがら空きになった相手の水月(み
ぞおち)に体重を乗せた右の足刀を蹴り込んだ。
「うっ」と腹を押さえて前のめりにうずくまろうとする顔面に、一
歩踏み出しながら逆構えで体重の乗った左ストレートを叩き込む。
確かな手ごたえと同時に、相手の鼻面が一瞬真白になったように見
えた。次の瞬間、すーっと吐き出した鼻息に霧のように血が混じるや、
ずるずると鼻水をすするような音をたてて鼻血が流れ落ちた。
(まずい)と、またしても思った。鼻を折ってしまったらしい。練
習で鼻を折った奴を見たことがあるからこれは間違いない。
白い特攻服の胸元がみるみる赤く染まっていく。右手から抜け落ち
た木刀が、アスファルトでからりと乾いた音をたてた。
がくりと膝から折れるようにして倒れる瞬間、相手の目に浮かんだ
脅えの色が、ぐさりと胸にささった。
肇はいきなりダッシュして逃げた。練習の時の倍は速く走ったよう
に思えた。
不思議と誰も追ってこない。
夜の町を駆け抜けた。
途中、何度も後ろを振り返りながら道を変えて桜井の下宿に向かっ
ていたが、どうやら道に迷ったらしい。記憶にない場所に出てしまっ
たのだ。
ちょうど小さな公園があり、肇はそのベンチに腰を降ろして息を整
えた。
まだ興奮していた。初めて喧嘩をしたのだ。
(きまったのは三級技の転身蹴りだ)と思った。
興奮していながら、それでも技術的なことには妙に冷静なのだった。
習慣とは恐ろしいものだ。
その後、相手の(鼻を折ってしまった)ということで少し嫌な気分
になった。が、同時に暴力をかさにきたあのチンピラを同じ暴力で殴
り倒したことに対して気持ちよさもある。この残忍な喜びは、傷つけ
たという嫌な気分より遥かに大きかった。相殺してなお、お釣りがく
るほどだ。
今にして思えば、自分一人だったのだから、最初から走って逃げれ
ばよかったのだ。いや缶を手にしたときからその場を離れてしまえば
いいものを、わざわざその場で飲んでいたのはなぜだ。
(なぜあんなことをしたんだ)と言葉にして自問した。
心の奥で小さな声が(知ってるくせに)と答えた。
(そうだ、「おとなしくていい子」だった俺は一度喧嘩がしたかっ
たんだ。ずっと昔から殴られるだけでなく殴りたかった・・・)
だからこんなに気分がいいんだろう。
そう気づくと、気持ち良さは半分ほどに減ってしまった。
シンナーでラリったチンピラを殴り倒して、勝った負けたもないも
んだ。
刀を持てば切りたくなる、銃を持てば撃ちたくなる。覚えた技を使
ってみたかったのだ。自分の中のそういった「卑しさ」に直面して、
気持ちの良さは消えた。
(馬鹿なことをした)とあらためて思った。怪我をさせたことより、
そんな自分に対してうんざりした。
トレパンの膝に一滴だけ血が飛んでいる。
「取れんな、これは」とつぶやいた。
街のどこかで犬が鳴いていた。